今月の対談「いい人いい話いい氣づき」

2004年1月 「佐藤 愛子」さん

佐藤 愛子(さとう あいこ)さん

人気少年小説家の佐藤紅緑を父、女優の三笠万里子を母として大阪に生まれ育つ。昭和18年に結婚するが、25年に離婚。同年「文芸首都」の同人となり、27年に北杜夫、田端麦彦らと同人誌「半世界」を創刊。31年に田端と再婚するが、のち離婚。38年に「ソクラテスの妻」が芥川賞候補になり、44年に夫の会社倒産による借金の経験を基にした「戦いすんで日が暮れて」で直木賞を受賞。平成12年に佐藤家の一族を書いた「血脈」で菊池寛賞を受賞。その他、著書、受賞作多数。

『波動を上げよ!切なる願いで著した『私の遺言』』

魂が活性化する手助けになるハイゲンキ

中川:
初めまして、中川です。先日、『月刊ハイゲンキ』をお送りさせていただきましたが。
佐藤:
はい、拝見しました。
中川:
私どもは“氣〟というものを扱っていまして、ストレスの多い人が結構いらっしゃいますので、緊張を少し楽にして… ということで、プラスのエネルギーである氣を上手に取り入れていただきたいということで行っているのです。
佐藤:
今、そういうことに関心のある方が増えてきましたですねえ。氣というのは非常に大事だということを、私も漠然と思っております。
中川:
実は、私どもの真氣光というのですが、これは私の父が始めたのです。
佐藤:
あ、そうなんですか。いつ頃ですか。
中川:
1986年に、父が夢を見て、白髭のお爺さんに教わって作った、氣を中継する機械がありまして、それを「ハイゲンキ」と名付けたのです。
佐藤:
機械が、ですか。それは珍しいですね。氣って、ようするにオーラみたいなものですか。
中川:
そうですね。人にも物にも、どんなものにも氣というものがありまして、人間ですとオーラみたいなものですね。
佐藤:
氣というものは、人間から出るものと思っていましたから、物から出るって… 物にも氣があるわけですね。
中川:
例えば、昔から神社でいただくお札やお守りなど、ああいうものからも氣は出ていたと思うんですよ。
佐藤:
でも、あれは人が氣を篭めているわけでしょう。篭めなければ、無いのではありませんの。
中川:
篭める、と言いますか… 父は、「宇宙から集まってくる、ようは非常に強いプラスの氣を篭めている」と考えていたようで、ハイゲンキも同じなんです。ハイゲンキが宇宙にある真氣光という氣を集めてそれを照射する。それで氣の中継器と言ったのです。父は自分で作ったものの、よく分からなかったのですが、どうも何か出ているということはいろいろな体験を経て確信したんですね。
佐藤:
機械がねえ…。素人考えでつまらないことを言うかもしれませんが、お許しいただきたいのですが(笑)。
中川:
ああ、それなら分かります。
佐藤:
その後、またまた夢を見まして(笑)、こういうことは皆ができるのだからと言われて、合宿制の研修講座を始めたのが1990年です。
中川:
氣を受ける側の人にも、その人の持っている氣がありますわね。その氣と、先生の出す氣とうまい具合に波長が合うと良いのでしょうが、合わない場合もあるんじゃないでしょうか。基本的に求める心がなければ、いくらこの機械があっても入ってこないということはないんでしょうか。
佐藤:
そうですね。すぐそこまで来ていても吸収しないんですね。一般的に氣というのは、そういうことがあるようです。ただ、真氣光というのは、どうも魂に直接入って、オーラというのか、光が増えていく方向にいくんですね。どんな人でも、もともと温かい心を持っています。そこに光が入っていって増幅することによって、より一層心が豊かになっていく手助けになり、マイナス的なこともプラスに変わっていく、魂が活性化していくようなのですね。
こういうことは、だんだんと分かってきたことなのです。というのは、サラリーマン生活でストレスが溜まって体調を崩して、どうにもならなくなり92年に父の行っている研修講座に行ってみたのです。そうしましたら、具合の悪い方たちや、自分も他の人に氣を中継して差し上げられるようになりたい、という方々がたくさん参加されていました。そういう方は、求める心がありますので、より真氣光を自分の中に吸収できるのですね。
その合宿は、いろんな霊的な現象が起こっていて、その人達の話を聞いて分析していくうちに分かってきたのですが、真氣光をたっぷりと受けていくうちに、自分の心というものが変化してくる。それによって、ますます光が増えていき、魂が元気になって病気が良くなっていく人もいれば、より運勢的に好転していく人もいる。
どうも、ハイゲンキという機械が、それを助けているみたいなんですね。ハイゲンキから光が出ていて、その光が魂に入ってくるというんですよね。
中川:
それは、すごい発見ですね。
佐藤:
それで、電機会社の研究所を辞めて父の会社に移ったのが93年、ちょうど10年前です。そして、95年12月に父が亡くなりましたので、その後を引き継ぎ今に至っているのです。

<後略>

(2003年10月8日 東京・世田谷の佐藤愛子さんのご自宅にて 取材構成 須田玲子)

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