(1)たましいの話を連載するにあたって

 魂(たましい)という言葉を岩波国語辞典で調べてみると、「身体に宿って心の働きをつかさどるとされるもの。古来、肉体 から独立したものと考えられた。」とあります。意味からすると、「心の働きをつかさどる」という、とても重要なものです。しかし、意味の最後の部分「とされるもの」という言が、単にその存在は一説であって、「医学や科学が発達した現在の世の中では必要がないものだ」ということを表現しているかのようです。
 しかし何故、昔からこの言葉があるのでしょうか。どこの国にも、同じ意味をもつ言葉が存在するのはどうしてなのでしょう。日常の生活では使う言葉な
のに、私自身、学生時代に深く教えてもらった経験はありません。もしかしたら昔から人にはとても重要なものなのに、宗教的ということや、よくわからな
いからということで、だんだんそれについて触れたり考えなくなってしまったのではないでしょうか。私には、現代の生活で生じるいろいろな不具合が、こ
のことををよく知らないために生じているような気がしてなりません。
 職業上、私はあちらこちらでいろいろな人に氣を送っていますが、中には氣を受けると自分の意識とは無関係に泣きたくなったり、苦しくなったり、話を
始める人たちがいます。そのような人たちが口を揃えて言うことは、自分の意識はしっかりしていて、「何故、意味不明な言葉が自分の口から出るのかわからない」ということなのです。
 そのような人たちの話を総合すると、魂という何か違う意識体があり、それが出てきて、その人の口や体を使っているとしか考えられないのです。そうい
うものを信じない方には、それは本人の過去の体験がもたらす潜在意識や妄想、さらには幻聴幻覚の類だと言われるかもしれません。それらを妄想の類として片づけることは容易にできますが、その魂らしきもの達の話を聞き、理解しようとすることにより、私は多くの事を学びました。魂の有無を議論しても、真実は死んでみないとわかりません。信じないという方も、体がある私たちにはちょっと考えられない、体の無い側からの視点も参考にしてほしいのです。
 さらに、信じている方には、私が出会ったいろいろな魂の思いをもっと深く知ってもらうことが、自らの魂に磨きをかけるための参考になると思うのです。そんなわけで、不定期に連載を組もうと思います。私の思いつくままに、「たましいの話」をするつもりです。〈つづく〉

(2)はじめに

真氣光を受けて特に何も感じない人もいますが、中には気持ちがよくなる、眠くなる、有り難い感じがする等のプラスの反応が出る人、涙が出る、あくびが出る、咳が出る、苦しくなる、痛くなる、声が出る、悲しくなる、イライラする等のマイナスの反応が出る人がいます。最初は特に何も感じなくても、真氣光を継続的に受けているうちに、次第にプラスの反応やマイナスの反応が出てくる人が多いようです。仮にマイナスの反応が出てきた人も、それは一時的なもので、さらに氣を受けるうちに必ずプラスの反応に変わっていきます。
 なぜ氣を受けているうちに、自分の気持ちとは関係のない反応や気持ちが出てくるのか? よく考えると普段の生活の中にも似たような現象があります。例えば、カッとして言いたくないことまで言ってしまったとか、泣いている人を見て自分まで悲しくなるとか。ふと、とんでもない事を思いつくとか。私たちは多かれ少なかれ、自分とは違う気持ちを持った何か別の意識体の影響を必ず受けているのではないかと、私は推測しています。それが魂です。身体とは別のものですから、身体が無くなってもそれは単独で存在します。 これまで亡くなった人は相当な数に上りますから、生きている私たちの周りには、既に身体を失った魂がたくさん存在していることになるわけです。
 そのように言うと、「取り憑かれたらどうしよう?」と、怖く不安に思う人がいるようです。よく聞いてみると、「悪霊ならば怖い」とのことですが、「守護霊なら歓迎する」ということのようですが……。一口に魂と言っても、生きている我々も千差万別ですから、亡くなった人もいろいろな気持ちを持っていると考えた方がよいでしょう。恨んでいる人もいれば、有り難く思っている人もいるし、死んだことを嘆いている人もいれば、未知の世界への旅立ちを前に希望にもえている人もいるのではないでしょうか? さらには人の心は、一時的には忘れていても心の深い奥底には温かいものが必ずあり、それは亡くなった人も同じだということです。
 氣を受けることにより、マイナスの反応が出ていてもやがてプラスの反応に変わるということは、真氣光というエネルギーが魂に届き気持ちが変わったと考えてよいでしょう。
魂にもいろいろな状態があり、そのエネルギーが増えていく過程で、その魂の気持ちが表面化して我々の意識下に出てくるようです。ですから、マイナスに傾いていた魂は、一時的にマイナスの反応を強く出すことがあるのですが、それもやがてプラスの反応に変わるのです。

