今月の対談「いい人いい話いい氣づき」

2005年2月 「小泉 凡」さん

小泉 凡(こいずみ ぼん)さん

1961年東京生まれ。成城大学大学院文学研究科日本常民文化専攻博士課程前期修了。専攻は民俗学。1987年に松江赴任。現在、島根女子短期大学助教授、小泉八雲記念館顧問、山陰日本アイルランド協会事務局長などを務める。主な著書に『民俗学者・小泉八雲』(恒文社)、『八雲の五十四年―松江市からみた人と文学』(共著・松江今井書店)、『文学アルバム小泉八雲』(共著・恒文社)など。他にハーンや民俗学に関する多くの論文がある。小泉八雲のひ孫にあたる。

『民俗学者のひ孫が語る 小泉八雲の目に見えぬ世界』

大学院時代に八雲の作品に触れ、目から鱗

中川:
初めまして中川です。今年はラフカディオ・ハーン(日本名・小泉八雲)の没後100年ということで、文化人切手にもなり随分注目されています。ハーンは、小泉先生のひいお祖父さまにあたられるのですね。
小泉:
そうなんです。父方の曾祖父です。
中川:
ハーンは出雲に住んで居たこともあるそうで、松江には「小泉八雲記念館」もあって島根は縁の深い土地のようですが、先生もずっとこちら(松江)にお住まいなのですか。
小泉:
いえ、東京の世田谷で生まれ育ちました。ご縁があってこちらに職を得まして、松江に住むようになったのは17年前からですね。実は、八雲に興味を持ったのは大学院修士課程のときなのですよ。
中川:
そうだったんですか。民俗学がご専攻、とうかがっていますが。
小泉:
はい。私は小さい頃から乗り物が好きで、それが旅好きになり、旅といいますか、フィールドワークができる学部は何かというと、当時は民俗学か人類学だったんですね。成城大学には柳田国男の蔵書が全部そろっている民俗学研究所があったので、そちらに進みました。大学院に入った頃、たまたま友人が、アメリカの民俗学の機関誌にアメリカ民俗学者としてのハーンの論文があったからと言って、コピーして持ってきてくれたんです。辞書を引きながら一生懸命読んだら、目から鱗という感じでした。自分が今までやってきたようなことをハーンもやっていたのだということを、初めて知ったのです。
中川:
それまでハーンという人には、どのような印象をお持ちだったんですか。
小泉:
先祖に作家でかなり有名な人がいたんだということは、私が8、9歳頃に、子供向けの伝記シリーズをつくるからと、出版社の方が取材に来られましてね、ちょうど良いから遺品を持ってモデルになってと言われて、そのときに意識しました。その後、高校時代のサイドリーダーで『怪談』を読んだのがハーンの作品に触れた最初です。どうも身内の者が、先祖の研究をするのは恥ずかしいし、おこがましいし、余り良いことと思わなかったということもあって、敢えて避けていたということもありました。
それが、先ほど言いましたように大学院のときにご縁が出来て、面白そうだと興味が湧き、ゼミの先生方にも、君の所にはまだ知られていないハーンの資料もあるだろうし、修士論文はこちらの方で書いたらどうかと勧められまして、ハーンをテーマにしたのです。
中川:
私は民俗学に詳しくないのですが、どういったところにご興味を持たれたのですか。
小泉:
動機は旅ができるということだったけど、初対面の人に会って全然違う価値観とか世界観とかをうかがったり、こちらの生き方のヒントや知恵を頂いたり、楽しいですね。例えば、隠岐の知夫里島などでは、「墓」を「ふぁか」と発音するなど、ハヒフヘホがH音に変わる前のF音が残っているんです。沖縄にはさらに前のP音もまだ残っていますし。
今は「神在月(かみありづき)」がちょうど終わったところですが、松江の郊外にある古い佐太神社では神送りの儀式がありまして、短大の学生を連れて行きました。夜の10時頃、真っ暗闇の山に登って行き、山頂で宮司さんが「オーオーオー」と発声し、神を諸国に送り返すのです。旧暦の11月を一般には「神無月」というのですが、これは諸国の神様が出雲に行ってしまわれて留守になるからなのですね、そして、ここでは神様が集まってこられるので「神在月」、というわけです。
