今月の対談「いい人いい話いい氣づき」

2008年6月 「野口 勲」さん

野口 勲(のぐち いさお)さん

1944年(昭和19年)青梅に生まれる。すぐに飯能に移住。1965年成城大学を中退し、虫プロ出版部に入社、手塚治虫担当となる。1967年虫プロを退社し、種屋をやりつつ編集の仕事に携わる。1974年から野口種苗研究所の仕事に専念。伝統野菜消滅の危機を感じ、固定種の販売をするとともに、その大切さを啓蒙している。

『地球上の生命よ、もっと賢く。小さな種を通して火の鳥の願いを伝えたい』

大学を中退してあこがれの手塚治虫担当に

中川:
はじめまして。今日は、よろしくお願いします。飯能にははじめておうかがいしました。駅前にプリンスホテルがあったり、西武とはゆかりの深いところなんですね。
野口:
ゆかりも何も、もともと、西武鉄道の前身である武蔵野鉄道の本社は飯能にあって、飯能・池袋間というのは大正時代から走っています。最初は、巣鴨まで行く予定だったらしいのですが。
中川:
そうでしたか。存じ上げませんで、失礼しました。野口さんは、飯能でお生まれになって、確か、おじいさんの代から種屋さんをやっておられるとか。
野口:
そうです。ぼくは3代目で、ずっとこの商店街で店を出していたのですが、私どものような零細な種屋は経営も大変だし、インターネットでの商売も増えてきたので、もっと山の方へ引っ越すことが決まっています。今、新しいお店を作っていて、完成次第、引っ越します。
中川:
野口さんは、有名な漫画家の手塚治虫さんのところでお仕事をされていたそうですね。手塚さんとのかかわりからお話をうかがってみたいのですが、子どものころから漫画はお好きだったのですか。
野口:
大好きでした。特に、手塚漫画が好きでした。小学校のときから、夢中になって読んでいました。いろいろな漫画がありましたが、もう一度読むのに耐えられるのは手塚治虫だけでした。何回読んでもあきない。読むたびに新しい発見がある。今でも、ああこんなことだったんだと思うことがありますね。小学生のころは、手塚先生のアシスタントになるのが夢でした。でも、高校生くらいになると、自分に漫画を描く能力がないことがわかってきました。それで、アシスタントではなくて、漫画誌の編集者になって、手塚先生の担当をしようと、方向転換をしたわけです。
中川:
大学は文学部へ行かれて、中退して虫プロへ入社されますよね。夢がかなったわけですけど、種屋さんの跡を継ぐことも期待されていたと思うんですね。二代目のお父さんは反対されたんじゃないですか。
野口:
親父は、農業大学を出て、種屋の跡を継げと言っていましから、がっかりしたでしょうね。大学2年のときに、虫プロの社員募集があったのでとりあえず応募して話を聞いたら、ぼくが望む出版の仕事ではなくて、そのときはお断りしたんです。しばらくしてから出版部の募集があったので、それに応募して採用されました。希望通りに手塚先生の担当をさせてもらったのですが、初日から徹夜でした。鉄腕アトムのアニメがテレビで放映されていたころで、とにかくハードな毎日でした。手塚先生というのは、間違いなく天才でしたね。そばにいても、驚かされることばかりです。それに、子どもみたいに無邪気なところがあって。ああいう人のそばにいられたというのは、ぼくにとっては、大変な財産になりましたね。

<後略>

(2008年3月19日 東京都大田区の 大石さんのご自宅にて 構成 小田原泰久)

この対談の続きは会員専用の月刊誌『月刊ハイゲンキ』でご覧いただけます。
月刊誌会員登録はこちら
この対談の続きは会員専用の月刊誌『月刊ハイゲンキ』でご覧いただけます。
月刊誌会員登録はこちら