(3)氣による反応

 真氣光を送っていると、氣を受けている人とは全く違った人格が出てきて、話し始める事があります。つまり、その人ではない、違う魂が話をしていると考えないと、どうにも説明がつかない現象です。そのような場合一番多いのは、痛い・苦しいなどの苦痛を訴える魂です。氣を受けている人が本当に苦しくなってくる場合もありますし、苦しがりながら冷静に自分を見られる場合もあります。後者の場合は、ちょっと不思議な感じがするかもしれません。痛い・苦しいと訴えながら、自分の心の中では「何でこんな事をしているんだろう」とか、声に出している言葉と反対に、何故か気持ちよい感じがするようなのです。
 どちらの場合も、真氣光を受けていくうちに一時的にどんどん辛くなっていき、訴えもエスカレートしてきます。別人格の魂が浮いてきて、表面化してくるという段階です。その後、咳や涙、あくびやげっぷなどが出てくることがあります。このような症状がでてくると、だんだん苦しい感じは次第に薄れていきます。これは最初、外から入ってくる真氣光の波動と、そこにいる魂の波動があまりに違うために起こるのではないかと考えられます。
 例えば、私たちも暗い部屋に居ながら突然すごく明るいライトで照らされると、眩しさと共に、これから何があるのかと不安で恐ろしく思えるでしょう。しかし、だんだんその明るさにも慣れ、自分がどのような状況にあるか認識し、次第に心地よく思えてくるのと似ています。魂にとっても同じような感じで、だんだん光のエネルギーが入っていくと自分自身が楽になると共に、同じように存在していた他の魂も急速にエネルギーを得て昇華していくのです。
 その時に、身体の中からマイナスの氣を外に出す反応として、咳等が出るようです。そして、たいてい魂達は光が見えてきたと言います。痛みや苦しさが取れていき、周りがだんだんと明るくなるのです。軽く、暖かく、そして気持ちよい感じがしてくることもあるようです。そうなると、以前の苦しみから解放された歓びから、自然に有り難いという感謝の気持ちに変わります。自分が違う人の身体を一時的にも苦しめ、そして楽になれたことから、申し訳ないという感情が出てくることもあります。また、真氣光という光のエネルギーに対して、有り難いと思えたりするのです。さらには、自分がこんなに楽になったのだから、他の人にもこの歓びを伝えたいと思う魂もあります。つまり、真氣光のエネルギーにより、自分の苦痛という狭い部分しか見えなかった心が、より広い目で見られる心に変わるのです。

