今月の対談「いい人いい話いい氣づき」

2005年12月 「大野 勝彦」さん

大野 勝彦(おおの かつひこ)さん

1944年、熊本県生まれ。高校卒業後、農家を営む。1988年、農機具洗浄中に巻き込まれ両手を切断。入院3日目より“湧き出る生”への想いを詩に託す。さらに2ヶ月目には、その喜びを水墨画に表現。退院後、全国各地で講演会、詩画の個展を開催。第9回熊本現代詩新人賞、熊本日日新聞社「豊かさ作文コンクール」グランプリ受賞など。詩画集は『そばにいた青い鳥―失って見えてきたもの』『やっぱ いっしょが ええなあ』など多数。2003年、阿蘇長陽村に「風の丘 阿蘇大野勝彦美術館」開館。2004年、3000回記念講演会「ありがとうがいつか笑顔になった」を米国ロサンゼルスで開催。2005年9月大分県飯田高原に「風の丘 大野勝彦美術館」をオープン。

『両腕を失って気づいた、優しさ、温もり…』

阿蘇に美術館、2年間で5万人の来館者が

中川:
知人から大野さんの詩画集を見せてもらったのですが、そのいきいきとした生命力溢れる絵と詩に感銘しました。それで、是非お目にかかりたいと思ったのです。私共の熊本センターが辛島町にあるのですが、そこから車で1時間半ほどでした。
大野:
稚拙な絵ですが、その中の「ニコニコ」と「ありがとう」を感じとってもらえれば嬉しいと思っています。ここ(美術館の玄関前)の正面は何も遮るものがなく、ほら、どこまでも見渡せるでしょう。阿蘇の外輪山がここだけ切れているのですよ。この地から下の熊本市の方に水が流れて行っています。
ずっと向こうにポールがあり青い旗の下に黄色い三角の旗が見えますか。あの旗が揚がっているときは、私が在館しているという合図です。そのときは、ここにいらした方に無料で20分ほどの講演をしているんです。もう、500回以上喋りましたよ。
中川:
ずいぶんたくさんの方が来館されているのですね。駐車場も広くて、先程も観光バスが止まっていました。素晴らしい眺めですね。広々として、花がとても綺麗で、いやぁ、本当に気持ちがいいです。これだけ広いのに、館内も外周りも良く手入れがされていて、感心しました。
大野:
美術館を建てたのは2年前ですが、今までにお蔭さまで5万人を超える方がいらしてくれました。敷地は約12000坪あります。この美術館を建てたいと言ったときには、知人友人など周りの人たちは皆、「止めた方がいい」と反対でした。建物を創るのもひと仕事ですが、運営していく事、これは並大抵のものではありませんから、皆さんはそれを心配して言ってくれたのです。
中川:
ここに美術館を建てようと決心されたのは、どういういきさつだったのですか。
大野:
これから追々お話しますが、私は45歳のとき事故で両腕を失ってしまったのです。群馬に星野富弘さんという方がいらっしゃるでしょう、入院中、あの方の著書『風の旅』に出合って、溢れる優しさに慟哭しました。そこから私の『風の丘 大野勝彦美術館』が生まれた気がします。
中川:
星野さんの詩画集は、私も何冊か見たことがあります。体育の先生をされていて、授業中にマット運動の模範演技を生徒さんたちに見せているときに、誤って頭から落ちて頚椎を損傷され、首から下の全身麻痺になった方ですね。その後、口に絵筆をくわえて詩画を描かれるようになって、地元に美術館も建てらたのですね。
大野:
そうです。それで、私は星野さんに是非お逢いしたいと思ったのですが、妻が「今のあなたでは逢ってくれませんよ。向こうから断られますよ」と言うのです。それならば、何とか星野さんに逢ってもらえるような人になろう、と一生懸命に生きてきました。
そうしたら、4年後に星野さんが熊本にお出でになり、逢ってくださったのです。そのときに、「あなたの夢は何ですか」と訊かれて、「阿蘇に美術館を建てることです」と答えてしまった。それが美術館建設のきっかけです。
中川:
そうですか。そのとき「断られるだろう」という状況だったのをバネにして、今の大野さんがあるのですね。いっけんマイナスのことをプラスに転換させられたということですね…素晴らしいです。
大野:
2年前に美術館をいよいよ建築しますと発表したら、全国の仲間達が猛反対しましてね。そこで、私は2月3日が誕生日なのですが、その日に私の葬儀をしました。お坊さんにお経もあげてもらって。その葬式の最後に挨拶に立って「今日は生前葬ですが、いつか本物のこの日が必ず来ます。その時、後悔したくありません。お香典はお返しします。どうか、お心だけはお寄せください」と、美術館をどうしても建てたいのだということを参列してくださった皆さんにお伝えし、応援をお願いしたのです。
私の決意を受け止めて、実に多くの方が「大野に美術館を建てさせてやりたい」と思ってくださり、本当に不思議なことがいっぱい起こって、実現したのです。自分は理屈っぽいけれど、その現象は自分の解釈では追いつかんのですよ。
中川:
思いはエネルギーですから。いろいろな方の思いの応援があったのでしょうね。美術館の建設は、ご家族の方もさぞ喜ばれたことでしょう。
大野:
ええ、とても喜んでくれました。でも、残念ながら父は完成を見ずに亡くなってしまいましたが。父は、あの事故のとき、私の切れた腕をタオルで結び、救急車に裸足で乗り込んで…。父は、心労で数日の間に7キロも痩せてしまったんです。もともと50㎏くらいしかなかったのに。どんな思いだったかと考えると、たまらんです。後で親孝行をしよう、後でありがとうを言おう、そう思っていたのですが、今日がその最終日…そうじゃないですか。

(後略)

(2005年8月30日 『風の丘』阿蘇大野勝彦美術館にて 構成 須田玲子)

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