今月の対談「いい人いい話いい氣づき」

2018年10月 「佐伯 康人」さん

佐伯 康人(さえき やすと)さん

1967年北九州市生まれ。小学校のとき愛媛県松山市に転居。若いころよりバンド活動をし、1992年にメジャーデビュー。しかし、芸能界の風習になじめず音楽活動を休止して松山に帰る。2000年三つ子が誕生。3人とも運動機能に障がいをもって生まれた。2003年居宅介護施設「パーソナルアシスタント青空」を設立。2016年「一般社団法人 農福連携自然栽培パーティ全国協議会」を立ち上げる。

『 体の不自由な三つ子から学んだこと。障がい者はイノベーターだ!』

三つ子が授かったが、出産時のトラブルで脳に障がいを受けた

中川:
佐伯さんとお会いするのは二度目です。以前、愛媛県の砥部町にある坂村真民記念館の館長さんと対談しました。佐伯さんも本拠地が砥部町で、記念館へ行く途中に佐伯さんが経営する「あおぞらベジィ」というカフェに寄って、少しだけお話ができました。あのカフェは、店長さんがダウン症の若者で、彼が顔を出すだけで店内が和んで、障がい者の持ち味をうまく引きだそうとしている佐伯さんの思いが感じられました。
佐伯さんは、障がい者の就労支援やデイサービスといった事業をされていますが、その活動がかなりユニークだということで注目されています。
その話は追々お聞きするとして、もともと佐伯さんはミュージシャンだったということですね。
佐伯:
若いころはロックをやっていました。東京へ出てデビューもしましたが、ああいう世界は自分にはあまり合ってなかったですよね。プロになっても、音楽活動は遊びの延長でしたので、まわりとずれが出てきて、自分でも面白くなくなってきてやめてしまいました。ずいぶんと迷惑をかけましたよ(笑)。
中川:
それで愛媛へ帰って、そこから大きなドラマが始まったんですよね。お子さんが生まれました。それも三つ子でした。
佐伯:
2000年のことです。7ヶ月半の早産でした。生まれたときは小さくてびっくりしました。長男が890グラム、長女が1200グラム、次男が1300グラムで、手のひらに乗るくらいの大きさでしたから。
しばらくして先生に呼ばれました。先生からは子どもたちの脳のCT画像を見せられ、「脳室周囲白質軟化症」という病名を告げられました。3人とも脳室の周囲に問題があって運動機能に障がいが出るだろうとのことでした。次男は自分で呼吸をしてなくて、生きられるかどうか保証ができないとも言われました。
中川:
それはショックだったでしょう。
佐伯:
言われた瞬間はショックがあったと思います。でも、そのショックは1秒も続かなかったという感じです。すぐに気持ちが切り換えられて、妻やこの子たちを守っていくのが自分の使命だと思えました。そのためにも、まずはこの子たちの命を救うことだ。そして、できるだけ元気な姿で母親に会わせてあげたい。そういう思いで胸がいっぱいになりました。不安や心配にひれ伏している間もなく、不思議なファイトが湧いてきたのを覚えています。
中川:
そこはすごいと思います。お子さんが障がいをもって生まれてくるというのは、だれもがネガティブにとらえてしまいます。実際、お子さんを育てていく上でもさまざまな苦労を伴うでしょうし。それも3人ですからね。絶望するような状況なのに、よくそんなふうに気持ちを切り替えることができたと感心します。
佐伯:
面白いのですが、彼らが生まれるときにぼくの母親と待合室にいたら、テレビからベートーベンの交響曲第九番第四楽章「歓喜の歌」が流れてきました。歓喜の歌というと年末というイメージがあるじゃないですか。それが6月18日のテレビで流れていました。彼らの誕生が祝福されているような、そんな気がしました。
中川:
佐伯さんは、意識の深いところで障がいのある子どもを3人も授かるということに、大事な意味を感じていたのかもしれませんね。それを知らせるために歓喜の歌が流れたということもあり得ると思います。
自発呼吸をしていなかったお子さんはどうなりましたか。
佐伯:
先生は早く名前をつけてほしいと言いました。きっと死亡届に名前を記入する必要があるからということを、先生は言いたかったのだと思います。長男は宇宙(コスモ)、長女は素晴(スバル)と名付けましたが、なかなか次男の名前は決まりませんでした。
ぼくは、保育器の中にいる次男の手に小指を当てて、「生きろ! 生きろ!」と声をかけました。お前の人生の主人公はお前しかない! という気持ちを送り続けました。そのとき、この子の名前がぱっと浮かびました。「主人公」と書いてヒーローと読ませよう。そう決めました。たくましく生きていけるヒーローになってほしいという願いを込めての命名でした。
3人の名前が決まったので、姉に頼んで市役所へ出生届を出しに行ってもらいました。ぼくは、子どもたちのそばに付きっきりだったので、動けませんでしたから。
しばらくして、姉から無事に出生届を出したよと電話がありました。そしたら、何とその直後に主人公(ヒーロー)が自発呼吸を始めました。彼は生きることを選んでくれたんですね。うれしかったですね。

<後略>

(2018年7月27日 東京日比谷の松本楼にて 構成/小原田泰久)

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