(4)わかって欲しい

 真氣光を受けていて、その人ではない全く違う魂が話を始める場合、一番多いのは痛みや悲しみ、苦しみなどを訴える症状です。氣を受けている本人は意識がはっきりしていて、何故こんなに苦しくなるのかと思いながらも、どんどんマイナスの症状が出てくることもあります。私が推測するに、その時現れている魂は、「どんなに辛いのか」という自分の今の状態を、わかって欲しいのです。マイナスに心が傾いた魂には、光がありません。つまり、真っ暗闇の中にいるのですから、自分しかわかりません。他にもっと辛い体験をして苦しんでいる人が居たとしても、それを見ることができないのです。ですから、「何故自分だけが、こんな目に遭わなくてはならないのか」「こんなに苦しんでいるのは自分だけだ」と、自分一人でどんどんマイナスの方に考えてしまいます。
 このような魂は、辛い状態で自分が存在していることを誰かにわかって欲しくて、似たような気持ちを持つ人や子孫の誰か、あるいは何かご縁のある方に、同じような病気や体験をさせてしまうことがあるのです。
 しかし、生きている我々でも経験することですが、誰かにそれをわかってもらえたと感じた時は、何か救われた気持ちがするものです。意識の同調(共鳴)作用が働き、線で両者が結ばれる状態になり、相手からプラスのエネルギーが入り込むのです。しかし、与えられるプラスのエネルギーが足りないと、与えている方もエネルギー不足になり、共倒れになります。
 例えば、胸が痛く苦しんで亡くなった魂がそれをわかって欲しくて、誰か子孫のところに現れたとしましょう。その人も胸が痛み、嫌と言うほどその先祖(実際には先祖か誰かは分からない場合が多い)の苦しみがわかったとします。しかし、それでは共鳴状態のままであり、すぐに身体をもっている側はエネルギー不足に陥ってしまいます。そこで、ハイゲンキなどで真氣光のエネルギーを外から自分自身の魂に充電し、ご縁があった魂に光をお分けして、光の世界に旅立ってもらうことが必要なのです。

(5)魂について考える1

 最近テレビで霊的な能力を持った人が、ある人に憑依している霊を霊視し除霊している番組を観ました。この場合、霊視できる人は、普通の人ではありません。特殊な能力とでも言いましょうか? その人は、霊と呼ばれる魂がなぜここで苦しんでいるかを霊視して、その人から出て行くよう呪文のようなものを唱え除霊をしていました。除霊ということについては、後ほど詳しくお話することにしますが、この番組では霊などというものは存在しないということではなくて、霊というものが存在していて、その結果こんな現象が生じているという内容でした。霊の存在を否定していないところに好感がもてましたが、「視聴者の怖いもの見たさ」を狙った興味本位の部分があり、さらには霊という見えないものを扱っているだけにどういう風にも解釈する点が気になりました。また対策ですが、よくわからないものだから宗教家や霊的な能力を持った人にお任せしてしまい、関わった本人への学びが少なくなっていることです。良くわからないから、いつも誰かにお任せでは一向に成長がありません。霊的な現象が生じるにも理由があるでしょう。ただ取り除くのではなく、そこから何かを学ぼうとすることによって、本当の解決に結びつくと思うのです。では、どうすればよいのでしょうか?
 よくわからないものに対するアプローチとして、まずそれが起こるメカニズムを推測し、いろいろな現象に当てはめてみて、その推測に矛盾がないか確認してみるということです。そして、矛盾なく説明ができるようであれば、その時点ではその推測が正しいものに近いと言えるでしょう。さらに、そのような現象が起こるメカニズムが解れば、特別な能力を持つ人ばかりでなく誰にでもできる可能性があるということになるでしょう。私はいろいろな魂たちに会ってきた経験から、今のところはこれが正しいのではないかと思っている仮説があります。それを少し説明しましょう。
 まず、魂は自分の身体が有る無いに関わらず、意識を持ったエネルギー体だということです。そして、その意識のレベルによりその魂の状態、つまりエネルギー量が大きいか小さいかが決まるようなのです。意識のレベルとは、宇宙的に調和のとれた心にどれだけ近づいているかということです。前回お話した、自分の心が苦悩で一杯という状態では、魂のエネルギー状態は低くなっていると言わざるを得ません。そしてプラスやマイナスの状態に関わらず個々の魂は、周りの他の魂にエネルギーをあげたり、もらったりしているようなのです。〈つづく〉