中川:
学生さんも貴重な体験をして感動したことでしょう。
小泉:
そうですね。学生を島根の山間部に連れて行き、午前中は農業体験、午後はお年寄りのライフヒストリーを聞き、夕方は郷土料理の講習会、といったこともしています。
中川:
ハーンは出雲に住んで居たこともあるそうで、松江には「小泉八雲記念館」もあって島根は縁の深い土地のようですが、先生もずっとこちら(松江)にお住まいなのですか。
小泉:
いえ、東京の世田谷で生まれ育ちました。ご縁があってこちらに職を得まして、松江に住むようになったのは17年前からですね。実は、八雲に興味を持ったのは大学院修士課程のときなのですよ。
中川:
そうだったんですか。民俗学がご専攻、とうかがっていますが。
小泉:
はい。私は小さい頃から乗り物が好きで、それが旅好きになり、旅といいますか、フィールドワークができる学部は何かというと、当時は民俗学か人類学だったんですね。成城大学には柳田国男の蔵書が全部そろっている民俗学研究所があったので、そちらに進みました。大学院に入った頃、たまたま友人が、アメリカの民俗学の機関誌にアメリカ民俗学者としてのハーンの論文があったからと言って、コピーして持ってきてくれたんです。辞書を引きながら一生懸命読んだら、目から鱗という感じでした。自分が今までやってきたようなことをハーンもやっていたのだということを、初めて知ったのです。
中川:
それまでハーンという人には、どのような印象をお持ちだったんですか。
小泉:
先祖に作家でかなり有名な人がいたんだということは、私が8、9歳頃に、子供向けの伝記シリーズをつくるからと、出版社の方が取材に来られましてね、ちょうど良いから遺品を持ってモデルになってと言われて、そのときに意識しました。その後、高校時代のサイドリーダーで『怪談』を読んだのがハーンの作品に触れた最初です。どうも身内の者が、先祖の研究をするのは恥ずかしいし、おこがましいし、余り良いことと思わなかったということもあって、敢えて避けていたということもありました。
それが、先ほど言いましたように大学院のときにご縁が出来て、面白そうだと興味が湧き、ゼミの先生方にも、君の所にはまだ知られていないハーンの資料もあるだろうし、修士論文はこちらの方で書いたらどうかと勧められまして、ハーンをテーマにしたのです。
中川:
私は民俗学に詳しくないのですが、どういったところにご興味を持たれたのですか。
小泉:
動機は旅ができるということだったけど、初対面の人に会って全然違う価値観とか世界観とかをうかがったり、こちらの生き方のヒントや知恵を頂いたり、楽しいですね。例えば、隠岐の知夫里島などでは、「墓」を「ふぁか」と発音するなど、ハヒフヘホがH音に変わる前のF音が残っているんです。沖縄にはさらに前のP音もまだ残っていますし。
今は「神在月(かみありづき)」がちょうど終わったところですが、松江の郊外にある古い佐太神社では神送りの儀式がありまして、短大の学生を連れて行きました。夜の10時頃、真っ暗闇の山に登って行き、山頂で宮司さんが「オーオーオー」と発声し、神を諸国に送り返すのです。旧暦の11月を一般には「神無月」というのですが、これは諸国の神様が出雲に行ってしまわれて留守になるからなのですね、そして、ここでは神様が集まってこられるので「神在月」、というわけです。

<後略>

(2004年12月6日  島根女子短期大学 小泉凡先生研究室にて  構成 須田玲子)

著書の紹介

「文学アルバム 小泉八雲」
小泉時・小泉凡 (共編)
恒文社刊

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