今月の対談「いい人いい話いい氣づき」

2006年11月 「長倉 洋海」さん

長倉 洋海(ながくら ひろみ)さん

1952年北海道釧路市に生まれる。1977年同志社大学法学部卒業後、時事通信社カメラマンを経て、80年よりフリーランスのフォト・ジャーナリストとして活動を始める。アフリカ、中東、中南米、東南アジアなど世界各地の紛争地に生きる人々やアマゾンなどの辺境に暮らす人々の取材を重ねて現在に至る。写真集『獅子よ瞑れ アフガン1980~2002』(河出書房新社)『サルバドル 救世主の国』(宝島社)、著書『鳥のように、川のように 森の哲人アユトンとの旅』(徳間書店)『ヘスースとフランシスコーエルサルバトル内戦を生き抜いて』(福音館)『フォト・ジャーナリストの眼』(岩波新書)など多数。1983年の「日本写真協会新人賞」をはじめ「第12回土門拳賞」「産経児童出版文化賞」を受賞。最新刊に「アフガニスタン 山の学校の子どもたち」(偕成社)。

『世界の紛争地で生きる人々の 笑顔、涙…を撮り続けて』

大学では探検部、写真を褒められて報道写真家として

中川:
インターネットの富士フイルムのサイトで長倉さんのフォト作品に出合って、人々の表情の豊かさに見入ってしまいました。それで、すぐに写真集『きみが微笑む時』『へスースとフランシスコ』を購入し拝見しました。特に、紛争地に暮らしているのにもかかわらず子供たちの笑顔が実に良くて感動してしまい、長倉さんに是非お会いしたくなったのです。たくさんお聞きしたいことがあるのですが、まず、どうしてこの道に進まれたのでしょうか。大学は法学部ですよね。
長倉:
はい。何となくというか、ツブシがきくということで法学部に行きました。でも、クラブ活動に探検部を選んでしまってからは、結局休学したりで6年間在籍し道が変ってしまったというか…(笑)。
中川:
探検部ですか。それが報道ジャーナリストの道にと繋がっていったのは分かるような気がします。
長倉:
それまでの高校生活というのは、家と学校の往復でしょう。親元を離れて大学に入って初めて、新しい世界に触れたことが大きいと思います。さらに広がりを求めて日本の川をいかだで下ったり、太平洋の孤島でも生活しました。1975年のとき、大学3年生でしたが1年間休学してアフガニスタンに滞在しました。ただ、その感動を自分の中だけで終えるのではなく、他の人にも伝えていきたい、と卒業時には考えるようになりました。
中川:
写真には興味がおありだったのですか。
長倉:
私がアフガニスタンで撮った写真を、取材に来た記者が「いい写真だねえ」と褒めてくれて、嬉しくて天にも昇る気持ちになりました。とりたてて得意なものは何もありませんでしたから、自分は写真に才能があると思い込むようにして(笑)。その後、運良く通信社のカメラマンになれました。褒められるのって、大切なことですよね。そうやって背中を押してもらったお蔭で、今の道を歩き始められたのですから。通信社には79年まで約3年間いました。
そのうちにデスクに言われた仕事をこなすより、自分で世界を見つめたくなり、退社してフリーランスになり世界のあちこちの紛争現場を回って戦場のレポートをしました。初めのうちは報道カメラマンとして世界中に注目されている現場でスクープを決めてアッと言わせたいという思いでした。でも、一つの国に長く滞在するうちに、そこに生活している人は、人間として何を感じながら日々真剣に生き抜こうとしているのかな、と思うようになって、長い時間をかけて彼らを見ていきたいという思いが募ってきました。以前は世界中からジャーナリストがやって来て報道合戦をしていたのに、次に訪れた時には、もうそういう人は誰もいなくなって、でもそこではまだ戦争は続いていて、瓦礫の中でも彼らは私たちと同じように毎日を笑ったり泣いたりして生きているという当たり前のことに気づき、それを何とか写真で伝えたいと。マスコミが取り上げるのは、戦争の表面を伝えているだけではないか、という疑問もありましたから。自分自身の眼でじっくりと物事や人間を見なければ、時代のマスコミの流れに右往左往するだけだ、と感じたのです。
中川:
自分自身の視点を獲得するというのは、大変なことでしょうね。