(6)魂について考える2

 前回のお話をまとめると、命があるものとは何らかのエネルギーがあるもの、それは魂みたいなものが存在するということで、そして身体が有る無いに関わらず、たくさんの魂がこの世には存在するということです。それらがお互いにエネルギー(光のようなもの)を交換し合いながら、全体が成り立っているようなのです。植物も動物もその対象です。私は、意識をもった動物の場合そのエネルギーの量は大きくて、意識の力を利用することで大きく増やすことが可能になると推測しています。意識の力とは、心の持ちかたです。すごく簡単に言えば、心の状態がプラスに変化すれば光が増して明るくなり、逆にマイナスになれば光が減って暗くなるということです。人は、誰かに憎まれると暗くなり、勇気付けられると明るくなります。エネルギーをあげたり、もらったりを繰り返しているのです。
 例えば、よく話題に上る霊ですが、たいてい恨んでいるとか、苦しんでいるとか、悲しいだとか、呪うとかマイナスの心になっているようです。しかし赤ちゃんの頃から恨んでいる人がいるでしょうか? 私が思うに、いかなる霊も以前は、そのようなマイナスの心ではなかったに違いない、何かのきっかけで、たまたまそういう心の状態になってしまい、それが続いてしまっているだけだと思うのです。つまり元々は輝いていた魂も暗くなることがある、つまり変化するということです。逆に言えば、暗くなっている魂も必ず光り輝くよう変化できるということです。そして、エネルギー的に大きくマイナスに傾いて身体がなくなってしまった魂の場合、エネルギー不足で自分で行動するというわけにはいかず、磁石と釘が引き合うように知らないうちに引き寄せられてしまうようなのです。どうしてでしょうか?
 私は、この世に起こることは意味があって起きていると思います。そうでないとすると、意味のないことが偶然に起きているということになりますが、そう考えるには今までの生命や人類の進歩があまりにもうまく出来過ぎています。何か原因があって、あることが起き、それには意味があるのではないでしょうか? 全体の中のほんの一部が原因と結果の関係があり、他の部分にはそれがないというのも妙な話です。全てに原因と結果の意味合いがあるのだけれど、我々にはその関係がわかり難いと考えたほうが自然のような気がします。つまり何が言いたいかというと、霊的な現象が起きるにも意味があり、原因があるということです。つまり、以前は光り輝いていたにも関わらず暗くなってしまったということ、引き合ってある人のところに来てしまったというのにも、原因と結果があり意味があるということです。そして、もしその原因が除かれない(変化しない)ようであれば、またいつか同じ結果が起きると考えられるでしょう。〈つづく〉

(7)魂を考える3

 真氣光は、先代が夢でハイゲンキを作ったときから始まり今年で15年ほどになりますが、大きなエネルギー的な変化を遂げています。それは、宇宙的な進化もしくは、より次元の高いエネルギーへの移り変わりとも言えます。’90年に下田で研修講座が開設される以前は、真氣光によって出てくる霊的な現象に対して、まだ理解も不十分でした。先代は氣を送ると騒いだり暴れたりし始める霊に対し、最初は注意深く観察していましたが、そのうちに声をかけるようになったのです。それはただ「出て行け」と叱り付けるようなものではなく、先代の性格からでしょうか、霊に対しても思いやりのある暖かい言葉でした。今居るのはどこで、そこに居てはいけないのだという事をわからせて、本来行くべき光の方向を教えるという事だったのです。「除霊では駄目だ、浄霊だ」とよく言っていたものでしたが、その人の身体から単純に出て行かせる“除霊”では、霊は今までと何も変わらないため同じような事を繰り返してしまいます。先代は、霊がその人の身体から出た後、その霊がどこに行くのかということまで考えていたのです。霊に対して、気持ちを変え、今までのように彷徨うことなく、より高い魂の次元に進めるよう促す事、つまり魂の光の量(エネルギー量)を増やす“浄霊”が必要だという考え方です。
 その後、先代は自ら病に倒れ、全てのことには意味がある―病気になるのも、霊を引き寄せることにも意味がある、病気や霊は悪者ではない―という思いを強くします。
 私が会長になってからも、たくさんの霊的な現象がありましたが、最近では光の方向を教えるというよりは自らそれに気づき、中には、なぜいろいろな苦悩を背負ったまま身体を失くし彷徨ったのかという事にまで自然に気づく魂もいたのです。つまり、真氣光の波動的な変化もあり、出てくる霊もより高い次元に旅立てるようになったということのようです。そのような霊は皆、心が楽になったことへの感謝の念と、さらには「これからは、生きている人達を見守りたい」という思いで一杯なのです。
 逆にいえば、そういう手助けをしてくれる魂が、真氣光の周りにたくさんいらっしゃるということが、真氣光の波動を変えているのでしょう。“除霊ではなく浄霊”することにより、自然に真氣光が進化するということなのかもしれません。もう少し付け加えるなら、霊的な現象や病気さらにはいろいろな問題も、悪者と決め付け固執するのではなく、「一見はマイナスの現象だが、それは何か大きな存在が自らの成長のために与えてくれたもの」と考えられることが重要なのです。

