(41)家族をとがめていた

私が真氣光を送っていると、氣を受けている人から全く違う人の声で、ご本人とは別の人格が出てくることがあります。氣を受けている人が身体を失った魂さんの代弁をするような形になるのですが、私は宿を借りて出てくるのでそれをヤドカリさんと言ったりしています。また私が7 時や10 時の真氣光の時間に氣を送っていると、話す事はないのですが、私の意識の中で感じられる魂さんもいらっしゃいます。先月のこと、夜10 時の真氣光の時間に氣を送っていると、お腹が苦しそうな女性のイメージを感じました。彼女の言わんとしていることはこんな感じでした。「自分がもっと家族に真氣光を知らせればよかった。最初は良かったけれど、だんだん苦しくなってきて、家族に真氣光をやって欲しかった。真氣光をして貰えないということで、家族をとがめていた。とがめ、それにこだわることが自分を苦しみの方に向かわせていた。自分の死を受け止めるのに家族はたいへんだったろう。私がもっと説明することをしなかったから悪かったんだ。たくさん光をもらって今私は光を送れるようになった。もう大丈夫。この先主人が亡くなると、娘は一人きりになる。この光に導きたい。」その日はA さんの命日だったので、私は直ぐに彼女だと思いました。A さんが生駒での研修講座に参加したのは5 年ほど前のことです。末期の子宮ガンでしたので、規定上一人での受講はできないことから、当時やっとの思いでご主人を説得し、ご夫婦での参加となりました。念願が叶って受講できたのですが、受講途中にA さんの容態が急変し急遽病院へ移ることになったのです。その後、病院でよく調べるとガンの進行が予想以上に進んでいて、結局その後残念なことに亡くなられたのでした。私は、A さんの生駒に来たかったという思いに強く打たれ、その時一生懸命に氣を送りました。私は、A さんはご主人を真氣光に導きたかったのだと感じ、ご主人にも出来るだけの氣を送らせていただいたのでした。ハ イゲンキができて真氣光が始まりましたが、当初すでに亡くなった家族をハイゲンキで供養できるなどとは、考えも及びませんでした。しかし、氣を受けて出てくる、いろいろな魂の話を総合すると、自分自身にハイゲンキをすることが、自分を通して生きている家族にも亡くなっている家族にも光を送れるという事が良く分かります。あの世で光を待ち望んでいる人がたくさんいます。その人達が、皆さんを真氣光に巡り合わせてくれたとも言えるでしょう。

(13)馬の耳に念仏

私 が氣の世界が面白くなり自分で知りたいと思うようになったのは、’92 年6 月に先代である父が当時下田でやっていた研修講座に参加してからでした。仕事のストレスで疲れがたまり、「皆が良いと言う氣でもやってみようか」という程度の軽い気持ちからでした。それまでは家にハイゲンキや氣グッズがあり、父からも氣のことを聞いていたのですが、自分は健康だから必要無いと全く興味が有りませんでした。私よりは家内が、’89 年より父の会社を手伝っていたので、氣についての知識も豊富でした。父も家内も私に、あれこれ教えてくれていたのですが、当時の私は聞いてはいたものの、その良さが心に響かなかったのです。
馬の耳に念仏ということわざを辞典で調べると、『有益な価値あるものに対して何の反応もせずに聞き流す』とありますが、私はまさにその状態でした。氣が向かないと入らない、逆に言うと一生懸命に求める心が良いものを外から引き込むものです。私もその後いろいろ氣の体験をしてきてわかったことは、全てではないですがマイナスの氣である霊的なものが邪魔をして、本人の意識がそちらに向かないようにすることがあるようです。当時の私には、もしかしたらいろいろな邪魔が入っていたのかもしれません。し かし周りの家族は、こんな私にも押しつけがましいことを言うこともなく、事ある毎に氣の話をしてくれました。温かく見守っていただいたという感じです。日本語はうまくできているものです。影響を受けるということがありますが、温かい心から発せられるプラスの氣があると、自然に何かが変わるようです。影であるマイナスの氣に少しずつプラスの氣である光が届いて行き、“影に響き”始めるようになると、もう大丈夫。黒っぽい影に光の粒子が少しずつ入り外からの光に同調できる準備が整うことで、少しずつ聞く耳ができてくるのです。“感化する”という言葉を辞書で調べると、影響によって自然に変わることとありますが、氣を感じることで自ら変われるようになるのです。実 際には気が付くまで“待つ”という事が難しいものです。「あいつは分からないのだ」と諦めたり咎めたりしがちですが、もしマイナスの霊的な者の仕業であれば、それは相手の思うつぼであり、自分の波動を下げてしまいます。そのように考えると忍耐強く待ちながら、どうしたら気がつくか分かるまで氣にかけるという事は、周りの人にとっても大きな成長になることです。馬の耳に念仏とは良く言ったもので、念仏を唱えるのは馬のためと思いがちですが、自分のためとも言えるのです。

