今月の対談「いい人いい話いい氣づき」

2017年6月 「宇井 眞紀子」さん

宇井 眞紀子(うい まきこ )さん

1960年千葉県生まれ。1992年、子どもを連れてアイヌ民族の取材を始める。2009年、全国のアイヌ民族100組を撮影するプロジェクトを開始。2017年5月「アイヌ、100人のいま」を刊行。日本写真芸術専門学校講師、武蔵野美術大学非常勤講師。
写真集に「アイヌときどき日本人」(社会評論社)「アイヌ、風の肖像」(新泉社)などがある。

『えない世界を大切にするアイヌの人の伝統や魅力を伝える』

小学生のときに、アイヌの少女が主人公の物語を書いた

中川:
宇井さんというのは珍しい苗字ですよね。
宇井:
そうですね。小さいころは、宇井って苗字はうちだけだと思っていました。私は千葉の生まれですが、親戚以外まわりにはいませんでしたから。
中川:
宇井さんはカメラマンとしてアイヌの人たちを撮っておられるわけですが、千葉で生まれた方が、どういうことからアイヌに興味をもったのか、そのあたりからお聞かせいただけますか。
宇井:
小学生のときからなぜかアイヌに興味がありました。国語の時間に、物語を作りましょうという授業があって、そのときにアイヌの少女が主人公になる物語を書いた覚えがあるんですよ。
中川:
すでに小学生のときにアイヌのことを知っていたんですね。
宇井:
何か印象的なことがあったはずなのですが、覚えてなくて。アイヌに関する最初の記憶がこれなんです。
今のような質問をよくされるので、なぜ興味をもったのだったのだろうと、いろいろと考えたことがありました。
そしたら、私が小さいころ、父親が日本中央競馬会に勤めていて、競馬場の近くに住んでいたことと関係があるかもしれないということに思い当たりました。競馬場には、厩務員という馬をお世話する人がいて、そういう人たちの中に、アイヌの方がいたということを、あとから知りました。
そこで、何か出会いがあったかもしれませんが、決定的にアイヌのことを知りたくなったのは、元夫の話からです。彼は、北海道の静内というアイヌの人がたくさん住んでいるところで育ったので、彼から幼いころの思い出話を聞いているうちに、アイヌの話が出てきて、もともと気になっていたので、片隅にあったアイヌが前面に出てきたという流れでしょうかね。
中川:
もうそのころは写真を撮っておられたんですね。
宇井:
そうですね。私は、最初からフリーランスで仕事をしていました。雑誌の仕事が主で、対談の場面とかポートレートとかアイドルとか、依頼があったら何でも撮っていました。でも、依頼されたものを撮るだけでなく、自分の作品作りをしたいという思いもありましたので、最初はダンサー、そのあとは自分の子どもの写真を撮って、写真展を開いたりしていました。
中川:
もともと人を撮るのが好きなんですね。
宇井:
そうだと思います。娘の写真を撮って、写真展が終わったところ、次は何を撮ろうかと思っていたとき、アイヌの人たちのことが気になり出して、本を読んだり、講演を聞いたりするようになりました。
中川:
そこからすぐにアイヌの方とのご縁ができたのですか。
宇井:
私は、ご縁というのは不思議なものだと思っていますが、私が撮った写真が掲載された雑誌が送られてきて、それを見ていたら、アシリレラさんというアイヌの女性の書かれた文章が載っていました。
そこには、北海道の二に風ぶ谷だにというところにダムができる計画があって、ダムができるとアイヌの聖地が壊されてしまう。アイヌとして何とかしなければいけないと思っている。ダムができるというのは人間で言えば、血管を止めるようなもの。なぜダムをやめてほしいと思っているのか。そんなことが書かれていました。
私も、アイヌのことがずっと気になっていましたから、二風谷のダムのことには興味をもっていました。それで、アシリレラさんに会いたいと思い、私はアイヌに興味があって記事を読んで二風谷に行ってみたいと思いましたというような手紙を書きました。1992年だったですね。
そしたら、泊まるところもあるからすぐにおいでと、返事が来ました。それがきっかけですね。
中川:
そうでしたか。これも導かれるようなご縁ですね。たまたま仕事をした雑誌に記事が出ていたのですからね。
宇井:
あれから25年ですね。あの雑誌が私の運命を決めましたね。

<後略>

(2017年4月12日 株式会社エスエーエス 東京セン ターにて 構成/小原田泰久)

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