今月の対談「いい人いい話いい氣づき」

2012年5月 「棚次 正和」さん

棚次 正和(たなつぐ まさかず)さん

1949年香川県生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程(宗教学専攻)修了。筑波大学哲学・思想学系助教授、シカゴ大学神学校・高等宗教研究所シニア・フェロー、筑波大学哲学・思想学系教授をへて、現在、京都府立医科大学教授(人文・社会学教室)。著書に、『宗教の哲学』(創言社)『宗教の根源』(世界思想社)『人は何のために「祈る」のか』(村上和雄先生との共著 祥伝社)『祈りの人間学』(世界思想社)

『「祈る」ことは「生命をその根源から生きる」こと』

人間は絶対的なものを 求めずにはいられない 生き物

中川:
去年3月11日の地震と津波と原発事故で、たくさんの人が悲しい思いをしました。今でもつらい状況の人がたくさんいます。たくさんの物的な支援が行われると同時に、日本全国、世界各国の人たちが、被災地の人たちのために祈りのエネルギーを送り続けています。私たちも、たくさんの仲間が集まって、被災地に氣のエネルギーを送ろうというイベントを行いました。
私は、祈りの気持ちはすごく大事だし、間違いなく、被災地にその気持ちは届いていて、被災者の方々を元気づけたり、勇気を与えたりできると信じています。しかし、何分にも、祈りも氣も目に見えないものなので、証明のしようがありません。今日は、祈りのことを研究されている棚次先生に、祈りがいかに大切かということをお聞きしたくておうかがいしました。どうぞよろしくお願いします。
先生は、宗教哲学というのがご専門ですが、京都府立医科大学という、お医者さんになる学生さんたちの学校で、どういうことを教えられているのですか。
棚次:
こちらこそよろしくお願いします。この大学では、宗教学とか医療倫理学というのを教えております。授業は熱心に聞いてくれるのですが、あまり専門的なことは、理系の学生たちなので、それほど興味がないみたいです。卒業して、医療の現場に入れば、病気で苦しむ方とか亡くなる場面とも向き合うことになるので、そのときに、私の話したことが少しでも役に立てばいいのではないかと思っています。ターミナルケアなどの話は、医療倫理学でしっかりと話しています。
中川:
日本人というのは、あまり宗教のことは前面に出して語りませんよね。○○教の信者という形で宗教にかかわっている人も少ないですしね。そのへんは、世界でも異質なんじゃないですか。
棚次:
日本人というのは、宗教がらみの話は嫌う傾向にありますね。特に、若い人はそうかもしれません。オウムの事件以来、宗教というと、非常にネガティブにとらえられています。
でも、世界的に見ると、70億人の人口のうち、55億人以上が宗教の信仰をもっています。日本人は、ほとんどが宗教の信仰を持たないという特異な民族なんですね。そのへんの話をすると、学生もショックを受けるみたいですね。
中川:
日本人は、特定の宗教はなくても、宗教的な精神性をもっていますよね。大きな山があれば、そこに神様を感じるとかですね。
先生は、宗教体験を、「相対と絶対との統一」とおっしゃっていますね。非常に哲学的で難しいのですが、わかりやすく説明してくださいますか。
棚次:
相対と絶対とは、明らかに次元を異にする2つの世界です。相対とは、他の相対との関係においてあるものを指します。絶対とは相対を絶しているものを指して、他との関係なしに独立自存する実在です。その両者が統一されるというのは矛盾なのですが、宗教体験では、それが統一されているのです。
たとえば、私たちの欲望ですが、それが充足されることは決してありません。欲望の本質はそれが決して満たされないところにあります。なぜなら、欲望というのは、相対の存在だからです。これは、どこまでいっても絶対的なものにはなりません。幸せにしても、それが永続的なものかというと違いますよね。何かあると不幸のどん底に陥ったような気分になってしまいます。私たちが肉体をもっている限り、こういった相対的なものに支配されざるを得ないですし、相対的なものである限り、苦がつきまといます。
私は、人間というのは、「絶対と相対との関係」だと考えています。絶対だけでもなく相対だけでもない。多くの人は、相対的なところで人間をとらえている。その限りだと、いつまでも落着はないでしょうね。
相対からくる苦しみを乗り越えるには、絶対的なものを意識する必要があります。宗教というものが、絶対を考えるきっかけになります。
中川:
人間は、どうしても人と比べて自分はどうだとか考えてしまうわけですよね。そこに苦しみとか悩みが生じてきて、そこから脱するには、どうしても神のような絶対的な存在を意識するしかないということですよね。よく、弱いから宗教に逃げるという考え方をする人もいますが、それはどうなのでしょうか?
中川:
そういう側面もあるでしょうね。でも、私は違うとらえ方をしています。宗教にしても祈りにしても、弱いから絶対的なものを求めるのではなく、人間はもともと絶対的なものを求めざるを得ないようになっているのではないでしょうか。

(後略)

(2012年2月22 日 京都府立医科大学にて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

左上・『祈りの人間学』(棚次正和著 世界思想社)
右下・『人は何のために「祈る」のか』(村上和雄先生との共著 祥伝社)

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