(9)灯台下暗し(とうだいもとくらし)

 私が下田で開催していた真氣光研修講座に参加して、氣に興味を持つようになったのは’92年のことです。それまで父である先代に氣の話しをいろいろ聞かされても、あまり興味はありませんでした。’86年にハイゲンキができていますから約6年、父にすれば中川家の長男がハイゲンキばかりか氣にもまったく感心を示さないと言うことは、けっこう気がかりだったと思うのです。先代は、特にはじめの頃は真氣光を広めるため勢力的に各地に足を運んでおり、ひと月のうち家にいるのは3日か4日ぐらいだったでしょうか。おかげで、真氣光の認知度が飛躍的に高まりエス・エー・エスという会社の基盤が整備されたのですが、当時私をはじめ家族のものは真氣光がどんなものなのか良く理解できていなかったと思います。私などは真氣光を実際に使っていなかったから、それこそ氣の光も少々と言った調子、まさしく我が家は「灯台下暗し」という感じだったのです。ある時期から先代もそれに気がつき(気がつかされたのかも?)、私をはじめ家族や親戚への宣伝活動を活発に始めたということなのです。
 この「灯台下暗し」ということわざは、真氣光を実践する上でだいじな事を言ってくれています。ことわざ辞典で調べてみると「手近なことがかえって分かりにくいというたとえ。江戸前期から常用されたもので、当初「灯台」は灯火をのせた台のことで、燃える火の下には受け皿のようなものがあるために灯台の真下は薄暗いというところから言われたことわざ。もっとも岬の灯台も遠方を照らすため真下は暗いから、「灯台」を現代風に岬のものとし理解しても少しもおかしくない。」とあります。
 私は、真氣光の光も身近な人から、氣を受けながらまず自分自身が毎日の生活の中で楽しく暮らせる努力をすることだとお話ししています。光が嫌なマイナスの氣にとって灯台の光を弱める方法は、足下から少しずつ崩すことなのです。つまり家族や友人、職場の人など身近な人を使って、徐々にマイナスの心が多く出てくるように仕向けるわけです。
 私も会長になったばかりの頃は、それに気がつきませんでした。少しでもたくさんの人に氣を送る事だけを考えていたのですが、一番身近な家内にいろいろな症状が出て家族で氣を受けながら、一つひとつのマイナスをプラスにするということの重要性がわかったのです。それができると、遠くにあるマイナスの氣もそれに関係していますから、そちらも少しずつ浄化されていくのです。つまり足下を明るくしようと一生懸命になっていると、その光が強まり、結果として遠くにまで届く光になっているということなのです。

(8)風邪は万病のもと

 今日の東京は少し寒いのか?私は、家の仕事部屋でこの原稿を書こうと取り組みましたが、なかなか部屋が暖まらず筆も進みません。さらには我が家の暖房器具は温風が出るエアコンタイプですが、部屋が非常に乾燥します。ふと、温湿度計を見ると湿度31パーセント(壊れているのだろうか?)、その表示を見てから何か加湿出来るものはないかと探してみたり、何か喉を潤せるものを探してみたりしています。そういえば最近のセッションでは、風邪をひいて喉が痛いとか咳が出るという人が増えているようです。
昨年の今頃は日本でもSARS騒動がありましたが、今年は鳥インフルエンザの記事が新聞紙上を賑わせています。先日新聞の報道で『山口県で発生した鳥インフルエンザのウイルス解析結旺は、韓国や香港、ベトナムで見つかったウイルスと同型だが、香港のウイルスとは違う系統のものだと分かった。』とありました。インフルエンザウイルスというのは遺伝子の突然変異を起こしやすく、同じ型でも系統の違うものが出来てしまうとか。つまり、どんどん相手が変わってしまうのですから、それに対抗できる薬の開発がなかなか追いつかない。だから発想を変えて、私達の免疫力自体を上げることが重要だと教えてくれているようです。
「風邪は万病のもと」「身体には、くれぐれもお氣を付けて。」と言います。ことわざ辞典を調べてみると、中国の古典に「風邪は百病の本」があり、言い換えたものとありました。さらにはその後に「馬鹿は風邪をひかあ」とか「風邪を人にうつせば治る」を、俗言や軽口として紹介しています。よく先代は、「風邪とは邪氣(マイナスの氣)がくっついてくるからかかり、良い氣を付けて浄化することを昔の人は知っていた」と言っていました。確かにマイナスの氣の影響で風邪をひくとすると辻褄が合います。「馬鹿」とは悩むことなく生きられる人を例えて使った言葉だと思いますが、そういう人はマイナスの心に支配されませんから、外からマイナスの氣を引きつけてしまうこともありません。また風邪は人にうつると、本人からマイナスの氣が少なくなりますから、「治る」ことになります。
日頃から真氣光を受けることが、生活の中で集まるマイナスの氣を浄化してくれます。もし風邪をひいてしまった人も、真氣光の氣でプラスの方向に浄化することで、同じようなマイナスの氣に引きつけられることなく、結旺として免疫力が徐々に上がるのでしょう。ですからこの季節、ハイゲンキのみならず甘氣飴にヘルシー氣サポートシリーズ等々、真氣光でがっちりと「お氣をつけて」みてください。

