今月の対談「いい人いい話いい氣づき」

2006年9月 「三木 健」さん

三木 健(みき たけし)さん

1940年沖縄県石垣島生まれ。八重山高等学校、明治大学政経学部卒業。1965年琉球新報社に入社。93年から98年まで編集局長。06年6月まで琉球新報社取締役副社長。ラジオ沖縄取締役会長、石垣市史編集委員、竹富町史編集委員。沖縄県シーカヤッククラブ顧問。著書に『八重山近代民衆史』、『沖縄・西表炭坑史』、『宮良長包-沖縄音楽の先駆-』、『戦場の「ベビー!」タッちゃんとオカァの沖縄戦』など多数。

『埋もれた先人に光を当てて 平和の心を育んでいこう』

「密林に消えた歴史」を掘り起こし西表(いりおもて)島炭坑史を

三木:
遠いところ、ようこそ、三木です。どうして、私の話を?と、少々戸惑っているんですよ。
中川:
初めまして、中川です。実は私どもは「氣」というものを体験し、いい氣を取り入れながら、幸せな生活を送りましょう、ということを学ぶ合宿制のセミナーをしているのですが、その受講生から三木さんのことをうかがったのです。
その方は天野輝代さんといって、70歳位でしょうか。天野さんのお母さんが9歳のときに熊本の自宅から誘拐され、西表島の小さな孤島の内離(うちばなり)島に連れて行かれて、炭鉱で働かせられていた人たちの子供の子守りをさせられていた、というのです。天野さんのお祖父さんが必死で探し、17歳になって一児の母になっていた、天野さんのお母さんを救出したそうです。初めて聞く話で驚いてしまいましたが、「このことは、三木健先生が本に書かれている」、とおっしゃるのですね。それで、早速、インターネットで三木さんの『沖縄・西表炭坑史』を取り寄せて拝読させていただきました。そして、これは是非とも直にお目にかかって、お話をうかがいたいと思った次第です。
三木:
あぁ、そうだったのですか。明治時代から第二次世界大戦の終わり頃まで、本土、九州や台湾から多くの人々をだまして連れて来て、監禁状態で炭坑で働かせた、大変悲惨な事実があるのですよ。ほとんどの人は、故郷に戻れないままに重労働の末に体を壊し、或いはマラリアに罹って亡くなりました。
中川:
三木さんが、この西表炭坑史を書こうと思われたのはどうしてですか。
三木:
私は石垣島で生まれ育ったのですが、高校生のときにクラブの旅行で西表島を訪れたときに、白浜という部落の山の後ろから幽霊が出る、という話を聞いたのです。どうして?と訊くと、炭坑で苦しめられた霊が成仏できずにいるから、というのですね。怖い話だなと思ったものの、そのときはそのままになってしまいました。
それが東京で新聞記者として働いているとき、郷土の歴史を調べる機会があって、そういえば、あの話は何だったんだろう?と思い出しました。東京にいる炭坑関係者が見つかり、話を聞いたのですが、聞けば聞くほど凄(すさ)まじくて…。私もまるで坑道に引きずり込まれるようにして、20数人の方々を訪ね歩き、「生き残り証言」を書くことになったのです。
中川:
その頃は、証言をしてくれる当事者がご存命だったのですね。
三木:
そうです。今から30年前のことでしたから、あのときが直接話を聞ける最後のチャンスでしたね。皆さん、「バナナも米も豊富で食べ物には困らない、賃金ももちろん貰える、などの甘言で連れて来られたら、事実は大違いだった」と。
行くときの運賃や食べ物代が負債となって、島に到着時には既に借金を背負っている。返済のために働き、賃金は炭坑の売店でしか使えない金券ですから、逃走して島外に出たらただの紙切れです。会社が倒産したら、蓄えた金券は使えません。台湾の人はモルヒネを打たれて中毒になり、モルヒネ欲しさに連れて来られたケースも多いのです
中川:
逃亡するにも、島ですから難しかったでしょうね。
三木:
私は「緑の牢獄」と呼んでいます。明治時代は、囚人を使って掘らせていたけれどマラリアで死んでしまい人手が足りなくなって、こういう荒っぽい方法で連れて来るようになったようです。
網屋頭という、炭坑夫の動向の見張り役がいて、逃亡を企てたものは連れ戻され、木に吊るされメッタ打ちにされ、一晩中、蚊にくわれて…。でも、中にごくまれに脱出に成功する者もいて、その圧制の実態が白日の下にさらされることになりました。大正時代の新聞には、その様子が記事にされてたくさん掲載されていますよ。でも、警察と通じていた経営者側は、いつも罪を免れて無傷だったのです。
中川:
私が生まれ育った北海道には炭鉱が多く、戦前戦中には朝鮮や中国から強制連行され著しい人権侵害によって、終戦までにたくさんの人が亡くなったと聞きます。炭鉱には、そんな悲しい歴史が多いようですね…。
三木:
北海道のご出身ですか。私も夕張炭鉱を見に行きましたよ。炭鉱は廃鉱になって忘れられていき、西表島もいまや地元の人たちだって、「炭鉱があったらしいよ」という程度です。西表島の炭鉱は炭層が薄いので、「狸掘り」という方法を採っていました。本坑道はトロッコが入る位の広さはあったのですが、そこから幾本にも枝葉のような狭い坑道が伸びていて、炭坑夫はこの中を横になって寝ながら窮屈な姿勢で掘り進んでいったのです。そして、戦後米軍が接収して民間に再度払い下げられましたが、数年で閉鎖になりました。こうして悲惨極まりない実態があったことは、全く忘れ去られてしまったのです。
私は、この「密林に消えた歴史」を掘り起こして、犠牲になった多くの方々の慰霊を何とか少しでもしなければと思いました。どうやって人々に知ってもらおうかと考えて、今までに、証言集、資料集、写真集、ノンフィクションに纏(まと)めてきました。
中川:
高校生のときに聞いた「幽霊話」が発端で、ライフワークにまで発展していったのですね。
三木:
私もこんなに炭坑史に関わるなんて思ってもいなかったのですが、それこそ霊が呼んだのかもしれませんね。
中川:
負の歴史は重いですが、事実をまず知ることがとても大事だと思います。次世代に伝えていかないと。三木さんがお書きになったことで、亡くなった方々は気持ちが報いられたと喜んでおられると思います。
三木:
こういうものを書いてきたことで、炭坑関係者の遺族の方から「本を読んで、炭坑の全体像が分かりました」とか「お父さんがどこで、どんな生活をしていたか分かりました」という声が寄せられています。台湾の方からもお手紙を戴きました。私は立派な「石の慰霊塔」は創りませんでしたが、書くことで「紙の慰霊碑」を後世に残せたかなと。
中川:
本当にそうですね。書物をお書きになったことで、また多くの方が読んでくださることで、亡くなった方々に光が届きます。

(後略)

(2006年5月30日 沖縄「琉球新報」本社にて 構成 須田玲子)

著書の紹介

「場の「ベビー!」― タッちゃんとオカアの沖縄戦」
三木 健(著)
ニライ社

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