(8)物に入り込む魂

 目に見えない魂は、生命エネルギーとして空間に漂うばかりでなく、物に入り込む場合もありますし、土地に留まる場合もあります。なかでも、物質的なよりどころのない魂は、物に入り込んでしまうことが多いようです。広く考えると水や土地、人の身体なども物の一種と考えられます。一般的な物の場合、針のような小さなものから、建物など大きなものまで、いろいろあげられるでしょう。何かその魂と意識的な同調があると、なおさらその物へ強く引き付けられるようです。よく聞く話としては、生前大事にしていた人形とか服とか、思い入れがある宝石などです。また古井戸や学校の校舎などもよく話に出てきます。そういう物や場所は、その氣を感じるからでしょうか、どこか寂しげで独特の雰囲気を持っている場合があります。だからといって、魂がそこに宿っていても特別なことでもなく、何も怖いことではありません。
 私は、物を使う人の心がまえが重要だと思っています。定期的に手入れをしたり大事に感謝して物を使えると、使う人からプラスの氣(つまり光)が出てきます。それが、そこにある魂にエネルギーを与え、より一層その物の氣を高め、それが使う人に再び返ってきます。よく昔から職人さんが、自分の使う道具を大事にするという話を耳にしますが、どんどんプラスの循環が働く良い例だと思います。物はどうして生まれてきたか? 何か本来の役目があって作られます。つまり使われて始めて、本来の役割を全うし喜びの氣が集まるのです。
 そういう意味では、家の中に不要なものが多いと、使われなくて悲しい・寂しい氣が集まってきます。まず、安いからといって不要な物まで買う必要はないでしょう。または、要らないという人から譲り受けるとか、もったいないと思っても、もしその物が使われることがなかったとしたら、どんどん「寂しい」と思っている魂が入り込み、物自身も悲しむものです。また、使うことがまったくないのに、もったいないと捨てられない場合があります。それでも使うことがなければ、やはりマイナスの氣が集まります。建物もそうです。いつも掃除や手入れをすることによって、プラスの氣が宿ります。もしマイナスの気持ちをもった魂が入り込んだとしても、光を浴びてプラスになるでしょう。不要な物の場合は、誰か必要な方にもらっていただくのが一番よい方法かもしれません。物を所有するということは、その物が持つ氣の部分にまで責任をもつということですから責任重大です。
 そろそろ年末の大掃除のシーズンがやってきます。マイナスの氣を溜めないように、一年間の感謝の気持ちで定期的な手入れをしっかりしましょう。