(7)短気は損気

真氣光研修講座が23日に終わり、研修所での残り仕事を終えて24日の朝、久しぶりに東京に戻りました。東京がずいぶん涼しいのにはびっくりしています。ところで今回の研修講座では、実は受講生の皆さんにはわからないところで、私に少々イライラ・セカセカというマイナスさんが出ました。受講したことがある方はご存じだと思いますが、いつも最終日の前日に懇親会行法というものを行います。それが始まる直前の話です。数年前より、講座中の受講生の写真をスタッフに撮ってもらい、私がそれを編集してスライドショーなるビデオテープを作り、懇親会で観てもらうということをしています。イキイキとした受講生の顔が印象的で、作っていてもとても楽しいものです。ただ当日2~3時間ほどしか制作時間がない中、妻と二人でパソコンを使い、写真を選んで加工して順番に並べたり、音楽とミックスしてテープにダビングするというたくさんの行程があるので大忙しとなるのです。何もトラブルが発生しないことを祈るばかりです。ところが急にパソコンが動かなくなったり、音が出なくなったりということもあって毎回ハラハラドキドキするのです。今回は、前半順調にいっていましたので、少々余裕を出して休憩したのがいけなかったようです。途中で時計を見ると時間が迫っていて焦ってしまいました。時間までに何とかテープにダビングができたので、きちんと写っているか確かめようとテープを再生して最後まで観たところで、テープが巻き戻らないのです。「何だ、こんちくしょう。」遅いビデオデッキの動作にイライラしていた私の氣に、ビデオデッキとテープが反応したのでしょう。巻き戻そうとテープを出したり入れたり、一生懸命あらゆることをやってみるのですが一向に巻き戻りません。妻が隣で観ていて、「もう一回ダビングしたら」と一言。『あなたの言うとおり』私は15分の時間が惜しくて慌てたあまりに、テープに怒りをぶつけていたのです。懇親会が始まるので私はもう行かなければならなかったのですが、テープが必要なのは30分後。結局ダビングの仕方をゆっくりしっかり説明して、後は全て妻にお任せしました。
 ことわざに「短気は損気」というのがあります。何事にも短気を起こすと損になるという意味。江戸前期より常用され続け現代に至っていると辞典には書いてあります。 自分がマイナスの心になり、そのような氣を出すからマイナスの氣が周りから集まってきて、結局は損になる。昔の人は経験的に氣がわかっていたのですね。皆さんも気をつけて…。

