今月の対談「いい人いい話いい氣づき」

2018年12月 「田辺 鶴瑛」さん

田辺 鶴瑛(たなべ かくえい )さん

昭和30年11月22日、北海道函館市生まれ。札幌藤女子短期大学別科卒業。18歳のとき母が倒れて介護をすることに。結婚、出産、子育てのあと、義母が倒れ3年間の介護。平成2年に漫談師・田辺一鶴に弟子入り。平成15年真打昇進。平成17年認知症の義父を在宅介護。平成23年に在宅で看取る。

『暗く深刻にならない。つらい介護を笑いに変える』

まじめに介護をしていると心身ともにクタクタになる

中川:
『田辺鶴瑛の介護講談』という映画を拝見しました。介護というのは、とても深刻な問題で、介護で疲弊してしまっている人も多いかと思います。でも、鶴瑛さんのお話をうかがっていると、こういう介護もあるんだと元気がもらえますね。
この映画を作られた荻久保則夫監督には、この雑誌の対談(2015年3月号)にも出ていただきました。もともとお知り合いだったのですか?
田辺:
いえいえ。娘の銀冶(ぎんや・講談師の田辺銀冶)が、荻久保監督が作られた『かみさまとのやくそく』という映画のファンで、監督にお会いしたときに、母が「介護講談」をやっているとお話ししたら、とても興味をもってくださいました。それがきっかけです。
中川:
介護講談では、実際のご自分の介護体験を語っておられるわけですね。
田辺:
そうですね。18歳から3年間、脳動脈瘤で入院した実母を。31歳から3年半は義母の介護。そして、2011年末までの6年間は、このお話の主役でもある義理の父親。じいちゃんと呼んでいますが。
中川:
3人ものご家族を介護したというのは珍しいのではないですか。
田辺:
講談を聞きに来てくださった人の中には4人とか5人の介護をしたという方もおられましたよ。
そういう人はだいたいやさしい人で、要領のいい人は介護からすっと逃げてしまいます。逃げ足の遅い人が、介護をする羽目になってしまいます(笑)。
まじめに深刻に介護に取り組むと疲れてしまいますね。私も実母と義母のときはまじめにやりました。もうクタクタになってしまいました。
なんで自分がこんな思いをしないといけないのだろうとか、だれも手伝ってくれないとか、愚痴や不平、不満だらけで、感謝のかの字もなかったですよ。
中川:
大変だったと思います。自分を犠牲にしながらやらないといけないのが介護ですからね。
田辺:
がんばりすぎていましたね。ばあちゃんを元気にしてあげようと玄米を食べさせたりね。ばあちゃんは「おいしくない。食べたくない」と困った顔をしていました。柔らかなうどんが大好きな人でしたから。
うどんを作るにしても、細くて柔らかいものだったら満足してくれるのに、あれこれと工夫してね。本人がやってちょうだいと言ってないのに、余計なことをしてしまうんですね。
世間がよくがんばっていると思ってくれることをしようとするわけです。いい嫁だと思われたいし、感謝もされたい。でも、うまくいかない。拒絶されたりする。そうなると、こんなにがんばっているのにとイライラしてしまう。
中川:
完全に悪循環ですよね。
田辺:
ヒステリーを起こして仕事から帰った夫の頭にソースをぶっかけたこともありました(笑)。夫はきょとんとしていました。私は猛反省ですよ。自己嫌悪になって、仮病を使って布団にもぐりこみましたよ。
中川:
それがお義父(とう)さんの介護のときはがらりと変わったわけですね。お義父(とう)さんは、ずいぶんと好き勝手をして生きてきた人だったようですね。
田辺:
仕事人間で休みの日はゴルフと麻雀。それに(小指を立てて)これですね。だから、ばあちゃんとは長年、口もきかなかった。でも、夫が「親父が一番苦労をかけたんだ。罪滅ぼしをしたら」と言ったら、じいちゃんは反省したのか、病院の送り迎え、背中のマッサージを毎日しましたね。
ばあちゃんは、最初は反発しましたが、最期は「ありがとう」とじいちゃんにお礼を言って亡くなりました。それを見て、「ああ、いろいろなことがあったけど、ばあちゃんはじいちゃんのこと愛していたんだ」と、心がほっこりとしました。罪滅ぼしをすると、氷がとけるように、怒りも消えていくんですね。
じいちゃんとは、ばあちゃんが亡くなった3年後まで同居していました。だけど、静かに老後を過ごすような人ではなくて、高齢者のお見合いの会で知り合った女性と同居するために家を出ていきました。
そして14年後、認知症になってわが家へ帰ってきたんです。

<後略>

(2018年10月26日 東京日比谷松本楼にて 構成/小原田泰久)

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