長倉:
人に出会い、取材をし、さらに発表した写真を大勢の人に見てもらう…そうしていくうちに、自分のスタイルや自分の眼が出来てくるのだと思います。
私はマスードという私と同い年のアフガニスタンの戦士に会いに何度も厳しい旅をして、生活を共にしながら、17年にわたって撮り続けました。彼との生活の中でも自分が随分変わりました。
中川:
ずいぶん長い間、しかもアフガニスタンの戦士を…。あの紛争はいろいろと複雑で分かりにくいのですが、ちょっと説明していただけますか。
長倉:
78年にアフガニスタンにソ連軍が侵攻し、マスードたちはそれに抵抗し、ついにソ連を撤退に追い込んで、一度はイスラム政権ができたのですが、その後はパキスタンの強力な支援を受けるイスラム原理主義のタリバンが力を増しました。しかし、タリバンは女性の権利を剥奪したり、偶像崇拝を排し世界遺産の仏像を破壊したり、近代社会の方針とは逆行する極端な政策をとるなどし、マスードもアフガニスタン人による自主独立を願い、北部同盟を結成しタリバンに抵抗しました。しかし、2001年9月9日、ジャーナリストを装ったテロリストに暗殺されました。アメリカの9・11事件の起こる2日前のことでした。
中川:
よく、そういう戦士の同行取材ができましたね。
長倉:
大国ソ連と、一見無謀とも思える戦いをどうして続けるのか、同年齢の若者が何を思いながら闘っているのかを知れば、分かりにくいこの戦争が見えてくるのではないかと思いました。そういうレポートはあまりありませんでしたから。83年春、さんざん苦労して彼のもとにたどり着き、多少ペルシャ語ができましたので一生懸命に頼み込んで、許可を得ました。行ってみたら、戦士たちは銃を持って戦っていても家族を愛し、鳥のさえずりに耳を傾け、バラの花を口にくわえて詩を口ずさんだり、一見“平和”の中に生きているはずの自分より、よっぽど豊かで人間的だと感じられて、惹かれました。どうして戦いが起きたのかということはそれぞれ違う、その中で人々はどう感じたのかを知っていかないと、次の戦争を止める力になりません。紛争の中に身を置きながら、平和を望み家族と共に過ごしたいと思っている彼らがどうして戦いを続けるのかと取材を続けてきました。
中川:
共感を持ってカメラを向けておられるから、写真を見る人も温かいものを感じるのでしょう。長倉さんは人間がお好きなんだ、という感じがします。
長倉:
戦争の表層よりもその中に生きる人間にだんだん惹かれるようになっていきました。もちろん、初めは文化、習慣、言葉の違いに戸惑い、フラストレーションが溜まり、二度と来るものか、などと思ったりもしましたよ。でも、時間をかけることで、また何度も訪れることで、紛争地に生きる人々が多面的に見えてきたのです。
中川:
人の顔を撮るのは難しいですよね。相手があることですから。カメラを構えると普通なら、戦士ばかりでなく一般の人たちにも警戒されるでしょう。よほど信頼を得られないと許してもらえないでしょう。
長倉:
今はデジタルですから撮ったものはすぐに見せられますが、当時はフィルムでしたからすぐには見せられません。撮られた写真をどう使われるのか不安でしょうし、相手にはメリットは無いわけですよ。それを撮らせてもらう。どうしたら自分の気持ちを証明できるのだろうか。結局、笑みを浮かべる他ありませんでした。でも、それは写真を撮らせてもらいたいという野心ミエミエの笑顔だっただろうと思いますよ(笑)。そんなぎこちない笑顔でも、言葉が通じなくても、笑顔を浮かべて「いいよ」と言ってくれたことに救われました。笑顔というのは凄いんだと思いました。万国共通のパスポートなんですね。私は撮った写真は次に訪れたときに、写っている本人にできるだけ渡すようにしています。写真を受け取ると、大喜びしてくれて…。少年は若者になり、少女は母親になっていたりします。

<後略>

(2006年8月29日 東京・日比谷公園「松本楼」にて構成 須田玲子)

著書の紹介

「涙 ― 誰かに会いたくて」
長倉 洋海 (著)
(PHPエディターズグループ)

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