(6)人を呪わば穴二つ

「人を呪わば穴二つ」ということわざがあります。これは、人に危害を加えたら自分も害を受けるものだというたとえでしょう。このことわざですが、氣の性質をよく表している表現なので、私は氣を説明する時に使うことがあります。ことわざ辞典で調べると次のように書いてありました。「幕末の河鍋暁斎の『狂斎百図』という絵に、人を呪い殺すために藁人形に釘を打ちつける丑の刻参りをした女に対して、傍らの魔神が二つの穴を指し示しているようすが描かれている。昔はふつう穴を掘って埋葬する土葬だったので、呪いを受けて死んだ者が入る穴が一つと、そして呪った者自身が入る穴がもう一つというわけである。この墓穴説は江戸中期の平元正信のことわざ解義書がすでに述べている。」
 氣は電波のように発信すると、それと似たような氣が同調するように集まってくる性質があります。だから、呪いというマイナスの氣を出すと、それを出した人のところにマイナスの氣が集まって来て、その人もそれにより死んでしまうということなのです。科学が進んだ今の時代では非科学的と一笑に付されてしまうかもしれませんが、昔の人は経験的に氣の事を分かっていて、呪いという氣の効果を認めるだけではなく、さらにはそれを簡単に使わないよう戒めたのだと思います。
 今では呪いというような強いマイナスの心を持つ人は少ないですが、不平不満、咎め、怒り、ねたみなど日常の生活で、ついついマイナスの心を持つことがあります。そのような時には、強くはないですがマイナスの氣に影響されるので、知らず知らずのうちに疲れの元になっていることがあるのです。「私にはストレスはありません」という人も、何らかのマイナスの心がマイナスの氣を集め、それが何年も経つうちに積もり積もって身体のいろいろな症状として現れることも考えられますから、注意したいものです。
 また逆に考えると、プラスの氣となる心を持てばプラスの氣が集まるということが言えます。例えば他人の幸せを祈る心を持てば、プラスの氣が集まってきて、その人自身も幸せになれるでしょう。自分が幸せになりたいから他人の幸せを祈るのでは本末転倒ですが、見返りを期待することのないプラスの心をたくさん持ちたいものです。真氣光は高次元からのエネルギーですが、それを受けることにより自然にマイナスの心が少なくなり逆にプラスの心が多くなる不思議な氣です。この真氣光を使って、自分も周りもたくさんの人が幸せになって欲しいと思うのです。

(5)氣は心

昨日テレビでニュースを見ていたら、「そごうと西武百貨店、経営統合後初のお中元商戦の出陣式」というのが目に入りました。早いもので今年も約半分が過ぎ、お中元の季節になったのですね。デパートでは、どこも商品を充実させて顧客獲得作戦を展開しているようです。この不況の中ですから、私達消費者は財布の紐も閉め気味にならざるを得ません。お中元選びも「氣は心」というところでしょうか。
 ところで昔から使われるこの言葉、ことわざ辞典で調べてみました。「わずかな物でも自分の誠意は示したいということ。また、それが相手に通じるということ。」とありました。さらに「あまりことわざらしい形ではないが、江戸中期の『尾張俗諺』に収められている京都方面のことわざを集めた「京師通諺」にあるから、少なくとも当時はことわざとして認定されていたと思われる。」と載っていました。江戸時代から人々の中に氣の言葉は浸透していたようです。もう少し、私なりの解釈を加えてみましょう。氣は特別なものではなく、どんな人も持っている心から発せられるエネルギーです。何か物を差し上げる時に、何にしようかと一生懸命その方の事を考えたときに、その心から発せられる氣が相手に伝わるというものです。心から氣が発せられるのですから、これは物をあげるときばかりではありません。毎日の生活の中で眠っている時以外は、私達はいろいろな心の状態を持っています。仕事をしている時、話している時、何かを心で感じて、知らないうちに氣を発しているのです。ところで心の状態というものは、大きく分けるとプラスとマイナスの方向があります。他の人を思う心、楽しくウキウキした状態はプラスの氣を発し周りを幸せにします。そのような人をたくさんつくるために、先代は真氣光を教えられたのでしょう。
 また氣グッズの作り方が、まさしく「氣は心」の原理なのです。私は氣グッズがメーカーで作られSASに入ってくると、氣入れ室に入れて氣入れをします。「この氣グッズを使う人に、真氣光の光が届くように」と強く思い氣を入れるのです。すると私の心が宇宙の何処かに届き、氣を発する物つまり氣グッズに変わるのです。このように作られた氣グッズは、それを贈る人のプラスの氣も増幅します。ですから、お中元に限らず、贈り物には最適なのかもしれません。

