今月の対談「いい人いい話いい氣づき」

2012年11月 「鈴木 七沖」さん

鈴木 七沖(すずき なおき)さん

1964年愛知県生まれ。日本大学、文化服装学院を卒業後、さまざまな職業をへて、33歳のときに㈱サンマーク出版に入社。現在、取締役TB編集部編集長。担当書籍の累計実売数が300万部を突破。2011年3月、ドキュメント映画「SWITCH」を制作。各地で自主上映会が広まっている。英語版も完成し、海外上映も始まっている。

『本と映像作品で、楽しく豊かな人の輪を作っていく』

自分で作っていた50部の新聞が人生を変えるきっかけに

中川:
はじめまして。鈴木さんは、編集者としていろいろな本を作られていますが、『「原因」と「結果」の法則』など、みなさん、よく知っている本がたくさんありますね。ずいぶんとベストセラーを世に出されているとお聞きしていますが、私は、沖縄で『いのちのまつり』という絵本を見つけて、とても良かったので、会員さんにご紹介したことがあります。あれも、鈴木さんが編集されたそうですね。
鈴木:
ありがとうございます。おかげさまで、絵本としては異例とも言える大変な売れ行きで、小学校の道徳の副読本としても使われています。週に2~3校から、スライドにして全校生徒に見せてもいいだろうかというような問い合わせをいただきます。小学生のお子さんをおもちの親御さんは、きっとこの絵本のことをご存じじゃないでしょうかね。
もともとは、佐賀に住んでいる草場一壽さんという男性が自費で出版したものです。男の子がパーキングビルから突き落とされた事件や西鉄バスジャック事件が九州の近県で起こり、これは黙っていられないというので、絵本という形でいのちのことを訴えたんですね。
それが、口コミで広がって、約5000部も出ました。自費出版では考えられないことですよ。その本が、回り回って、私のところへ来ました。読んだ瞬間に、「これをやりたい」と思いましたね。
中川:
見た瞬間に、ぴぴっときたわけですね。
鈴木:
どの仕事も瞬間ですね。この本を、うちの代表のところへもっていきました。そしたら、代表のところへも、違うルートからその本が届いていました。5000冊のうちの2冊が、うちの会社へ来ていたわけです。
そういう偶然の多い編集者人生ですね。
中川:
一瞬のひらめきというのは大事だと思います。考えて考えて、考え抜いて決断するというのも必要なことはあるかもしれませんが、ぱっとひらめいたことに従うと、うまくいくというのは、私も、氣をやっていてよく感じますね。
この絵本の何ページ目かにある仕掛けにはびっくりさせられました。ある絵が折りたたまれているページがあって、それを広げていくと、「あっ」と思ってしまいました。「なるほど」と納得する人もいるでしょうね。
鈴木:
だれにでもお父さんとお母さんがいて、さらにその上にお父さんとお母さんがいて…それをずっとさかのぼっていくと、無数とも言えるご先祖様がいるわけですよ。それを絵にしたんですね。言葉で、「たくさんのご先祖様がいる」と言っても、なかなか実感できませんが、こうやって絵にすると、納得できるのではないでしょうか。
中川:
その通りですね。私は長年、氣をやっていますが、氣とはこんなものだと、いくら言葉で説明してもなかなか伝わりません。でも、体験してもらうと、何も言わなくても、わかる人にはわかります。
ところで、鈴木さんは、編集者になる前、いろいろな仕事をされてきたようですが。
鈴木:
いやいや、威張れるようなことではないのですが、両手の指ではおさまらないくらいの仕事をしてきました。今の会社へ入る前は、産業廃棄物を回収するトラックの運転手でした。今はお台場と言われていますが、当時は夢の島という関東地方のゴミの最終処理場へ、ゴミを運んでいました。
中川:
それがまた、どうして出版社へ入ることになったのですか。
鈴木:
妻が乳がんになりまして、田舎で暮らした方がいいと思って、埼玉県の伊奈町というところに引っ越しました。産廃の仕事をやめて、新居近くの町工場で働き出しました。そのころ、ずっと50部くらいの新聞を出して、親しい人に配っていました。そしたら、そのうちの一部が、当時のサンマーク出版の社長の目に止まりまして、会いたいと呼び出されました。そしたら、うちに来ないかという話になりまして、それがきっかけですね。一度はお断りをしたのですが、こんな話はなかなかないだろうと思って、お世話になることにしました。
中川:
ご自分で作っておられた新聞が縁だったわけですね。それも、たった50部だけなのに、それで人生が変わってしまいましたね。どんな新聞を作っておられたのですか。
鈴木:
そのころはパソコンもありませんでしたから、ワープロで自分の思いを書いて、写真を切り張りして作った新聞です。それまでいろいろな仕事をしてきて、広告業界でも働きましたし、文章を書くのは好きでした。
内容は、夢の島で仕事をして感じたことですね。たとえば、いくら川下の夢の島で仕分けをしたって、川上の私たちの生活が変わらなければ、ゴミ問題は何も解決しないということを訴えたり、夢の島の土壌の微生物を調べたり、当時はEM菌というのが流行りはじめていて、それを飲むとどうなるかという人体実験を自分の体でしたりもしましたね。会長がやっておられるような目に見えない世界のことにも興味がありましたので、そういう話も書いていました。

(後略)

(2012年9月 19 日  東京日比谷 松本楼にて 構成 小原田泰久)

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