今月の対談「いい人いい話いい氣づき」

2005年4月 「荒 了寛」さん

荒 了寛(あら りょうかん)さん

1928年、福島県生まれ。大正大学大学院博士課程で天台学専攻。仙台市仙岳院法嗣となり、仙台市の清浄光院、福島市の大福寺、上野寛永寺住職を経て、1973年、天台宗ハワイ開教総長としてハワイに渡る。布教活動の傍ら、ハワイ美術院、ハワイ学院日本語学校などを設立、日本文化の紹介、普及に努める。独自の画法による仏画を描き、米国や日本で毎年、個展を開催。主な著書に、『慈しみと悲しみ』『人生の要領の悪い人へ』『画文集・羅漢さんの絵説法―般若心経』『ハワイ日系米兵 私たちは何と戦ったのか』『シルクロードの仏を描く』など多数。

『ハワイで日系米兵の書を著し仏画を描いて辻説法』

新興宗教扱いの天台宗、檀家はたった2軒

中川:
対談をお願いしましたら、ちょうど日本にいらしていて東京で個展を開催中、とうかがい、こうしてすぐにお目にかかれることができました。ありがとうございます。
荒:
私もお会いできて、ありがたいなと。ご縁ですね。人との出会いは、みなご縁です。この「ありがたい」というのは、「有ることが難しい」と書き、「不思議だなあ」ということで、「不思議」とは、思うことも語ることもできない、深い縁があるということですね。
中川:
そうですね。「ご縁」は大切ですね。ところで、ハワイに渡られて30年以上とうかがいましたが、どういういきさつでいらしたのですか。
荒:
私は福島県郡山市に生まれ、10歳で親元を離れ天台宗のお寺に入りました。18歳のときに仙台の寺の養子になり、僧侶として本格的修行に入り、大学、大学院で学び、師父が上野寛永寺の住職でしたので、一時、寛永寺にもおりました。
1970年頃ですか、「天台宗も国際的な役割を果たさなくてはいけないのではないか」、と進歩的な考えをもたれた大僧正がいましてね、それをサポートするために天台宗海外伝導事業団が旗揚げされました。理事長が今東光大僧正でした。私は、しょっぱなから拝み倒されたといいましょうか(笑)、聞いているうちにやらざるを得ない、という気持ちになって、ハワイに赴いたのです。1973年、私が45歳のときのことでした。
ハワイは移民の地でしょう。日本からの移民は既に1885年に第一陣が渡っています。その後、広島、山口、熊本、福島、新潟… と何万人もまとまって移住を続けていました。広島県出身者が一番多かったですね。皆さん仏教徒で、「安芸門徒」と言われて先祖代々の浄土真宗檀家で、ハワイに渡っても真宗の寺を建て先祖供養を心のよりどころとしていました。曹洞宗の檀家の多かった福島県の移民は曹洞宗の寺を建て、たくさんの立派なお寺がありました。その発展振りを見て、天台宗も当然そうなるだろうと、私が送り込まれたわけですが(笑)、それが、3年経っても5年経っても檀家ができません。
中川:
もう、すっかり他の宗派が根付いてしまった状態で。
荒:
そうです。そこに100年も遅れてノコノコ行ったんですね(笑)。入り込む余地もありません。日本で一番古い天台宗が、ハワイでは「また、新興宗教が来た」扱いでした。天台宗というのは大地主の教団で、農村にはあまり寺も無く、天台宗の檀家が移民になることもなかったようです。未だに、先祖から天台宗だったという檀家は2軒しかありません。とにかく、檀家がなければ葬式も法事もありませんし、墓だって、ハワイでは共同墓地ですから、墓地を売ることもできません。だから、寺の収入が全くない。私は子どもの学校の給食費も払えないような状態でした。
さて、どうしようかと考えたとき、とにかく寺に人が出入りをしてくれることだと思い、寺で日本画、油絵、華道、茶道、染物、書道などの日本文化を教える教室を開きました。そのうち、檀家や信者を獲得するのにやっきになるより、日本仏教の思想や文化を、宗派を超えて伝え、現地の人の生活に生かすようにすることが大事だと思うようになりました。それで、「ハワイ一隅会」という社会奉仕団体を作りました。
