今月の対談「いい人いい話いい氣づき」

2005年3月 「三橋 國民」さん

三橋 國民(みつはし くにたみ)さん

大正9年、東京・町田市生まれ。造形美術家。昭和16年に応召し、昭和21年西部ニューギニアで重傷を負いながらも、分隊員40人中ただ二人の生き残り兵として生還。その体験記『鳥の詩』(日本放送出版協会刊)はドラマ化されベストセラーとなる。戦後、東京学芸大学教授・海野建夫氏に師事、工芸美術、彫金、鋳造、石造などを学ぶ。現在、社団法人・光風会名誉会員、社団法人・日展参与などを務める。これまでに日展内閣総理大臣賞、菊花賞、光風会辻永記念賞などを受賞。美術作品集に『南溟の友に』『忘れじのニューギニア』など。近作モニュメントは大阪府忠岡町「平和の鐘」、新幹線福山駅壁画「燦」、津市役所中庭「鳥の詩」、町田市「自由民権の像」、永平寺「道元禅師稚髪像・梵鐘・開山堂」など多数。

『美術、文芸作品を通じ戦争の語り部として僚友の鎮魂60年』

ニューギニアでの体験がドラマに本にと

中川:
ちょうど10年前に三橋さんのご著書『鳥の詩』が刊行され、私共の『月刊ハイゲンキ』に、ライターの須田が紹介させていただきました(編集部注・本誌67号参照)。戦争でニューギニアに2年余り、奇跡的な生還を果たされた壮絶な体験を本当に見事に書かれていて、私も引き込まれるように読ませていただきました。
三橋:
あれは、はじめは自分史のコンクール応募作品だったのです。書き溜めておいた30編の短編を作家の大江健三郎さんが、自分史を超えている文芸作品だと大変ほめてくださった。それがNHKドラマ企画部の人の耳に入りまして、ラジオドラマ化になり五夜連続で放送されました。予想外のすごい反響でした。
その後、一冊の本にまとめて7千部刷ったのですが、発売5日間でなくなってしまいました。出版社が慌てて再版を決め、結局2万部が完売となりました。素人の本でしょう、何で売れているんだ、と出版関係者は驚いていましたが、私は、これはニューギニアの僚友たちがバックアップしてくれているんだと思いました。
中川:
そうですね。帰って来たかった大勢の皆さんの応援が届いているのでしょう。分隊員40名いらした中で、三橋さんともうお一人だけが生還されたそうですね。
三橋:
そうです。全ニューギニアでは16万の日本兵が送り込まれて15万人が亡くなっています。赤道直下でね、中国大陸から遥々やってきた軍馬たちは、異常な南海の高温にやられて次々に倒れ、目的地ニューギニアには一頭も上陸できませんでした。
中川:
三橋さんは、その中で生き抜かれた。
三橋:
三橋さんは、その中で生き抜かれた。
中川:
あるとき、「敵機飛来!」の甲高い声が響きました。マラリアで39度の高熱を出し、ニッパ小屋に寝ていた私は、反射的に飛び起き20メートルほど離れた高射砲台座に向かって突っ走ったのですが、大きな木の切り株にけっつまずいて倒れこんでしまいました。
そこに、ものすごい炸裂音と爆風。私は2メートルほど上空に飛ばされました。その姿を、別の自分が見ているんです。飛ばされている自分の二つの目がまるで、正月に食う“くわい”のように飛び出している。目玉を後ろ側から見たのなんか、初めてですよ。
その瞬間、羽子板絵のように母の顔がパッと浮かび上がってきて、一瞬静止しサァーッと砂が落ちるように掻き消えて、次々と父、兄、姉が現れては消えていきました。これを含めて、4度ばかり死んでいますが、いつでもその瞬間に見えるのは、まず母の顔ですね。
どのくらい経ったか、寒さに身震いして気がつきました。冷たい雨の粒が角膜に絶え間なくぶつかってくる。左胸が激しく痛んでいる。右手で確かめると、マラリアのために着込んでいた分厚い軍服がスパッと裂けていました。「ああ、やられた! オレはこれで死ぬ」と思った、あの絶望感は何とも言い難いですね。震える手をその裂け口から入れて傷を探ると、掌にベットリと血糊が溜まった… はずでした。ところが、濡れていない。探った指先が冷たい金属のような物を捉えている。何だこれは! ぐいっと取り出すと、鉛筆より少し長めで幅2センチほどの金属片でした。25Lロ爆弾が揺れずに定位置に落下するように、爆弾の頭にプロペラがついているんです。
三橋:
あ、そのプロペラの破片だったんですか! 信じられないほど、まさに危機一髪でしたね。守られましたね。
中川:
そう、肌着は全く破れてはいなかった。懐に滑り込むように飛び込んできて、痛みは衝撃の打撲痛だったのです。夕闇の中に金属片を透かして見ると、「U・S AIR FORCE No.…」と刻印されていました。数年前に、ある人に言われたことがありました、「三橋さん、あなたは幸運ではないけれど、強運の人です」って。こういう戦地の体験を振り返ると、全く、我ながら“強運”だと思いますよ。
敵機が行ってしまった後に切り株の反対の側を覗いてみると、さっきまで寝ていたニッパ小屋は跡形もなく吹き飛んでいて、すぐ側に十数メートル径のすり鉢状の大穴があいていて、切り株の肌には鋭い金属片が無数に突き刺さっていました。
