今月の対談「いい人いい話いい氣づき」

2006年6月 「五十嵐 薫」さん

五十嵐 薫(いがらし かおる)さん

1953年山形県鶴岡市に生まれる。電気通信大学物理工学科卒業。ミネベア(株)に勤務し、電子設計部門を担当。'82年内省セミナーのインストラクターを務める一方、自宅で家庭内暴力、不登校の青少年を育てる。'85年マザー・テレサのもとで奉仕の精神を学ぶ『インド心の旅』を始める。'99年特定非営利活動法人「レインボー国際協会」を創設、理事長。インドのコルカタに、親のない子ども達の家レインボー・ホームと無料クリニックを運営している。東京都府中市在住。

『マザー・テレサが伝えてくれた二つの言葉』

「アイ サースト!」と叫ぶイエスを見た

中川:
はじめまして。3月号で対談させていただいた千葉茂樹監督から五十嵐さんをご紹介いただきました。
五十嵐:
千葉監督とは、もうかれこれ20年以上のお付き合いになります。私が、自宅で家庭内暴力や登校拒否の子ども達を常時10人ほど預かって生活していたときに、千葉監督が「あなたが預かっている子ども達を、インドに連れて行って、マザー・テレサの施設でボランティアを体験させたらどうかな。日本は望めば誰もがいつでも学校に行ける。インドには貧しくて生きるのが精一杯で、学校に行きたくても行けない子ども達がたくさんいるよ。あなたのところの子ども達も、彼らと接すると、価値観が変わるかもしれない」とおっしゃってくれました。
それで、1985年に少年達を連れてインドに行き、マザー・テレサのところでボランティアをさせていただいたのです。マザーは快く受け入れてくださいました。マザーは1979年に来日したときに、「インドには経済的に恵まれず貧困にあえいでいる人がたくさんいます。でも、日本にも貧しい人は大勢います。あなたの周りに、家庭に、学校に、職場にも。それは、自分なんてこの世に必要がない、と思っている人たちのことです」と、日本人に向けてメッセージを残していきました。
中川:
マザー・テレサに初めてお会いしたときの印象は、いかがでしたか。
五十嵐:
たいへん驚きました。小柄な方なのに、持っている雰囲気がものすごく大きくて温かくて、思わずボロボロと涙があふれ出て、泣いてしまいました。マザーは、「(ドントクライ).(泣かないで)」と言って、自室から小さいメダイ(マリア様が刻まれたペンダント)を持って来られ、それに接吻して私に下さいました。「苦しいとき、このメダイに祈りなさい。あなたの祈りは必ずかなえられる、これは『奇跡のメダイ』です」と言って。それ以来、私はこのメダイを肌身離さず持っています。こうして始まった『インド心の旅』だったのですが、当初は年に1回だったのが、参加者のリクエストに応えているうちに、年に2度、そして3度になり、今は年に6回以上行くようになりました。
中川:
インドで貴重な体験をしてきた子ども達は、その後どんなふうに変わりましたか。
五十嵐:
彼らはものすごく心を揺さぶられて帰国するのですが、残念ながら親や学校の先生は変わっていません。元のままの環境に戻って子ども達は、だんだんとまた以前と同じような生活、思い方に戻っていってしまうんですね。もちろん、大きく変化していく子もいますが…。
マザー・テレサのところでボランティアすることを学ぶ必要があるのは、子ども達よりもむしろ大人の方だと私は思いました。そして講演会に呼ばれるたびに、PTAや学校の先生、看護士さんなど医療関係の方々、福祉に携わる方々にマザー・テレサの精神を訴えていったのです。
中川:
私どもも合宿制の研修講座を毎月開催しています。そこでいい氣をたくさん受けながら、心の持ち方などを学び、感謝の生活の中で幸せに生きていきましょう、というものなのです。最近では、心の不安定な若い人たちも多く参加されるのですが、研修後に帰るとまた以前と同じようになってしまうということも多々あります。親御さんの理解がとっても大事だと言うことを痛感しています。そういうこともあって、親子一緒の受講をお勧めしているのです。
五十嵐:
私は若いとき、様々な問題を抱えた子ども達を預かって、同じ屋根の下で24時間一緒に生きてきました。ある時、「五十嵐さんに預けたうちの子が逃げ帰って来て、家で暴れているので引き取りに来てほしい」、とその子の母親から夜中の2時頃に電話がありました。「連れ帰ってくれって言ったって、自分の子供じゃないか」と思いましたが、とにかく車で駆けつけ、話を聞き、気持ちが落ち着いたところで、「さあ、帰ろう」と手をさしのべました。彼は突然、「イヤだ!」と叫び、持っていた安全剃刀(かみそり)をふりあげました。私の顔の傷はその時に切られたものです。27針縫いました。
彼は、「親は僕を問題児扱いにして、他人の家に預け、自分たちは知らん顔で相変わらずの生き方をしている。そんなことってないじゃないか」と叫んでいたのです。私は病院のベッドの中で考えました。親と子どもはこの世に出てくる前に、大きな約束をし合って出てくる。血みどろになって闘いながらも、そこから学ばなければいけないものがあるはずであり、私が何か良いことをやっているような気持ちで、安易に親子の宿題を奪ってはならないのではないかと。そんな思いに至って、預かっていた子どもを返すことにしたのです。その子が親に対して「I THIRST(アイ サースト).」(私は渇いている)と訴えていたことを私に教えてくれたのがマザー・テレサでした。
中川:
アイ サーストですか。喉が渇いている、何かを懸命に求めている、ということですか。
五十嵐:
そうです。1946年8月、イスラムとヒンズーの激しい争いがコルカタ(旧カルカッタ)で起こりました。ロレット女子修道会の、寮で生活する貧しい子ども達を守るために、マザー・テレサは食糧を求め、コルカタの街を東奔西走しました。過労がたたり持病の気管支炎が再発し、当時の管区長に静養を命じられてダージリンにある観想修道院に向かいました。その途中の列車の中で、突然マザーの目の前に現れ、語りかけてきた人がいたのです。それは十字架で息を引き取る直前のイエス・キリストでした。マザー・テレサに「I THIRST.」(私は渇いている)と語りかけたのです。
あの世に帰る時期が近いと思ったのでしょうか、マザー・テレサは1993年3月25日に遺書と呼んでもおかしくない一通の手紙を、ベナレスから「神の愛の宣教者会」のシスターの方に送りました。マザーが他界したあとに、私は偶然その遺書のコピーを見てしまったのですが、読んでいきながらハンマーで殴られたように愕然としました。自分はそれまで10年以上マザーのもとに通っていながら、何もわかっていなかったと、ベナレスからの手紙を読みながら泣きました。その手紙には、イエス・キリストのことを「Real living person(リアルリビング パーソン)」と書いてありました。1946年9月10日、マザーの目の前に現れたのは、単に聖書に出てくる想像上でのイエスではなく、本当に生きて実在しているイエス・キリストだったのです。こんなことを言っても信じていただけるかわかりませんが、マザー・テレサにとってイエスや聖母マリアは、目に見える、語ることができる、触れることができる、実在の人だったのです。その実在の語りかけに導かれて、生きたマザーはどんなに幸せだったことか…。ここまで確信が持てたら人生に何の不安もありませんよね。
中川:
そうだったのですか。啓示のような声が聞こえたり、見えたりすること、それはあると思います。
五十嵐:
手紙の中でマザー・テレサは「Shy(シャイ)」と言う言葉を使って、「私にイエスやマリアが見えて、話ができることは恥ずかしいことだ」とおっしゃっています。そうでした、マザー・テレサは最期までこのことを人に語らず、あの世に帰っていきました。
中川:
マザーの生涯にわたる、強い信念を持った活動の原点ともいえる出来事だったのですね。
五十嵐:
この時のメッセージが「貧しい人々の中の最も貧しい人に心から仕えること」として、「神の愛の宣教者会」の四つ目の誓願に加えられました。ベナレスの手紙に遺されております。『神の愛の宣教者会』は「I THIRST.」(私は渇いている)という、イエス・キリストの渇きを満たす為、その目的の為だけに聖母マリアが作られた修道会だと。

<後略>

(2006年4月12日 府中市NPOボランティア活動センターにて 構成 須田玲子)

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