先代の中川会長との最初の出会いは、1988年上海の氣功シンポジウム
中川会長が亡くなって丸15年だとお聞きしました。早いものです。朝早くに、私の病院までノシノシと歩いてこられる姿が思い出されます。知り合いが入院しているときには、治療のためによく訪ねて来られました。でも、忙しいものだから、さっと治療してさっと帰って行く。私もバタバタと忙しくて、顔は見ていても話ができなかった。それでも、氣のつながりは感じていましたから、目と目であいさつをして、それだけでお互いに十分に話をしたような気持ちになれたように思います。
中川会長に初めてお目にかかったのは、1988年に上海で開かれた国際氣功シンポジウムのときでした。私は、1982年に病院を開設しました。院内に道場がある変な病院でした。道場は、患者さんたちと氣功をやるため、どうしてもほしかった施設です。
88年というと、氣功をやる人も少しずつ増えてきた時期だったように思います。氣功をやっている病院ということで、世間からも少しずつ注目されてきていて、上海のシンポジウムにも、ぜひ参加してほしいと主催する人から頼まれました。氣功と言っても、私の場合は、和製の氣功でした。本を読んだり、中国の氣功関係者にお話を聞いてわかったことは、「調身(姿勢を正す)」「調息(呼吸を 整える)」「調心(心を落ち着かせる)」という要素がそろっていれば氣功だということでした。それなら、日本にもたくさんあるわけです。ラジオ体操だって、調身、調息、調心を意識してやれば、立派な氣功です。ラジオ体操とは言わなくても、日本の武術や健康法の中には、氣功の部類に入れてもいいものはたくさんありました。私がやったのは、調和道呼吸法、八光流柔術、楊名時太極拳でした。これで、十分だと思っていたので、わざわざ上海まで行くというのも、あまり気乗りしなかったというのが正直な気持ちでした。
氣功というと中国が本場だから、中国で勉強し、中国のやり方にならったものが正統の氣功だというような風潮がありました。でも、私は最初から、いくら本場だからと言っても中国にこだわる必要はないだろうと、気楽に構えていたわけです。その点は、中川会長とよく似ているかと思います。中川会長も、中国で触発されて氣功を始めたことは間違いないでしょう。でも、中国流ではない、中川流を作り上げ、ひとつの大きな勢力を作り上げました。当時、外氣功は、内氣功をしっかりとやらないとできないというのが常識でした。それを、「一週間で氣が出せる」という、従来の枠から見るととんでもなく 非常識な講座を下田で始めたわけです。あのときは相当の風当たりがあったはずです。それでもやり続けた「志」には感服します。
アカデミックではなかったけれど、すごい熱気が上海から発信された
1988年のお話に戻します。頼まれるまま上海へ行くと、日本から参加した人は、どちらかと言うと、アカデミックなにおいのしない方々でした。中川会長も、ハイゲンキを取り出して、これで万病が治るのだとデモンストレーションをやっておられました。私は「大道芸人みたいだな」と、そんな印象で中川会長の発表を見ていた記憶があります。 中国側からは、林厚省さんという、氣功麻酔で有名になった氣功師も参加していました。
シンポジウムの何日目かには、市内の病院へ連れて行かれて、そこで氣功麻酔による手術を見学することができました。天井がガラス張りになった手術室があって、私たちはそのガラスを通して、手術をじっくりと見学できるわけです。日本では考えられないことでした。とにかく、種々雑多な人が集まったシンポジウム で、熱気はすごかったし、今でも私の中には強烈な印象として残っています。私は上海という町が大好きです。今は大都会になっていますが、当時は、高層ビルが建ち始めたころで、古き混沌の時代の上海がまだ残っていました。
