今月の対談「いい人いい話いい氣づき」

2009年4月 「小出 裕章」さん

小出 裕章(こいで ひろあき)さん

1949年東京都生まれ。東北大学工学部原子核工学科卒業。同大学院修了。京都大学原子炉実験所助教。原子力の専門家という立場で、原子力の危険性を訴え続けている。著書に「放射能汚染の現実を超えて」(北斗出版)「原子力と共存できるか」(かもがわ出版・共著)などがある。

『原子力をやめさせるために自分の知識を使いたい』

原子力は本当に未来を支えるエネルギー?

中川:
私どもは、「氣」という生命の根源と言われているエネルギーを扱っています。氣というと実体がなくて、怪しげなものととらえられていますが、氣に代表されるような何か目に見えないエネルギーがあることを前提に生きていくと、生き方そのものがとても豊かになってきます。しかし、それは霞を食べて生きていくということではなくて、現実生活をいかに正しく見て、適切な行動がとれるかということがとても大切だと思っています。そういう意味で、月刊ハイゲンキでも、原子力の問題は何度も取り上げています。本当に原子力は安全なの?必要なの?ということを、みんなで考えていくことがとても大切なのではと、問題提起をしているわけです。私は、原子力は、とても危険なものだと感じています。しかし、危険を感覚としてとらえるのも大事だけれども、私はもともとは技術者ですので、きちんと科学的な裏づけのもとで危険を語りたいと思っています。そのために、今日は、先生にレクチャーを受けに来た次第です。よろしくお願いします。
小出:
わざわざお越しくださってありがとうございます。私は、氣については門外漢ですが、原子力の危険性について興味をもってくださっている方は、大歓迎です。何でもお聞きください。
中川:
ありがとうございます。原子力の専門家というと、どうしても原子力発電所を推進する立場にあると思ってしまうのですが、先生が原子力の危険性を語るようになったのは何かきっかけがあったのでしょうか。
小出:
私は、進学先として、東北大学工学部原子核工学科というところを選んだのですが、その動機は原子力をやりたかったからです。1968年に入学しましたが、このころというのは、原子力こそ未来の人類を支えるエネルギーともてはやされていた時代です。私も、原子力に夢をもって入学し、少なくとも最初の1年間は、1時間も休まず授業に出て、勉強にまい進しました。そのころ、東北電力が原子力発電所を作ろうとしていました。女川という世界三大漁場と言われる三陸の豊かな海のあるところに建てるという計画でした。しかし、日本中、原子力には賛成だというムードの中、女川では反対運動が起こったんですね。私はどうしてだろう?と疑問に思いました。いろいろと調べてみると、彼らは、発電所をどうして電気の消費地である仙台ではなくて、100キロも離れた女川へ作るんだと指摘していました。私もその答えを探し求めました。そしてわかったのが、今から思えば当たり前なのですが、危険だから過疎地に押し付けるということだったんですね。
中川:
国や電力会社は、盛んに安全性を強調していますけど、それなら東京とか大阪とか、大都会の真ん中に原子力発電所を作ればいいと思いますよね。
小出:
当時は、大学闘争で、大学とは何か、学問とは何かが問われていましたが、私は女川の件で、その答えを見出しました。自分のやっている原子力工学というのがいわれのない犠牲、しわ寄せの上に成り立っていることに気づいたんです。それを支えているのが学問だった。それに気がついたときに、私としてはとるべき道はひとつしかなくて原子力をやってはいけない、これをやめさせるために、自分のもっている知識を使いたい。そう決意したんです。

<後略>

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