今月の対談「いい人いい話いい氣づき」

2006年8月 「渡邊 槇夫」さん

渡邊 槇夫(わたなべ まきお)さん

1923年満州撫順生まれ。1943年慶応大学在学中に学徒出陣、陸軍に入営、志願して第3期特別操縦見習士官となり南方に派遣。ジャワ、スマトラ、ジョホールなど各地を移動し、46年に復員、復学。49年朝日新聞社に入社、記者として新聞、テレビ報道に従事。93年学徒出陣50周年記念碑建立事業に参加。また勤労動員に駆り出された元女学生と元出陣学徒を集めて「戦争と学徒の青春を考える会」を主宰した。

『次世代を担う人々に伝えたい 「学徒出陣」のこと』

男性は学徒出陣、女学生は勤労動員…学校は空っぽに

中川:
国立競技場のマラソン門の脇に学徒出陣の記念碑があり、その建立に渡邊さんがご尽力されたと知り、今日は「学徒出陣」のことについてうかがいたいと思っておじゃまさせていただきました。60年前の太平洋戦争の際には、ペンを捨て戦地に赴いた若い方々が大勢いらした、そういうことを私たちは忘れてはいけないと思うのです。
渡邊:
テレビの戦争に関する番組などで、雨の中を大勢の学生が行進しているフィルムを今までに何度も放映しているので、ご覧になっていらっしゃると思いますが、あれが1943年10月21日に東京の明治神宮外苑競技場…現在の国立競技場ですが、そこで行われた、学徒出陣の壮行会です。
壮行会は全国各地で挙行されましたが、特にこの日の壮行会は、東京、神奈川、埼玉、千葉から77校の学生が集まり分列行進し、それを女学生や後輩男子学生、家族たちが観客席を埋め尽くして見送った大規模なものでした。行進した学生数は伏せられていましたが、約3万5千人といわれています。
あの出陣学徒の総数は何人だったのか、実は政府機関には記録がないので、はっきりとは分かっていないのですが、陸軍8万、海軍2万人のあわせて10万人というのが標準的な概数とされています。戦死者の数はさらに不明で、概数さえ示されていません。実数は敗戦時に、書類と共に焼却されたからだといわれています。
中川:
不明というのは、胸が痛みますね。1943年というと、開戦が1941年12月ですから、学徒出陣は開戦の2年後ですね。
渡邊:
そうです。私はちょうど徴兵適齢の満20歳でしたが、それまでは、大学、予科、専門学校などに在学中の学生は卒業するまで徴集を延期されていたのです。戦局は厳しさを増し、ガダルカナル島からの撤退、山本五十六連合艦隊司令長官の戦死、アッツ島をはじめ太平洋の島々での玉砕が続いていました。
そんな中で兵役に服さずにいる男子学生の姿は、目障りに感じていた人たちもいたようです。国民の間にも、特に生産力である男子を軍にとられている農、山、漁村では学生に対する不平等感と不満が暗い影となって広がって風当たりが強まっていったように思います。そして、1943年6月25日に戦力増強のための学徒総動員が閣議で本決まりになりました。
女性に対しては、9月には14歳から25歳未満の未婚女性で勤労挺身隊を編成することになりました。男を軍の下に入れて、空いたところを女で埋める、そういうことです。そして、男子学生に対する兵役法上の徴集延期の特典が10月2日についに文科系に対してだけ停止されました。そのわずか2ヵ月後の12月に学生たちは一斉に入隊させられたのです。
中川:
渡邊さんは、そのお一人だったのですね。
渡邊:
そうです。私は慶應義塾大学の経済学部1年でした。2年前の開戦の日、登校したとき、教室は灰色に見えました。私は米国と戦えば負けると思っていたので、これで「死」に向かって行かなくてはならなくなるのだと覚悟をしました。自分の「死」を考えるのは初めてのことです。「死」への階段を一段上がったわけです。
そして、43年9月の学徒の一斉入営が発表されました。この時「いよいよ自由を奪われるのだ」「死に直面することになるのだ」と悟りました。「死」への階段2段目に立ちました。ですからこの後の事態の激化には、心の動揺はそう起きなかったと思っています。
塾長の小泉信三先生は慶應義塾の壮行会で「国のため、しっかり戦ってきてくれ。そして、またここに帰って来い」と言ってくれました。他の大学でも同じで、「帰って来い」「また会おう」という、このなんでもない言葉が出陣学徒には心の大きな支えになったのです。
中川:
「また、ここに帰って来い」…送り出す先生方もどんなお気持ちだったことか。
渡邊:
12月24日には、徴兵適齢が1年引き下げられて19歳となりました。満州事変勃発以来すでに10年。男子の最後の集団である学生が学徒出陣でいなくなってしまった後に残ったのは、子供と女性、男は年を取った人ばかりです。それまでも、一般工場で働いたり、畑を耕したりして生産を支えてきた女性たちは、男たちが担当していた部署の穴埋めに総動員されました。女学生も中学生も、行学一体の標語のもとに勤労動員に駆り出されて武器や弾薬の製造など軍事産業に従事し、学校で勉学どころではなくなりました。
まもなく理科系の学生も軍需工場に動員され、翌年の44年10月には兵役は17歳からとなり、それ以下でも志願すれば軍務につけるようになりました。こうして、学校は空っぽになりました。
太平洋戦争に入る前から、飛行機や武器を作るからと、お寺の鐘、銅像、繊維関係工場の機械などから、底の抜けたヤカンや鉄の火鉢、錆びた針金や釘にいたるまで、徹底的に各家庭から金属が集められました。そのように材料が何もかもない状況で、まともな飛行機など製造できますか。軍需用燃料もなくなり、松の根から航空燃料油を採るということで、農民、それに学徒兵たちも松の根掘りに動員されました。

<後略>

(2006年5月22日 埼玉県の渡邊槇夫氏のご自宅にて 構成 須田玲子)

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