上海には、養生の氣が流れていると、何かの本に書いた覚えがありますが、あの町にいると、いのちにエネルギーが充電されるような気になってきます。そういう上海という場の中に、アカデミックではないものの、だれにも負けない大きな志をもって氣功に取り組む人たちが集まったことは、重大な意味があったと思います。混沌と混沌が混じり合ってさらなる混沌を作り出すという、強烈なエネルギーがあの場からは発せられていたのではないでしょうか。実際、中川会長はじめ、あのシンポジウムに参加した方々のうちの何人かは、日本へ帰ってから氣が出るようになって、非常に強烈なインパクトをもって日本に氣功を根付かせることになりました。氣功の夜明けという表現が、あのシンポジウムにはぴったりのような気がします。その後、中川会長とは、池袋で再会しました。「ぜひ会って話がしたい」ということで出かけて行ったときに、「実は、突然、氣が出るようになった」と聞かされました。それも、夢に白髭の老人が出てきて、「明日から氣を出して治療しろ」と言ったというわけです。私は、この話にとても興味をもちました。たとえば、剣の修行者が、あるところまでレベルアップすると、夢で奥義を教えられて、名人になるという話が、昔からありました。だから、中川会長が夢を見て氣を出すようになったというのも、あり得る話だなと思いながら聞いていたのです。
私たちのいのちは、300億年の遥かなる旅の途上にある
それに、場の思想から言っても、夢でお告げを受けるというのは、決してオカルトではありません。私たちの体を細かくしていくと、60兆個の細胞になります。さらに細胞は細胞核につながり、染色体、遺伝子とどんどんと小さくなっていきます。逆に、極大の方向に見ていけば、細胞から臓器、さらには人体、地域、地球、宇宙、虚空へとつながっています。私たちのいのちを空間的に見ると、極微の遺伝子から極大の虚空まで広がりがあるのです。時間的に場を見るとどうなるでしょう。
私たちのいのちは、両親からいただきました。両親は、さらにその両親から、またその両親がいて… というふうにさかのぼれます。その大本はどこかと言うと、150億年前のビッグバンによって宇宙が誕生する以前の虚空にまで行き着きます。つまり、私たちのいのちは、ビッグバンから150億年かけてこの地球上にやってきて、今、ここで生きているわけです。
そして、やがてこの肉体が滅びると、私たちのいのちのエネルギーは、また150億年かけてもとの虚空に帰っていきます。300億年の壮大な旅です。私たちは、このような遥かな循環の中の旅人ですから、今もっている肉体だけで自分を語ることはできません。さまざまなつながりの中で生きているのです。ですから、中川会長に、「手から氣を出せ」というメッセージが、夢という形で、どこからか現れてきても、何も不思議ではありません。きっと、あのときの 中川会長にもっとも必要としていたメッセージが届けられたのだと思います。
東大名誉教授の清水博先生は、われわれは場の営みの中で生かされているとおっしゃっています。そして、その「場」は「コヒーレントな場」でなくてはいけないと続けています。コヒーレントな場というのは、整合性のある場、調和のとれた場という意味です。つまり、共存とか共生という関係の成り立つ場ということです。コヒーレントな場では、「主客非分離」ということが重要になってきます。主体と客体が分離しないで、対等の立場で絡み合うということです。「俺は俺、お前はお前」ということではなく、「我」と「汝」を区別せずに、お互いの存在を認め合いながらコミュニケーションの石垣を築いていくようなあり方です。こういった心境に近づいたときに、たとえば中川会長が体験した夢からのメッセージや剣の達人が夢で教えられるといったことが起こってくるのではないでしょうか。自分だけの場ではなく、地球であったり、さらには宇宙であったりというとてつもなく大きな場とのつながりをもつことができれば、不可能だと思われていたことがいとも簡単にできてしまったりするのだと思います。虚空とつながれば、もう人間でいる必要もなくなるでしょう。いかに場を共有できるか。氣功が求めるところです。「氣は、病気治しのためにあるのではない」と、中川会長は言っておられたようです。私も同感です。中川会長は、かけがえのない戦友でした。そして、今でも、彼の場と私の場はしっかりとつながっていると信じています。
- 帯津良一先生プロフィール
- 1936年埼玉県生まれ。東大医学部卒業。東大病院第三外科医局長、都立駒込病院外科医長をへて、1982年帯津三敬病院を開設。2004年春、東京・池袋に統合医学の拠点、帯津三敬塾クリニックを開設。現在、帯津三敬病院名誉院長、日本ホリスティック医学協会会長などを務めている。