今月の対談「いい人いい話いい氣づき」

2011年8月「北山 耕平」さん

北山 耕平(きたやま こうへい)さん

1949年神奈川県に生まれ、東京で育つ。立教大学卒業。雑誌「宝島」の編集に携わり、その後、アメリカに渡って取材活動を続け、「ポパイ」や「ホットドッグ・エクスプレス」といった雑誌に、アメリカの若者文化についての記事を書く。1979年ローリングサンダーとの運命的な出会いがあり、以来、インディアンたちの中に自分のルーツを探す旅を続けている。著書・訳書に「ネイティブ・マインド」「虹の戦士」「自然のレッスン」「地球のレッスン」「ジャンピング・マウス」などがある。

『インディアンに学び、本質を見る目を養っていく』

皆既日食を砂漠へ見に 行って、ローリングサン ダーと出会う

中川:
はじめまして。北山さんは、翻訳家であり作家で、アメリカ・インディアンのメッセージを伝えておられることでよく知られています。今日は、インディアンの生き方や考え方についていろいろとお聞きしたいと思っています。インディアンというとアメリカの先住民のことですが、近頃はネイティブ・アメリカンとよく呼んでいるようです。インディアンなのか、ネイティブ・アメリカンなのか、ほかにもっと適切なものがあるのか、どういう呼び名がいいのでしょうか。
北山:
たくさんの呼び名があります。「インディアン」や「ネイティブ・アメリカン」だけではなくて、「アメリカ・インディアン」「ネイティブ」「ネイティブ・ピープル」…などいくらでもあります。私は、そのときどきの気分や文脈で使い分けています。
それぞれ、歴史も意味もありますが、臨機応変に使い分ければいいと思います。ただ、彼ら先住民は、自分たちのことを「インディアン」とか「インディアン・ピープル」「ネイティブ」という言葉で呼んでいるようです。自分たちを「ネイティブ・アメリカン」と呼ぶインディアンには会ったことがないですね。彼らは、チェロキーとかショショーニといった自分の部族の名前で呼ぶのが一番自然なようです。
インディアンは差別語ではないかという気を回す人たちもいますが、決して差別語ではありませんから、安心して、そう呼んでいただいていいと思います。
中川:
そうですか。では、聞き慣れているし、言い慣れていますので、インディアンと呼ばせていただくことにします。
北山さんは、若い頃には編集の仕事をしておられて、アメリカで仕事をしているときにインディアンに会って、その生き方、考え方に魅せられていったとお聞きしていますが。
北山:
1970年代ですね。宝島の前身であるワンダーランドという雑誌の編集の仕事を始めました。新しい雑誌文化を作ろうという機運が盛り上がっていたころです。ポパイという雑誌の創刊を手伝いまして、アメリカの若者文化を伝えるため、特派員としてロスに行きました。自由にアメリカへ行けるようになったころの話です。
2年間は真面目に働いていました(笑)。アメリカの全部の州を、ジェットコースターに乗って回って、どれが一番怖いかといったような記事を書いていましたね。
中川:
日本人がアメリカ文化をあこがれの目で見ていたころですかね。編集者としても最先端を走っていたわけですね。それが、どうしてインディアンに向かっていったのか、興味深いですね。
北山:
私は、アメリカへ行ったときに、あまりカルチャーショックを受けませんでした。日本と変わらないような感覚で生活を始めましたから。でも、インディアンに初めて会ったときには、大きなカルチャーショックでした。
インディアンに会う前に、私の場合は、砂漠に魅せられたという段階があります。あるとき、アリゾナに取材に行く機会がありました。そこで砂漠を見ました。砂漠は湿気がないから霞んでいません。晴れていればずーっと先まで見えるんです。何十キロ四方、だれもいなくて、聞こえるのは風の音だけということもあります。それに、砂漠には地球ができたそのままがあります。そんな砂漠を見て、何とも言えないものを感じ、自分は砂漠が好きかもしれないって思いました。そして、2年間、毎月、どこかの砂漠へ行っていました。2年間砂漠に通いつめて、私はそこに人が住んでいるってことに気づいたんです。それまで、砂漠に住んでいる人がいるってことに考えが及びませんでした。私はこんな場所に住める人のすごさを感じ、彼らに関心をもつようになりました。それがインディアンへの関心の始まりです。
中川:
なるほど。
北山:
1979年2月26日ですが、ユタの砂漠で皆既日食が見られるというので出かけて行きました。20世紀最後の皆既日食と言われていました。途中、ネバダのカーリンというところのカフェで腹ごしらえをしました。そのとき、そこのおばさんから、「お前も、あの頭のおかしなインディアンに会いに来たのか」と聞かれました。近くに住んでいるインディアンが、天気を変えるとか言って、若い人たちを集めていると言うんですね。私は、これも縁かもしれないと思って、そのインディアンの家を教えてもらって訪ねて行きました。
そのインディアンが、ローリングサンダーと呼ばれている人だったのです。
私が訪ねて行くと、ローリングサンダーは留守で、奥さんが応対してくれました。奥さんは、私が皆既日食を見に来たと知ると、ローリングサンダーは皆既日食を見ない方がいいと言っていることを教えてくれました。そして、今日は遅くまで帰って来ないので、泊まっていけと毛布を貸してくれて、ゲストハウスへ案内してくれました。
ゲストハウスと言っても、お椀を伏せたような形をしたところで、土まんじゅうのようだと思いました。近くをフリーウエイが走っているのですが、そこからだと、家があるなんて、だれも思いません。生まれて初めてそんなところで寝たのですが、これまでの人生の中で、一番ぐっすりと眠れました。
中川:
寝心地が良かったんですね。そこは、何か特別な場所だったのですか。
北山:
お椀を伏せたような形ですから、家の中に角がないんですね。角がないというのは、プラネタリウムで寝ているようなもので、宇宙とつながっているという感覚になるんです。角というのは、直線と直線が交わってできますよね。それはインディアンの世界では時間を意味しているそうなんです。丸いところでは時間がないんですね。そういう場所だったからよく眠れたんでしょうね。
翌朝、4時半ごろだったか、ローリングサンダーが来ました。すごい存在感のある人でした。彼は、チェロキー族のメディスンマンでした。これから山で儀式があって、弓矢をもって頭には鳥の羽根をさして、いわゆるインディアンの正装をしていました。インディアンのメディスンマンに会うのも、そんな本格的な正装を見たのも初めてですから圧倒されました。
彼は、部族の仲間が皆既日食を見ないようにお祈りに行くのだと言っていました。皆既日食を見ると、脳にダメージを受けると言うのです。どんな動物も、皆既日食を見ないようにしているのに、人間だけは見たがると、彼は言っていました。皆既日食は、9時過ぎから11時頃に終わる予定でしたが、その時間、ずっと雪が降っていました。彼が、そうさせたのだと言うわけです。私にとっては、非常にショッキングな出会いでした。

(後略)

(2011年6月9日 東京 都立 小金井公園にて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

「古井戸に落ちたロバ」じゃこめてい出版

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