(9)魂達は自ら氣づく

 以前、「エネルギー的にマイナスに傾いて身体がなくなってしまった魂の場合、エネルギー不足で自分で行動するというわけにはいかず、磁石と釘が引合うよう知らないうちに、波長が合う人や物に引き寄せられてしまうようなのです。」とお話ししました。私はたくさんの方々に真氣光を中継させていただいていますが、氣を受けているご本人とは全く別人格の方(魂)が出てくることがあり、その体験からいろいろな気づきがありました。私がその時、どのようにして魂達と接するかについて、少しお話ししましょう。
 原則的に魂達と無駄な会話はしないようにしています。話す内容についても咳やあくびと同じように、あまり気に止めないようにしています。まずは彼らが光に向かえるようにして差し上げることが第一の目標ですから、「個人的に知りたい」など興味本位な事柄は必要有りません。例えば、最初は苦しい苦しいと言われて出てくるのですが、そのうちに少し楽になると「事故で死んで、・・・・こんなふうに悔いが残っている」と訴える方がいます。真氣光を知ったばかりの頃の私は、「何の事故だろう」「どこで起きたのか?」「いつ頃の話だろう」等いろいろ聞きたくなったものです。聞くと、それなりに話し始める方もいらっしゃるものですから、ついつい長話になったりしました。(笑)これは「その方の苦労をわかる」という面では良いのですが、深入りし過ぎたり、目的からそれると、意味がありません。
 また、訴えている内容が「こんなふうに悔いが残っている」と言われれば、「悔いが無くなるように、どうにかして差し上げなければいけないのでは?」と、いろいろできることを考えたりもしました。しかし、自分達には、どうにもならないものが殆どです。また、どうにかなる場合でも、話を聞くことにより、そちらに氣を取られます。私は、そちらに意識が向いてしまうより、まずたくさんの光を送るという事に集中するようにし、魂達にも、それを自然にわかってもらうようにしています。そうすると魂達の自立を促し、「悔いのあったこと」が真氣光のエネルギーを受けているうちに、自然に「悔いる必要は無かったのだ」と、気づくのです。諭したり、教えたりなど何も話していないのに、真氣光のエネルギーが魂に入り込み、魂の状態が高く引き上げられるのでしょう。不思議な話ですが、魂自身が自ら気づくのです。<つづく>

(10)畏敬の念を持って接する

 私は、最初は痛がり苦しがっていた魂が、どんどん真氣光のエネルギーによって楽になり光の世界に旅立って行かれる状況に、数え切れないぐらい立ち会いました。会長として各地を廻り始めて一年ぐらい経過していたでしょうか、いつしか自分のどこかでそれが当たり前と感じるようになっていました。氣を受ける人を早く楽にすることに目が行き過ぎ、魂達を早く光の世界に送ろうと、彼らのことを思いやる心のゆとりがなくなっていたのです。しかし、その重要性を教えてくれたのは、あるとき出てきた侍の魂でした。
 私は女性に氣を中継していたのですが、急に肩のところを抑えて痛がりだしたのです。「何かな」と思いながら氣を送り続けていると、「腕が無い、腕が無い」と訴えるではないですか。こちらが「どうしたのか?」と聞くと、誰かに切り落とされたようなのです。痛みが無くなれば、そのうちに光の世界にいけるだろうと思い、あまり深い関心を持つことなく氣を送っていました。そうすると、痛みは無くなったようなのですが、執拗に腕が無くなったことを訴えるのです。私は、「なぜそんなに悔やまれるのか」理解することができず、聞いてみたのです。そうすると「刀が持てなくなった」と答えるのです。つい私は、この侍が肉体の無い魂の世界に存在しているのに、腕が無いことを嘆いていることに可笑しさを感じ「今は刀のいらない時代だよ。あなたは死んで身体が無くなったのだから、そんなことはもう忘れて光の世界に行きなさい」と言ったのです。そうすると、「おまえには、わからないだろう。武士にとって刀が持てないことが、どんな意味を持つかということが。」と強く静かに語り始めたのです。私は最初愚痴話かと思ったのですが、彼が言わんとする事にすぐにピンと来て、事の重大さに気がついたのでした。
 当時、武士は刀を持つことで、本人とその家族の生活が保障されていました。妻も子もこれから生まれて来るだろう彼の孫も、その侍の腕にかかっていたのです。しかし刀が持てなくなったことによって、家族全員の生活と先祖代々からの期待が奪われ、さらには未来への夢も希望も無くなったのです。考えてみれば、たいへんな時代です。今のように多種多様な職業があるわけではありません。武士という職業ができなくなったことへの絶望感は、私たちには想像もつかないでしょう。そして何より重要なことは、そのような方々が生きてくれていたからこそ、今は刀もいらない自由で平和な時代があるのです。私は、いかなる魂にもかけがえの無い一生があり、その一つひとつの魂の積み重ねが、私たちの生活を作り上げていることを忘れていたのです。そして、それが心からわかっていれば、自然に畏敬の念を持って接することができるのです。<つづく>