今月の対談「いい人いい話いい氣づき」

2010年5月 「水谷 孝次」さん

水谷 孝次(みずたに こうじ)さん

アートディレクター・グラフィックデザイナー。1951年名古屋市生まれ。
数々の賞を獲得し、トップデザイナーとして活躍する。99年より「笑顔は世
界共通のコミュニケーション」を合言葉に「メリー・プロジェクト」を始める。
愛知万博、北京オリンピックなどで、笑顔のすばらしさを世界に発信してき
た。これまで撮影してきた30,000人以上のメリーな笑顔はウェブサイトで
見られる。著書「デザインが奇跡を起こす」(PHP研究所)。

『笑顔とやさしい言葉を与えればあなたにも笑顔とやさしい言葉が帰ってくる』

心を込めて歌ったら、万雷の拍手をもらった体験が原点に

中川:
はじめまして。水谷さんの書かれた「デザインが奇跡を起こす」(PHP研究所)という本を拝読させていただきました。最初は、デザインというのは私にはあまり関係ない世界だと思っていたのですが、読ませていただいているうちに、水谷さんのデザインは、私たちのもっているデザインのイメージと全然違って、ポスターを作るとか雑誌を作るといったことを超えた、人生のデザインみたいな、そんな感じがしたんですね。今日は、いろいろな話をお聞きしたいなと思っておうかがいしました。よろしくお願いします。
水谷:
こちらこそよろしくお願いします。中川会長がやられているのは氣ですよね。ぼくは、これがとても大事だと、ずっと思ってきました。もっとも、ぼくの場合は、医学的とかスピリチュアルということではなくて、デザインという仕事をやる上での気合いとか気迫ですね。その大切さは身をもって感じてきましたね。
中川:
私も、今でこそ氣について語っていますが、もともとは電機会社のエンジニアでしたから、医学的なこともスピリチュアルなことも全然興味ありませんでした。しかし、体調を悪くして、父がやっていた氣の研修に参加してから価値観ががらりと変わってしまいました。それで父の仕事を手伝うようになったら、父が急死して跡を継ぐことになってしまったという経緯があります。
水谷:
ぼくがデザイナーというのを意識したのは就職を考える時期ですかね。子どものころは、いろいろと習いごとはやりましたが、どれも長続きしなかったですね。塾も行ったし、英語も習いました。ひとつだけ続いたのがお習字でした。これは小学校1年生から6年間でやりました。字を書くという感覚が好きで、それがデザイナーになろうと思ったベースにあるかもしれません。今も、たとえば請求書を書くときでも、習字の基本ですが、左手を紙の手前にきちんと置いて書きますから(笑)。それと、もう一つが音楽かな。
中川:
音楽ですか。
水谷:
高校生から大学生のころは、フォークソングに夢中になっていて、「音楽で世界を変えよう」「フォークソングでメッセージを」と、自分で歌を作って、歌っていました。名古屋だったのですが、地元のラジオ局から出演依頼が来たり、学園祭の時期には女子大からオファーが来たりと、けっこう活発に活動していましたね。ちょうど60年安保と70年安保の間で、63年にJ・F・ケネディが、68年にはR・ケネディが暗殺されるなどして、若者を中心に反戦運動が盛んになっていたころです。ぼくも、ケネディ一家は好きだったので、彼らが暗殺されたのはすごいショックでした。ロバート・ケネディが暗殺された日も、女子大でコンサートがあって、ぼくは自作の「ロバート・ケネディの歌」を歌いました。連日のコンサートで声は枯れ、ギターの弦も途中で切れてしまって最悪でした。でも、心は無に近い状態になって、自分の気持ちを込めて歌ったものですから、1000人くらいの人がシーンとして聞いてくれたし、終わった後には万雷の拍手がきまして、自分が心を込めて歌えば、みんなが喜んでくれるんだということを実感して、すごく感動しました。それまでは、たった数人の観客でも、自分のステージに気持ちをひきつけることができませんでしたから。上手に歌おうとか格好良く見せようとか、そんな邪心があるとダメですね。この「ロバート・ケネディの歌」のときの感動が、東京へ出ようという自信にもつながりましたね。
中川:
氣が通じたんでしょうね。テクニックを超えた世界だと思います。それと、お父さんの影響もあったと書かれていましたね。
水谷:
父親は戦争で耳を負傷して、片方の耳が聞こえなくなってしまって、耳も変形していました。何度も入退院を繰り返し、通院もしていました。もともとは明るい父だったのに、戦争によって耳が聞こえなくなって、怒りっぽかったし、いつもイライラしていましたから、家の中も暗い感じでした。そんな父を見ていて、戦争が悪いんだ、世の中が悪いんだ、ぼくが大人になったら世の中を変えてやろうと思っていましたよ。3歳のときですから、ずいぶんと早熟だったかもしれませんが(笑)。父は絵が得意で、飼っていた鳥や庭の植物を一緒に描いた記憶があります。絵を描いているときだけは、父はとても穏やかでした。ぼくは、勉強もスポーツも取り立てて得意ではありませんでしたが、絵を描くことだけは大好きでしたね。それもデザイナーになるベースとしてあったでしょうね。
中川:
その後、東京へ出て、デザイナーとして大変な成功を収めたわけですが、いろいろとご苦労もあったと思いますが。
水谷:
苦労と言われれば苦労かもしれませんが、夢中でやってきましたからね。やっぱり氣ですよ。気合いとか気迫とか。気合いや気迫があれば、流れを呼び込むことができるんですね。たとえば、東京へ出て、桑沢デザイン研究所という学校へ入ろうとしたんですが、とても難しいところで、ぼくの実力ではとても入れません。案の定、一年目は不合格。どうしたらいいかわからないので、2年目はひたすら自分の手のデッサンばかりやっていました。そしたら、その年の試験問題が「手の動きを描きなさい」でしたから。これしか合格できないというような問題が出るなんて奇跡的ですよ。その後も、有名な先生のところで働いたりしましたが、すべて気合いと気迫。金曜日に面接があって不合格になったのに、月曜日にはその事務所へ出かけて行って仕事をしていたこともあります。そのまま雇ってくれて、給料もくれましたから(笑)。

<後略>

(2010年3月11日 東京都港区にある水谷事務所にて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

『デザインが奇跡を起こす』(PHP研究所)
mizutani studio
http://www.mizutanistudio.com
メリー・プロジェクト
http://www.merryproject.com

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