今月の対談「いい人いい話いい氣づき」

2011年6月 「森田 拳次」さん

森田 拳次(もりた けんじ)さん

昭和14年(1939年)東京生まれ。生後3ヶ月で奉天(今の瀋陽市)に渡る。7歳のときに舞鶴港に引揚げる。小学校4年生のころから漫画を描き始める。17歳で単行本デビュー。「丸出だめ夫」で第5回講談社児童漫画賞受賞。ほかに、「ロボタン」「珍豪ムチャ兵衛」など。31歳のときに、アメリカへヒトコマ漫画の修行に。以来、ヒトコマ漫画の道へ。数々の賞を受賞している。

『丸出だめ夫、戦争体験を伝えるため 「中国引揚げ漫画家の会」を結成』

満州から引き揚げてきた漫画家が集まり、体験を伝える

中川:
森田先生は、終戦直後に満州から引き揚げてこられたそうですが、その体験をお聞きしたいと思ってうかがいました。宜しくお願いします。引き揚げてきたのは、何歳くらいのときのことですか。まだ、小さい時期ですよね。
森田:
僕は、昭和14年生まれですから、7歳のときです。小学校1年生でしたかね。
中川:
昭和14年のお生まれですか。うちの母親と同じですね。母は、樺太からの引き揚げ者です。大変だった話はよく聞きました。森田先生も、辛い思い出がいっぱいあるんでしょうが、漫画家には、満州からの引き揚げ者がけっこうおられて、「中国引揚げ漫画家の会」というのをお作りになったそうですね。
森田:
そうなんですよ。戦後50年を迎えた1995年に結成しました。中国のことは親に聞けばわかるだろうと思っていましたが、その親が亡くなる年齢になってきましてね。僕の親も亡くなって、中国での住所とか帰国のルートもあいまいになってしまったわけです。それで、自分たちの体験を漫画で残せないだろうかということになって、会を作りました。「天才バカボン」の赤塚不二夫さんも、僕と同じ奉天(今の瀋陽市)に住んでいました。年齢は4つ上ですけどね。面白いのは、後からわかったことですが、赤塚さんと「あしたのジョー」を描いたちばてつやの家が500メートルしか離れてなくて、同じ小学校へ通っていたんですね。
中川:
何か運命的なものを感じますよね。それで、先生と赤塚さん、ちばさん、ほかには、どういうメンバーで結成されたんですか。
森田:
いつも飲んで騒いでいる仲間なので敬称は略しますね(笑)。2008年に90歳で亡くなりましたが、「フイチンさん」という名作を描かれた上田トシコ、和光大学の教授だった石子順、「釣りバカ日誌」の北見けんいち、「総務部総務課山口六平太」の高井研一郎、「ダメおやじ」の古谷三敏、動物文字絵をやっている山内ジョージ、アイヌのことなどを描いている横山孝雄、それに赤塚、ちば、僕の10人ですよ。「天才バカボン」「釣りバカ日誌」「ダメおやじ」、それに僕の「丸出だめ夫」でしょ、代表作にバカとかダメがついている漫画家ばかり(笑)。漫画には、ストーリー漫画とギャグ漫画があるんだけど、僕たちのメンバーは、ギャグ漫画家ばかり。ストーリー漫画を描いているのはちばだけですよ。
中川:
でも、漫画というのは、年齢に関係なく、受け入れられやすいですよね。ギャグ漫画だと、深刻な話も、笑いで軽くすることができますしね。先生の描かれた「ぼくの満洲」という漫画も、上下巻ある長い話でしたが、さっと読めました。それでも、とても印象に残るし、当時の満州の状況や引き揚のことがよくわかりました。あのころの影響というのは、先生にとっても大きいんでしょうね。
森田:
まあ、いろんなことがありましたからね。でも、みんなギャグ漫画家ですから、何でも笑いにしようとする。困ったものですよ(笑)。笑いなんていうのは、習って覚えるものじゃないでしょ。いつも、頭を笑いのモードにしておかないといけない。結局、バカかアル中しかギャグ漫画家にはなれない(笑)。
赤塚さんのお父さんは憲兵だったんですね。その父親がモデルになっているのが、「天才バカボン」に出てくるピストルを撃ちまくるおまわりさんですよ。それに、流行語になった「これでいいのだ」というセリフがあるでしょ。あれは、中国語の「没法子(メイファーズ)」からきているんですよね。しょうがないという意味ですが、赤塚さんも苦労した時期があって、そのころ、よくこの言葉をつぶやいたりしていたみたいですね。そんな経験もあって、どんなことがあっても、明るく「これでいいのだ」と肯定していこうというのが彼の生き方になったんでしょうね。お葬式で配られた彼の最期のメッセージにも、「これでいいのだ。さよならだ」と書かれていましたから。
中川:
2009年に南京で「私の八月十五日展」というのを開きましたよね。森田先生たちが、戦争の記憶を伝えようと、当時の思い出を一枚の漫画にして、日本各地で展覧会を開いていたのを中国でやったわけですよね。でも、何と言っても、南京ですからね。「日本」「戦争」とくれば南京大虐殺ということで、反日感情を刺激するような企画だと思います。よくそんなことを企画したし、実現させたと感心しますね。
森田:
決死の覚悟ですよ(笑)。参加した漫画家仲間の中には、家族会議を開いたのもいましたから。私も、生卵をぶつけられるくらいはあると覚悟していました。でも、生卵よりも、大好きなゆで卵の方がいいと、またバカな冗談を言っていましたが(笑)。
中川:
「少年たちの記憶」とか「私の八月十五日」といった画集が出ていますが、これがもともとのきっかけですか。
森田:
順を追ってお話ししますね。「中国引揚げ漫画家の会」が結成されたのが1995年です。そのときに、ぼくたちは満州で体験したことを絵と文字で綴った「ボクの満州―漫画家たちの敗戦体験」という本を出版しました。先ほど、会長がおっしゃった「ぼくの満洲」の上下巻は、ぼくが描いた漫画で、また別のものです。ややこしくてすいません。
この本を読んでくださった老婦人が、「この本の表紙に描かれていたちばてつやさんの絵が、満洲で死んだ息子にそっくりだ」という連絡をくれました。当時、中国残留孤児の日本国籍取得を支援していた千野誠治氏が、この話を聞いて、「ちば氏の絵をもとに、満州で死んだ子どもたちのためにお地蔵様を建てたい」と言ってきましてね。最初、そのお地蔵様は西多摩霊園に建てられましたが、その後、もっと多くの人が訪れるところに建てたいということで、浅草寺にお願いしました。浅草寺には、毎年100件以上の建立願いが出されるようですが、私たちの願いを快く引き受けてくれて、母子地蔵尊が建てられました。「まんしゅう母子像」と呼ばれています。
ぼくらの呼び掛けで、漫画家だけでなく、作家や俳優、タレントなど、たくさんの人が資金集めに協力してくれました。
このまんしゅう母子像にはいろいろな方がお参りしてくれますが、日本に帰国した残留孤児の人たちも、中国の養父母を思いながら手を合わせてくれていると聞きました。中国の人たちは、自分たちはコーリャンを食べて、孤児たちには白いご飯を食べさせて育ててくれたという話も聞いた事があります。ありがたいことですよね。
ぼくも、ひとつ間違えば、孤児になっていたわけですから、他人ごとではありません。 そこで、ぼくたちは、中国に残された子どもたちと養父母のために、1999年に、柳条湖跡地にある「九・一八記念館(満洲事変記念館)」に「中国養父母に感謝の碑」というのを建立しました。
中川:
そうやって中国とのつながりも出てきたわけですね。
森田:
2001年に「少年たちの記憶」が出版されました。中国引揚げ体験者だけでなく、ほかの後に漫画家になった人たちは昭和20年8月15日をどう過ごしていたのだろうと思って、お地蔵様を建立するときに協力してくれた方々に声をかけて、それぞれの体験を一枚の漫画にして展覧会を開こうということになったわけです。
それが、「わたしの八月十五日の会」なんです。2004年には、「私の八月十五日」という画集も出まして、作家の石川好さんが尽力してくださって、その画集が中国語で出版されました。さらに、中国で展覧会をやろうじゃないかということになり、どうせやるなら、「南京大虐殺記念館」でどうだろうという企画に発展していきました。日本軍の残虐の行為を展示した施設ですよ。そこに、日本人も辛い思いをしたんだという体験を持ち込もうというわけですから、大胆というか、無謀というか…(笑)。
中川:
生卵もゆで卵も飛んでこなかったんですよね(笑)
森田:
予想は大外れ。驚きましたよ。初日だけで2万人もの人が来てくださいまして。3ヶ月の予定が11カ月に延長されて、その期間中に来て下さった方の数は、何と約500万人ですよ。
日本のアニメが中国ではすごく浸透しているということもあったでしょうが、皆さん、非常に冷静に受け止めてくれました。あの展覧会で、日本で空襲があったことを初めて知った方も多かったと思います。中国ではそんなことは教えられていませんから。
うれしかったのは、中国の学生が「この日本人は南京に来た日本兵とは違う人間だ」と涙を流しながら話してくれたことです。
すごく緊張して行ったのですが、やっているのがギャグ漫画の一行ですから、笑いもいっぱいありましたけどね(笑)

(後略)

(2011年2月15日 神奈川県横浜市の森田さんのご自宅にて 構成 小原田泰久)

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