今月の対談「いい人いい話いい氣づき」

2015年5月 「たくき よしみつ」さん

たくき よしみつ(たくき よしみつ)さん

作家・作曲家。1955年福島市生まれ。1991年、原子力の問題をテーマにした「マリアの父親」で第四回小説すばる新人賞を受賞。2004年の中越地震で新潟県の家を失い、川内村に移住。3・11で被災して、その年の11月に日光市に移り住む。著書は、「裸のフクシマ 原発30km圏内で暮らす」(講談社)「3・11後を生きるきみたちへ 福島からのメッセージ」(岩波ジュニア新書)ほか多数。

『3・11福島での体験。そして、今、思っていること』

山あり谷ありの人生。中越地震で家が壊れ、福島でも被災することに

中川:
鹿沼市に来たのは初めてです。さっき、見学させていただいた彫刻屋台は、本当に立派なものでしたね。祇園祭の山鉾のように、あの彫刻屋台が、お祭りにときには町を巡行するわけですね。
たくき:
こちらへお越しになる方には、「これを見ないで帰る手はないよ」と言って、必ずご案内しています。すごいでしょ。江戸時代には、こんなすばらしい技術があったんですよね。この屋台もお祭りも、あまり知られていなくて残念です。もっとPRすべきだと思って、自分でも彫刻屋台を紹介するサイトを作ったりしています。(http://nikko.us/yatai/)
中川:
意外と身近にあるものは、その価値がわからなかったりしますからね。たくきさんは、ここからそう遠くない日光市にお住まいですが、こちらへ引っ越して来られてどれくらいですか?
たくき:
2011年の11 月11日に引っ越してきました。1並びで覚えやすいということで(笑)。その前は、福島県の川内村にいまして、そこで、あの3・11を迎えました。
中川:
そうでしたね。川内村というのは、福島第一原発から30キロ圏内の村ですよね。地震と原発事故という、未曽有の災害を体験されて、『裸のフクシマ 原発30キロ圏内で暮らす』(講談社)とか『3・11後を生きるきみたちへ 福島からのメッセージ』(岩波ジュニア新書)を書かれていますが、たくきさんのことは、どうご紹介すればいいでしょうか。小説家ということでいいのでしょうか。
たくき:
何なんでしょうね(笑)。組織に所属して働くことは自分にはできないと思っていましたが、それ以外は、生きるためにいろいろなことをやってきました。ずっと志してきたのは作曲家です。ステージに立って演奏するよりも、メロディを作って作品を残すことに生き甲斐を感じています。若いころ、大手のレコード会社からデビューする寸前までいきました。会社も、日本を代表する作曲家に育てようと力を入れてくれたのですが、いろいろと行き違いがあって、チャンスをつぶしてしまいました。
並行して小説家デビューも狙っていて、新人文学賞への応募も続けていました。小説は中学生のころから書いていました。長い文章を書くのは少しも苦にならないんです。「群像」という文芸誌の新人賞では、最終選考まで残りました。ただ、そのとき受賞したのが村上春樹さんだったから、ちょっと相手が悪かったかな(笑)。
1991年に、『マリアの父親』という作品で、第四回小説すばる新人賞を受賞しました。奇しくも、この作品を書くきっかけというのが、当時、活発に行われていた原発論争だったのです。あのときに、原子力についてはずいぶんと勉強しましたが、20年たった今、事実は小説よりも……の世界になってしまいましたね。
中川:
それからは、主に小説を書かれてきたのですか?
たくき:
新人賞をとっても、出版社の事情に振り回されたりして、なかなか作品を発表するチャンスに恵まれませんでした。『マリアの父親』を読んで、『たくきは、反原発の危険人物だ』と言っている人もいたみたいです。でも、思えば、今よりはずっと自由で活気のある世の中でしたね。チャンスをつぶしたのはやはり自分の責任でしょう。
結局、生きるために再びいろいろやらなければならなくなり、その後は小説だけでなく、デジタル文化論とか芸術としての狛犬とか、多岐に渡るテーマで書いてきましたし、チャンスがあれば音楽関係の仕事もしてきました。肩書は「作家・作曲家」としていることが多いですかね。
中川:
山あり谷ありということでは、2004年の中越地震でも被災されているということですね。
たくき:
今、お話ししたのは、ほんの表面的な話で、とにかく話せばキリがないほど、いろいろなことがあって、都会での生活に息苦しくなってきたんですね。音楽で大成功して、里山ひとつくらい買って、そこに一軒家を建てて、豪華なスタジオを作って、優雅に音楽三昧なんて考えていたのですが、そうはいかなかった。このままじり貧になって一生を終えることの恐怖にかられました。それで、幸せの価値観をシフトしないといけないと思い、田舎暮らしを考えました。でも、当時はまだネットの時代じゃないし、やっとファックスが出始めたころですから、首都圏に仕事場をもちながら、田舎にも家をもつという形でしたね。そういう生活をするために選んだのが新潟でした。古い家を買って、夏だけそこで仕事をし、仕事の合間に、家の修理をしたりして、十数年かけて、自分が気に入るような家にした矢先に中越地震で全部失いました。
中川:
そのときは、新潟におられたのですか?
たくき:
いえ、川崎にいました。地震の報を聞いて、家がどうなっているか心配で、飛んで行きたかったのですが、道路は寸断されていましたし、近所の人に電話をしようとしてもつながりません。本当にやきもきしましたよ。
一週間ほどして、隣のおばさんから電話があって、『残念だけど、もうダメだねえ。斜めになっているし』なんて言われ、がくっときましたねえ、あのときは。集落は、『この土地には二度と家を建ててはいけない、住んではいけない』という条件をのんで、集団移転を決めてしまいました。仕方なく、次に住む家をあちこち探し回り、川内村の阿武隈の山奥にあった売り家を見つけ、2004年の末に引っ越しました。

<後略>

(2015年3月17日 栃木県鹿沼市内の喫茶店にて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

「裸のフクシマ 原発30km圏内で暮らす」たくき よしみつ 著 (講談社)

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