1年経ったとき、教室の皆さんの作品展をアラモアナ・ショッピングセンターにある、白木屋で開きました。白木屋さんは快くスペースを貸してくれたのですが、それが大変広くて生徒の作品を並べても、まだ壁が寂しく空いている。何とか壁を埋めなくてはと思って、私も急遽描くことにしました。
とにかく大きなものをバン! と飾らないと格好がつかないでしょう。ベニヤ板3枚をつなぎ合わせて和紙を貼り、そこにスプレーでウワァと龍を描いて、最後に筆に墨を含ませてサッサッとカタチを整えて。いくらなんでも、人間や花などをそんなに大きくは描けないけれど、龍ならいくら大きくたっていいでしょう、迫力あって(笑)。その龍に観音様をお乗せしました。一晩で描きあげました。
中川:
素晴らしい発想と行動力ですね(笑)。でも、普通は描こうと思ったってできません。絵は、以前から描いておられたのですか。
荒:
子どもの頃から絵は好きでしたし、山歩きも好きで、いつもスケッチブックを持ち歩いては山を描いたり、お地蔵さんや観音様を墨絵風に描いたりしていました。でも、人様にお見せしたり、ましてや売ろうなんてことは、ちびっとも思っていませんでした。
でも、そのときはそんなことは言ってはおられません。壁を埋めなければいけませんから。一晩で描いたその絵は、思いがけないことに好評でして、「来年から、荒さんの作品だけでお願いします」とデパートのマネージャーから言われました。それから10数年、店長が替わられるまで、白木屋で毎年お正月の催事物として、私の個展が続きました。これをきっかけに、サンフランシスコ、ニューヨーク、ボストンでも個展が開かれるようになりました。
中川:
荒さんがお描きになった絵からは、いい氣が出ていて、それを観る方が感じられて、いつも自分の身近に置いておきたいと思って求められるのでしょう。絵も映画も音楽も工芸作品からも、みな創り手の氣が込められ、それが周りに伝わっていくのですね。
荒:
仏様を描いていれば布教にもなり、これも重要な仕事だと思って続けてきました。仏様から応援していただいているような気持ちがして、ありがたいことだと…。
中川:
そうですね、そういうことはあると思います。仏様のお顔が何とも言えない温かみがありますね。
荒:
以前、井上靖さんが『敦煌』をお書きになった頃、深田久弥さんが仙台に来て敦煌の話をしてくれました。それ以来、いつか私も敦煌に行きたいと思っておりましたが、ハワイに行ったおかげで縁あって敦煌行きが実現しました。そのときからガラッと画風が変わり、今のような画風になりました。日本画と油絵と染織を混ぜたような、その方法は企業秘密ですが(笑)、それで描くと全く独特な作風になるのです。仏画を通して人の心の癒しができるのなら、これも辻説法かなと。
中川:
ほのぼのとした墨絵の作品もユーモラスで、これはまた作風が全く違いますね。般若心経を一句ずつ、荒さん自身のやさしい言葉で解説しながら仏画で表し、英文もつけておられて、般若心経がぐっと身近に感じられます。
荒:
こういう説法図を描くようになったのは、割合最近なんですよ。カレンダーにしたり、「羅漢さんの絵説法」と名付けた画集にして、皆さんに親しんでもらおうと。墨絵は直しがききませんから、一枚描くのに、ポタッと墨を垂らしてしまったり、線が細かったり太かったりで失敗作が10枚くらいできちゃう。簡単そうに見えても、なかなか大変です。このような墨絵も含めた仏画の展覧会を日本各地でも開くようになりまして、今はハワイと日本を行ったり来たりしています。

<後略>

(2005年1月31日 荒了寛さんの東京連絡所にて 構成 須田玲子)

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