(12)思い立ったが吉日

先 日のこと、家内に電話をしようと思って携帯電話を手に取ったら突然、当の本人から電話がかかってきました。このようなことは良くあることですが、これを数学的に算出したらどのぐらいの確率になるのでしょう。私は、ついそんなことを考えてしまいます。思いついて行動に移すということは、何らかの氣を感じて思い出し、さらには行動するときにその人を意識し氣を発しているのでしょう。私の場合で言うならば電話をしようと思いついた時、家内から連絡したいという氣が電波のように私に届いたのでしょう。そういう意味では、よく「思い立ったが吉日」と言いますが、この諺は氣の性質をうまく表現しているのかもしれません。この諺をいつものようにことわざ辞典で調べてみると『物事は思い立ったらすぐにとりかかるのがよいというたとえ。現代でも結婚式は大安の日を選び葬式は友引を避けるように、暦で事を選ぶ慣習は根付いているが、それにこだわりすぎると機会を逃しかねない。物事を行うには用心深く慎重にやれということわざが多い中で「善は急げ」とともに積極的な色合いのものだ。江戸時代にもよく使われ現代も定着していることわざである』とあります。
私 は、15 年ほど前には物事を思い立ってもなかなか行動に移せない性分でした。辞典にあるように、いろいろ慎重になりすぎて機会を逃していたのかもしれません。それについて少し分析してみると、良くない出来事が身の周りに多かったので自分の考えに自信が持てず、また失敗するのではないかという恐怖から、慎重に考えすぎたり誰かの同意を必要としたのだと思うのです。
人 は頭で理解して行動しますが、失敗するのも大きな学びですから、行動してみないと本当に自分のものにならないことが多いものです。そのように考えると、最適な事を思い立ち、すぐに行動できることで学びの早さが増すということになり、かつての私のように慎重に考えすぎる事が学べるチャンスを遅らせていたということになります。
親 子ではありますが、先代は全く逆の性格で、思いついたと思ったら行動に移すタイプでした。当時私は、「もっとよく考えればよいのに」と思っていましたが、今の自分を振り返ると、思いついたらやらないと気が済まない性格になっているようです。年をとって先代に似てきたのか?真氣光を続けているとそのようになるのか?私には、どうも真氣光のエネルギーが、無駄な思いつきを除いてくれているように思うのです。皆さんはどうでしょう?

(40)この世への執着2

たましいの話(40)この世への執着2<先月399 号の続き>自らの意志で深く潜行する魂は、皆同じように「ここがいい」と言います。「他には行きたくないから、そっとしておいてくれ」と言うのです。彼らの「そっとして…」と言う言葉の裏に、氣を受けて何らかの影響を受けていることがわかります。今まで出会った数多くの魂の話しを総合すると、光という真氣光のエネルギーが届くことにより、本来身体を持っている人の魂と、潜んでいる魂との間に波動のズレが生じ、苦しくなってくるようです。そして少しでも楽に感じられるものを探すうちに、その魂にも光が届くようになり、自然に次に行くべき光の世界の良さに気がつくのです。こ の世への執着を捨てるには、光の世界の良さを知ることです。潜んでいる魂達に少しでも早く気がついてもらえるように、私はここで光の世界の素晴らしさをアピールしておこうと思います。以前「いいところだと言うけれど、行ったこともないオマ工が何故わかる?」と、私はある魂に言われたことがあります。全くそのとおりなのです。こればかりは死んであの世に行かなければわかりません。しかし、この世に居る限りわからないのでは埒があきませんから、私は既に光の世界で仕事をしている先代に聞いてみることを思いついたのです。しかし、あの世の人ですから直接聞けるわけもありません。そこで私のとった方法は、息子だからどうにかなるだろうと、先代に波長を合わせるつもりになって氣を受けてみたのです。すると最初はよくわかりませんでしたが、何回かやってみるうちに、ある感じが伝わってくる(心に浮かんでくる)ようになりました。それは、自由と言うのでしょうか、身体はもちろん全ての事柄に拘束されない、何とも清々しい感覚だったのです。身 体を失った魂達が光の世界に行くことが嫌だと思う背景には、別の所に追いやられる、この世での楽しみが奪われる等と感じるようです。ところがあちらには、先に逝かれた自分の先祖など、光に満ち溢れた人たちが待っていてくれるのです。洗心の指標を参考にするとわかりやすいかもしれませんが、そこに居る人はマイナスの感情を持つ必要がありませんから、周りの人にもマイナスの氣を与えることもありません。皆が他を愛し育む気持ちを持ち、人の喜びが自分の幸せであり、身体を持つ私達を見守ることで、自からも学び魂を成長させているのです。そのような世界は、この世とは、また一味違った幸せで一杯だと思うのです。光の世界の素晴らしさは、まだまだあるでしょう。少しでも多くの既に身体を無くした魂達に、分かって貰いたいものです。それには、しっかりと真氣光を充電することであり、光の方向に向かって(プラスの心を持てるよう)努力することなのです。

