(10)畏敬の念を持って接する

 私は、最初は痛がり苦しがっていた魂が、どんどん真氣光のエネルギーによって楽になり光の世界に旅立って行かれる状況に、数え切れないぐらい立ち会いました。会長として各地を廻り始めて一年ぐらい経過していたでしょうか、いつしか自分のどこかでそれが当たり前と感じるようになっていました。氣を受ける人を早く楽にすることに目が行き過ぎ、魂達を早く光の世界に送ろうと、彼らのことを思いやる心のゆとりがなくなっていたのです。しかし、その重要性を教えてくれたのは、あるとき出てきた侍の魂でした。
 私は女性に氣を中継していたのですが、急に肩のところを抑えて痛がりだしたのです。「何かな」と思いながら氣を送り続けていると、「腕が無い、腕が無い」と訴えるではないですか。こちらが「どうしたのか?」と聞くと、誰かに切り落とされたようなのです。痛みが無くなれば、そのうちに光の世界にいけるだろうと思い、あまり深い関心を持つことなく氣を送っていました。そうすると、痛みは無くなったようなのですが、執拗に腕が無くなったことを訴えるのです。私は、「なぜそんなに悔やまれるのか」理解することができず、聞いてみたのです。そうすると「刀が持てなくなった」と答えるのです。つい私は、この侍が肉体の無い魂の世界に存在しているのに、腕が無いことを嘆いていることに可笑しさを感じ「今は刀のいらない時代だよ。あなたは死んで身体が無くなったのだから、そんなことはもう忘れて光の世界に行きなさい」と言ったのです。そうすると、「おまえには、わからないだろう。武士にとって刀が持てないことが、どんな意味を持つかということが。」と強く静かに語り始めたのです。私は最初愚痴話かと思ったのですが、彼が言わんとする事にすぐにピンと来て、事の重大さに気がついたのでした。
 当時、武士は刀を持つことで、本人とその家族の生活が保障されていました。妻も子もこれから生まれて来るだろう彼の孫も、その侍の腕にかかっていたのです。しかし刀が持てなくなったことによって、家族全員の生活と先祖代々からの期待が奪われ、さらには未来への夢も希望も無くなったのです。考えてみれば、たいへんな時代です。今のように多種多様な職業があるわけではありません。武士という職業ができなくなったことへの絶望感は、私たちには想像もつかないでしょう。そして何より重要なことは、そのような方々が生きてくれていたからこそ、今は刀もいらない自由で平和な時代があるのです。私は、いかなる魂にもかけがえの無い一生があり、その一つひとつの魂の積み重ねが、私たちの生活を作り上げていることを忘れていたのです。そして、それが心からわかっていれば、自然に畏敬の念を持って接することができるのです。<つづく>