今月の対談「いい人いい話いい氣づき」

2006年12月 「河崎 義祐 」さん

河崎 義祐(かわさき よしすけ)さん

1936年福井市で生まれる。1960年慶應義塾大学経済学部を卒業し東宝株式会社入社。宣伝部、助監督を経て、1975年「青い山脈」(第14回大阪市民映画祭新人監督賞受賞)で監督デビュー。主な劇場用映画作品に「挽歌」「あいつと私」「若い人」「残照」「青春グラフィティ スニーカー・ぶるーす」など。他にテレビ映画、ビデオ作品、シナリオ作品、戯曲なども多数。主な著書は『母の大罪』『死と共に生きる』(共にエイジ出版)、『映画の創造』(講談社)、『父よあなたは強かったか』(PHP研究所)『映画・出前します』(毎日新聞社)など。1986年ボランティア団体「銀の会」設立。1997年映画の出前サービスを始める。2005年「銀の会」がNPO法人として認可され「シネマネットジャパン」と改称、理事長に。2005年度文化庁映画功労賞受賞。

『感謝と笑いを載せて 映画の出前いたします』

激動の昭和の時代を生き抜いてくれた高齢者の方々に

中川:
遠いところ恐縮です。お待ちしていました。
河崎:
初めまして。千葉茂樹監督(本誌190号巻頭対談ゲスト)からご紹介いただきました。今日はよろしくお願いいたします。
中川:
千葉監督には、十数年来懇意にしていただいています。中川さんの編集部の方から何冊か「月刊ハイゲンキ」を送っていただきましたが、今年の8月号(195号)の渡邊槙夫さんの対談記事を拝見して、胸打たれました。実は私も慶應の経済の出でしてね、渡邊さんは大先輩でいらっしゃるんですよ。また、取材に渡邊さんを訪問されたのが5月22日で、その2日後に中川さんが学徒出陣の記念碑を実際に訪れておられる。「出陣学徒壮行の地」と彫られた碑の前に立たれている中川さんの写真を見て、誠実な方だなぁと感銘し、是非お会いしたくなりました。
河崎:
ええ、還暦を迎えたときにふと思いついたのですよ。寝たきりのお年寄りのために、昔懐かしい映画を出前したら、きっと喜んでいただけるのじゃないかな、と。昭和の時代は激動の時代でした。家も仕事も食糧も何もかも無い大変な時代を生き抜いて、私たちを必死で育ててくれたのが今の高齢者の方々ですから、それこそ先程中川さんがおっしゃったように、その方々に対する感謝を私たちは忘れてはいけない、そう思ってですね。
また、昭和の時代は映画が娯楽の王様と呼ばれていました。それはたくさんの映画ファンの方々がいてくれたからこそですが、その方々に何か恩返しがしたいと思っていたことも「映画の出前」の発想につながりました。公民館や学校での巡回上映はあっても、たった一人の映画ファンのお年寄りのために映画を宅配するというサービスは誰もやっていませんでした。
中川:
それはユニークな活動ですね。映画監督として長年ご活躍され映画のことを熟知していらした河崎さんならではの発想だと思います。
河崎:
10年も自宅で寝たきりだという方のお宅に映画を上映しに行ったときのことですが、途中で隣家の方がお花を持ってお悔やみにいらしたのですよ。朝から見慣れないワゴン車が停まっていて、バタバタと雨戸が閉まりシ〜ンとして物音一つしない。これはきっと亡くなられたのだと誤解されたのですね。そのときは笑い話になりましたが、間もなく本当に亡くなられ、あのときの映画が「人生最後の映画」になってしまったのです。あぁ、もう待ったなしの状況なのだとつくづく思いました。
ホスピスにうかがったとき、あのときは「サウンドオブ ミュージック」でしたが、ご覧になっている方が汗ビッショリになって…。映画を観るというのは、思いのほか体力の要ることなのですね。生命の最後を振り絞って観てくださっているんだ、いいかげんにやってはいけない、とあらためて思い、上映会ごとに気合いを入れました。
中川:
映画を宅配するには、いろいろ機材も必要ですし、要望に応じてアチコチに出掛けて大変でしょう。
河崎:
個人宅ではフィルムの映写機では大きすぎますから、ビデオ上映です。スクリーンやスピーカーのアンプ、ビデオ映写機など、なるべくコンパクトなものを出来る範囲でそろえました。今はDVDに移行してきていますね。私が60歳になり年金が出るようになったので、それを活動資金に当てました。
はじめは全て無料で、お茶菓子も私が持っていっていましたが、あるとき「それでは来ていただいている私たちは、どうお礼の気持ちを表したらいいのですか」と戸惑ったように訊かれて。良かれと思っても押しつけの親切は、相手の方に気持ちの負担をお掛けしてしまうことに気づきました。それで、出前の交通費はいただくことにし、土産のお饅頭もやめて(笑)、上映前後に簡単にその映画に関するエピソードなどをお話することにしました。
中川:
それは良かったですね。皆さん、さぞ喜ばれたことでしょう。ビデオを観るだけならご自分でテレビに映してみることも出来るでしょうけれど、河崎さんならではのお話が聴けるなんて素晴らしいことです。
河崎:
監督の生い立ちや俳優の素顔など、できるだけ人間くさい部分や、私が実際に体験したちょっと面白い話などを紹介したのですが、これが皆さんに喜んでいただけましてね。何年も病気で苦しんでいた方がアハハと笑ってくれたりすると、私も嬉しくなりまして。あぁ、続けていて良かったなと思いますよ。他人の喜びが自分の喜びになる、それがボランティアなのでしょうね。それにしても、笑うということは人を元気にさせますね。
中川:
それは有り難うございます(笑)。
河崎:
“笑い”って、すごい力がありますよね。イギリスなんて、ユーモアやジョークがとても大事にされているじゃありませんか。「ピンチな場面ほどウイットの効いた一言を」というのは、政治家だってそうでしょう。ところが、日本では冗談や笑うことが低く見られてきて、「ふざけんじゃない」なんて叱られたりしてね。これはお殿様に忠義を尽くさなければいけない頃の名残じゃないですか。映画も喜劇映画は、小馬鹿にされてきました。
でもね、日本だって捨てたものじゃありません。私は寄席を“大学院”と呼んでいるんですよ。寄席に行くと実に勉強になります。落語は話術一つで人の心をキュッと掴んでしまって、笑わせてしまうでしょう。笑えるのって知的活動の一つだと思うんですよ。私も“生涯現役”、ここはひとつ、笑いを徹底解剖して研究し、笑いの復権を目指そうと思っているのですよ。

<後略>

(2006年10月18日 長野県安曇野市穂高有明にて構成 須田玲子)

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