数分経つと、敵の偵察機ダグラスA20Aが、先程の戦闘の成果を確認しに来ました。咄嗟に浅井戸に飛び込み、側に吹き飛ばされてあったお盆で頭上に蓋をして、隙間から見上げると、白いマフラーをはためかせて大きなゴーグルをして舐めるように見回しているパイロットが見えるんですよ。そして、私をちゃんと見つけていたんですね。急降下しつつ、7メートルほどの至近距離に25キロ爆弾を落としていきました。グァーン、バリーン! 浅井戸が押し潰されたような衝撃を受けました。私みたいな兵隊一人を殺すのに、こんなにカネかけて浪費することないじゃないですかね。
山の方に逃げた、僚友が「みつはしぃー!」と探しに来て、「あぁ、あいつもとうとうお陀仏か。かわいそうに…」と、しょんぼり佇たたずんでいました(笑)。「勝手に殺すなよ」、と井戸から出てきて、二人でボロボロの天幕を被って辛うじて雨を防ぎ、そのまま丸まって眠ってしまいました。マラリアだし、食べるものもなく極度の空腹と疲労で…。ふと目が覚めたら、潮が満ちて腰まで海に浸かっていました。なぁんにもない海の中で僚友とただ二人…。
何年か前に講演会で、こういう話をしたら、40代くらいのご婦人が、「先生は、フルーツはお嫌いでしたの」と訊くんですよ。「お腹が空いているんだったら嫌いでも食べれば餓えなかったのに」、と。何を考えてんだか。フルーツがたわわに実る南国の島、それは、グアムやハワイの話なの。ニューギニアはそんなものはなかった。木の皮まで剥いで食べてましたよ。嫌いもクソもありますか。
三橋:
今や60歳以下の人はみんな、戦争を知りません。講演会に出向いて聴きに来られるのは関心があるからでしょう。“知る”ということはとても大事なことです。戦争の実態を伝えてくださる三橋さんのお役目は大きいと思います。
中川:
皆さん、現在の自分たちの置かれている状況から考えてモノを言ってしまうんですね。大学生で、「えっ、アメリカと戦争していたことがあるんですか」なんて、ビックリしているのがいて、こっちの方がビックリしてしまいましたよ。
私は大学に行きたかったのですが、中学を卒業したときに兄がちょうど徴兵されていましたから、私は、身体を壊していた父に代わって家業をしていたんです。兄が帰ってきたので猛勉強をして立教と一橋大学を受験しました。立教の合格通知が来た直後、赤紙も来てニューギニアに送られました。その2日後に一橋の合格通知が届いて、母が、「あんなに勉強して一橋に入学したがっていたのに、あの子は、ニューギニアに入学してしまったよ」と言ったそうです。
大学に行きたくても赤紙が来てはね。だから、私は学歴はないのです… それを話したときは、孫のような若い女性が、「そんなこと、私だったら許せない。抗議すればよかったのに」と。抗議するって、アナタ! あの当時、そんなことできるはずもなかったのですよ。
でも、大学に入らなかったから、こうして生き延びているといってもよいかもしれません。大学生になった同期のヤツはみな飛行機乗りになって死んでしまいました。1920年生まれは、人口グラフにすると一番くびれている年なのですよ。一番兵隊に持っていかれたんですね、私たち大正9年生まれは。生き延びた私は、命ある限り彼らの「想い」を伝えてやりたいと思っているんです。
戦後2回、慰霊にニューギニアに行ってきましたが、私たちの布陣していた高射砲陣地には、辿り着けませんでした。ジャングルは50年経ってしまったら、全く様相が変わってしまいます。珊瑚礁ですから根がしっかり張れないで、30メートルもある大木が突然ドタンと倒れて、あの頃、行軍をしていてそれを乗り越えると、もうどちらから来たか、方角が全く判らなくなってしまったものです。
現地の人は今でも、高射砲陣地のあった周辺には近寄りません。高射砲を操作するカタカタという音が聞こえる、幽霊も出ると言って気味悪がって。軍服姿の写真を見せたら、部落のお嬢さんが、「これと同じ服を着ている、痩せた男の人だった」と怖がるんです。
交歓パーティーでパプア族のラジャー… 酋長のことですがね、その人が言ったんですよ。「日本人は、供養をしてあげないから、霊が未ださ迷っているんです。キリスト教、イスラム教、ジャイナ教、仏教… 宗教なんて何でもいい。手を合わせて心を込めて亡くなった人の冥福を祈ってあげてください」と。そして、「日本人は勘違いしている。慰霊と戦争を正当化することとは全く違う。亡くなった人に手を合わせることを忘れてはダメです。当時の若者たちは国の為とだけを信じて戦い、殉じていったのですから…」と。
戦後、占領軍の方針で『戦争史観』というものが失われてしまいました。それでは浮かばれませんよ。日本人だけでも3百万人以上も亡くなっているんです、この戦争で。亡霊となって50年60年もの間さ迷い出現してくる兵士も大変です。
三橋:
まさに、それは魂さんの気持ちだと思います。出てこなければいけない状況で、ずっと待ち続けている。何とか光あるところに帰りたい、と思いながら、いつまでも戦争のさなかに居るんですね。亡くなって、肉体は消えてしまっても、魂は残りますから。戦時中のことが空白になっていて、そのときの兵隊さんの辛い気持ちを感じられないと、祈りも通じません。まず、私たちが知らなければ。

<後略>

(2005年1月19日 東京・町田市の三橋國民さんのご自宅にて 構成 須田玲子)

この対談の続きは会員専用の月刊誌『月刊ハイゲンキ』でご覧いただけます。
月刊誌会員登録はこちら
この対談の続きは会員専用の月刊誌『月刊ハイゲンキ』でご覧いただけます。
月刊誌会員登録はこちら