今月の対談「いい人いい話いい氣づき」

2003年12月 「湯川 れい子」さん

湯川 れい子(ゆかわ れいこ)さん

東京で生まれ、山形で育つ。鴎友学園女子高校を卒業。昭和35年ジャズ専門誌の読者論壇に投稿、これを機にジャズ評論家としてデビュー。ラジオのDJ、ポップスの評論・解説を手がけて現在に至る。『ランナウェイ』『六本木心中』『恋におちて』など作詞も多数。ディズニー・アニメ映画の日本語訳詞や、ミュージカルの日本語詞も。プロデュース作品、スーザン・オズボーンのCD『和美』はレコード大賞企画賞受賞。著書『幸福へのパラダイム』(海竜社)で日本文芸大賞ノンフィクション賞受賞。他に『オーロラ・光ふる夜』(PHP研究社)『今夜もひとりかい』(共同通信社)『幸福への共時性』『幸福への旅立ち』(海竜社)など多数。近年は環境問題を考えグローバルに活動する「レインボウ・ネットワーク」を組織、永久会員にはシャーリー・マクレーン、オノ・ヨーコ、オリビア・ニュートン・ジョンなど。http://www.rainbow-network.com

『力で奪い合わず、想像力と笑顔と歌うことで共存の道を』

皆が持っている力、皆が等しく恩恵にあずかれるもの

中川:
本欄で湯川さんと先代と対談していただいたことがありましたが、調べてみましたら92年5月号でした。もう、11年半も前のことなのですね。
湯川:
そう、あのときお父様は、「ハイゲンキは構造的には何もつながっていないけど、どうしてか効くんだよね。一番信じてないのが僕の家族なんだ」とおっしゃっていて、すごく正直な方でした(笑)。
中川:
そうでした(笑)。私はエンジニアでしたから、見えることばかり追っていて、氣なんか錯覚じゃないの?と思っていました。それが体調を崩し、父の開催している研修講座に参加して、魂とか氣とか大きな存在が分かりました。その対談記事を読み返してみたのですが、湯川さんと霊の話や自動書記の話まで、かなり深く触れていますね。
湯川:
あの頃は、私自身、まるでジェットコースターに乗っているようなときで、次から次に不思議で面白いことが起きていました。でもそのうちに、待てよ、こういう追いかけ方をしていると、非常に危険だ、と気がつきました。カルト的になってしまうのではないかと、その危険性に気づかされまして。自動書記にしても、必ずしも高い意識レベルではないことも分かりましたし。
不思議な力を見せてくれたり、病気治しをしてくれる人もいましたが、その人を教祖と勘違いして、教祖の力だと思ってしまうと危険ですよね。例えば、オーラを見せてくださる人がいて、その方は癌を治す前に1千万円、治ったら3千万円なんて言っていました。何で、この人にそんな力があるの?本当に人間として尊敬に値する方なの?と。
近頃は、そういう人は淘汰されてきていますよね。今は、こういう世界を非科学的だと頭から否定するのではなくて、特別な人ばかりではなく皆が持っている潜在的な力であって、皆が等しく恩恵にあずかれるもの、そして、それに気づいて使わせてもらえば、もっと人生は楽しく実りのあるものになりますよ、ということを真摯に教えて下さっている方の時代になってきたかな、と思います。
中川:
まさしくその通りですね。時代ということもあったのでしょう。氣についても知られていませんでしたから、こういうものもあるのだよ、と先代はまるでブルドーザのようにガァーッと走り抜けながら見せてくれた感じがします。その時代は、皆が先代を頼っていました。
湯川:
そうですね。その頃は自然界に溢れている、氣とか宇宙エネルギーとか言われているものを、集約して照射してくださる人は、そんなにいらっしゃらなかったですものね。
中川:
今は、ビックリさせたり霊的なことをおどろおどろしく言わなくても、先代のときに培ったそういう体験を基に、氣の存在を分かる人がずいぶん増えてきました。皆さん一人ひとりが相手に氣を中継することによって自分自身を癒しながら、相手を癒すようになっています。ハイゲンキという機械があったからこそ、真氣光が残っているのだとも思います。
湯川:
お父様は、チェルノブイリの被災者の治療によくロシアにいらしていましたよね。あるときバッタリ、成田空港でお会いしました。荷物が出てくる回転台の縁に腰を掛けていらしたけれど、とても疲れたご様子で驚きました。対談のときは、パチンパチンに元気でいらしたのに。それがお会いした最後でした。
中川:
1ヵ月に数日しか家に帰らず、身体が幾つあっても足りないくらいアチコチに飛び回っていましたから、やはり肉体的にくたびれていたと思います。95年の12月に2度目の脳出血を起こし亡くなりました。
私が下田で行われていた講座に参加したのが92年5月で、父の会社の社員になったのが93年10月でしたから、3年ほど父と行動を共にしていました。
湯川:
でも、ご存命のときにそういうお姿を間近に見ることが出来てお幸せでしたね。お父様はちょっと不思議な(笑)理想的なモデルでいらして、それをそう思わないときがあったけれど、そのスーパーさに気がついたとき、あっ、そうかと思えて、中川さんの今がおありになると思います。

<後略>

(2003年9月25日 「オフィス・レインボウ」にて 構成 須田玲子)

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