(4)渡りに船

以前、弱り目に祟り目という諺について書きましたが、そういう時には「真氣光をしっかり充電していただくことが重要です」と、お話ししました。それとは反対の意味になるでしょうか、“渡りに船”ということわざがあります。必要としているときなどに好都合なことが起こることのたとえです。辞典には「川を渡ろうとして、身支度などの準備をしていたら、ちょうどうまい具合に渡し船が来たという情景であろう。…鎌倉時代の仏教説話に、この表現がある。」とあります。昔の人も、ちょうど良くいろいろな事が起こるということを、ずいぶん経験していたのでしょう。
 私も時間も調べずに駅に行ったら、運良く待つことなしに列車に乗れたなど、渡りに電車(笑)という経験が良くあります。昔は渡し船が出る間隔も長かったでしょうから、昔の人にとっては、本当に好都合と感じられたことでしょう。確率的に考えると、そんな好条件に恵まれることはあり得ないはずなのに、本当に運良く事が進むということがあるものです。生駒での研修講座に来られた方々のお話を聞くと、そのような方がたくさんいらっしゃることに気がつきます。
 このようなことが起こるのは、そのときの自分の力ではどうにもなりませんから、どこからかの見えないエネルギー、つまり氣の影響と考えられます。私達の周りにはプラスの氣もマイナスの氣も存在します。自分の心に同調してそれらが集まって来るのですが、何らかのプラスの氣の影響で、一見マイナスの現象を引き起こすマイナスの氣の影響が少なくなると、自分が思うことに対して後押ししてくれるプラスの現象が起こりやすくなるものです。真氣光というプラスの氣を受けることでも、そのような現象が多くなるようです。
 私達の周りには、陰で支えてくれているプラスの氣、つまり見えない力があるものです。それはご先祖かもしれませんし、神様や守護霊さんかもしれません。“渡りに船”の状態になった時には、それらのお陰とその有り難さに氣づきやすいものですが、そうでないときにも何らかの応援があるものです。いつも見えない大きな力に支えていただいているということを忘れることなく、それらに感謝したいものです。さらにまた注意すべき事は、いつも“渡りに船”を期待していては駄目です。そのようなプラスの氣の環境に自分自身を置けるよう、日頃から真氣光をしっかり受け、洗心を頭に置いた生活が必要ということになるでしょう。

(3)袖振り合うも他生の縁

 毎回の事ですが、真氣光研修講座に集まって来られた方々を観ていて、その「縁」というものを痛切に感じるのです。特に“氣づきの場としての講座”で会う人ですから、お互いに何かを氣づかせてくれる存在という要素が特に強いのです。「袖振り合うも他生の縁」とは言いますが、講座の場合は、ご飯を食べるのも、夜寝るのも、お風呂に入るのも、誰かと一緒ですから、かなりの縁の深さということでしょう。
 ところで、このことわざ「袖振り合うも他生の縁」ですが、古くは室町時代の文献にも記述があるものだそうです。その歴史が示すように、このことわざはとてもポピュラーなものだと思います。辞典で調べてみると、次のように書かれてありました。『ちょっとした人との交わりも、単なる偶然によるものではなく、深い宿縁から生じていると言うこと。「他生」は前世あるいは来世の意。「たしょう」は「多生」とも書かれるが、その場合は何度もこの世に生まれ変わる意。現代では同音の「多少」と間違えやすいが、仏教観に基づくことわざである。道を歩いている時に見知らぬ人と袖が触れたくらいのささいなことでも、それは前世からの因縁によるという意から。』
 人も動物も、植物さえも、見えない氣の身体(魂)を持っていて、それは身体が亡くなっても存在し続けます。またそれは、違う身体を持って生まれ変わることもあるでしょう。私達は身体を持ったり失ったりしながら、学び続けるようです。学ぶと言っても教科書があるわけではありません。いろいろな「他のもの」との関わりの中で体験を通して自然に学ぶ仕組みです。簡単に他のものと言いましたが、家族や友人、たまたま会った人から、既に亡くなっているご先祖まで、多種多様です。ですから、よりたくさんの事を学びたいと考えるなら、出会って別れる、自分の周りの「他のもの」との関わりを意味のあるものとして、自分の成長の材料とすることなのです。
 真氣光という氣を受けると、いろいろな縁がもたらす意味合いに氣づきやすくなります。同時に、自分の氣が変わることにより、周りの氣も変わります。自分をより成長させるために、関わりが深くなる縁もあれば、関わりが薄くなり違う人との新しい縁が生まれることもあるでしょう。真氣光は、そのどちらも、加速させるのです。
 皆さんが真氣光に出会ったのも縁です。それは「…多大?の縁」かもしれません。これからも末長く、よろしくお願いいたします。

(2)弱り目に祟り目

 各地を会長セッションで回らせていただくと、ずいぶん今年はインフルエンザが流行したようです(まだ流行している最中かもしれません)。私も一年のうちに何回かは感染して2~3日寝込んでおりましたが、昔に比べるとここ数年、有り難いことに風邪をひきにくくなったようです。油断は大敵なのですが、これも氣のおかげと感謝しています。最近もそうですが忙しい時に限って、次から次へと「どうしてもやらなければ…」ということが飛び込んでくるものです。
 サラリーマン時代の私であれば、「どうして私ばかりやらないといけないの」とか「運が悪いなぁ」と不平不満とストレスで一杯になって体も疲れ、そうしているうちに風邪をひいていたかもしれません。これは、似たような氣が集まるという波動的な現象です。ですから自分にマイナスの氣を持てば持つほど、同じ波長の同調現象により益々自分のところにマイナスの事柄が集まってきて、どんどん苦しくなってしまうのです。
 一般的にも、苦しい境地にある時に、さらに悪いことが重なることがよくあるものです。昔の人も、それを経験的にとらえていたのでしょうか?諺(ことわざ)に「弱り目に祟り目」というのがあります。この解釈は「目」を「境目」などの目と同じように、異なる状況に変わるところという意をもつ接尾辞と解し、「に」を位置を示す助詞と考えて、弱っている時に、祟る時、または、弱っているところに祟るところができるという意味ととらえるようです。岩波のことわざ辞典によりますと、「このことわざの先行形と見られるものに、弱った体に物の怪がつくという「弱めの霊気(りょうげ)」があり、江戸初期から常用のものであった。」ということです。
 物の怪とは、何か怖い物のような気がしますが、どこにでもあるマイナスの氣のことです。「何かの原因で自分がマイナスになると外からマイナスの氣が集まってくる」と、江戸時代の人も感じていたのでしょう。外からマイナスが来るからさらにマイナスになり、それが新たなマイナスを集めるというマイナスの繰り返しです。そして、そういうマイナスの繰り返しの時は自分自身の力では、なかなか事態を改善できないものです。弱り目に祟り目の時は、外から少し強めの真氣光の氣を取り入れてください。
 

(1)病は氣から

  ことわざ(諺)には、古くからの人生の知恵を表現した言葉の技とか、処世のための短い有効な教訓などの意味づけがなされています。それは古くから人々の生活に密着したものとして、受け継がれてきたものです。日本人には古くから「氣」という概念がありますから、ことわざの中にそれを垣間見ることもできます。
 氣と言えば「病は氣から」という、ことばがすぐに思い出されるでしょう。ことわざ辞典で調べてみると、「病気は気持ちの持ち方一つで、重くも軽くもなるということ。病気と言えばとにかく身体の具体的な故障だけが問題視されがちだが、それには人の気持ちのありようも大きく関わっているものである。例えば病人が病気を悪い方にばかり考えれば実際の症状も悪くなり治るものも治らない。ことに胃は精神面の影響を最も受けやすいところで、胃潰瘍はしばしばストレスによって生じると言われる。正にこのことわざの正しさを科学的に証明しているものと言える。ことわざとしては古く、太平記に異表現『病は氣より起こる』が見えている」とあります。太平記といえば南北朝時代。当時は今よりさらに断定調に、氣の重要性が表されていたようです。そして、そんな昔から言われている言葉は、現代の医学でさらに証明されつつあります。
 今月12日には、月刊ハイゲンキ(98年1月号)で対談させていただいた筑波大名誉教授の村上和雄先生により「笑いが遺伝子を活性化し、健康をもたらすという」仮説を、実験を交えて検証するイベント「笑いと健康」がつくば市で開かれました。吉本興業のB&Bの漫才と、筑波大名誉教授のまじめな講演という異例の組み合わせに、約千人の観客が集まり、一部参加者を被験者にして、笑いの前後での血糖値や遺伝子の変化を調べるため、血液の採取が行われています。
 「病は氣から」を氣の観点から解説してみましょう。人の心から発せられる見えないエネルギーである氣は、プラスに作用したりマイナスに作用したりします。感謝や喜び、慈悲などの心から発せられる氣はプラスで、自分の身体や心ばかりでなく他人にもプラスに作用します。一方、不安や心配、怒りなどの心からはマイナスの氣が発せられ自分や他人にマイナスに作用するのです。私たちには古くからの経験により無意識に捕らえていることが、科学という目で次々に検証されていくのでしょう。