(11)朱に交われば赤くなる

氣とは、目には見えないけれど何となく感じられるものの総称であり、人や動物、物、土地などあらゆるものが、それぞれ固有の氣を持っています。真氣光という宇宙からのエネルギーも氣の一つであり、それらについて考えてみるとテレビやラジオの電波のように波動的な性質があることがわかります。例えば、イライラの波調がぶつかり合うと共鳴し大げんかになったり、悲しいテレビ番組の波長に合わせて自分まで悲しくなったりする現象です。現代の都会の生活には、心が安らぐ自然や、のんびりと芸術を楽しむ時間などが減っています。どちらかというと心や身体にマイナスに作用する氣が氾濫していますから、どんなに気をつけていても、“朱に交われば赤くなる”ではないですが、マイナスの方向に引っ張られてしまうようです。この諺が表すように、昔から人は氣の性質を経験的に知っていたと思います。
ちなみに、ことわざ辞典で調べてみました。『人は付き合う仲間によって良くも悪くもなるというたとえ。「朱」は赤の顔料。ちょっと触るだけでも染まってしまうことから、接する者の影響力の強さにたとえられている。安土桃山時代のことわざ集にも収載されており、現代では悪い感化力について言う場合がほとんどであるが、江戸時代には良い場合にも用いられていた。』と、書いてあります。「付き合う仲間」を周りの波動(氣)と考えれば、本当に氣の性質を的確に表現しており、これはこの宇宙の法則なのかもしれません。ここで私が着目したいのは、朱に交わって良くなる方向のものです。影響されて変わることができるのですから、良いものに強く影響されて良い方向に変わりたいものですし、マイナスの方向には影響されにくく、周りも良い方向に変えられる自分になりたいものです。
よく考えると、先代が夢で教えられて作ったハイゲンキや氣のグッズも、“氣入れ”という特別な事をして初めて氣が中継されるものに変わります。氣入れ室という強力な真氣光のエネルギーにさらされ変化するのですから、これらの現象と同じ性質のものでしょう。ところで、先代が夢で白髭の翁に教えて貰ったのは、どうしたら変化することなく真氣光を安定して中継させられるかということです。実際には特別な部品を使ったり、特別な文字を印して固定したりするのですが、私は宇宙に存在するとてつもなく大きな真氣光の後ろ盾を感じるのです。私は、ついマイナスの方向に引っ張られることがありますが、変わらないハイゲンキやいろいろな氣グッズが、少しずつかも知れませんが確実にプラスの方向に導いてくれると思うのです。

(39)この世への執着

私がセッションで、ある女性に真氣光を送っていたときのことです。病気で亡くなった女性が出てきているようで、苦しそうな表情が次第にとれ少しずつ楽になってきているようでした。私は「良かったな」と思いながら「身体が無くなっても、まだまだ先があるからね」と言ったところ、突然氣を受けていたその女性がパッと変化したのです。先ほどまでの女性の魂さんは光の世界に行かれたようで、その人ではなく、ぜんぜん違う男性の声になって「そんな事、俺は知っている」と言い始めたのです。続けて言った彼の話を簡単にまとめてみましょう。 彼は、身体を失って魂だけの存在になったということも知っているし、光の世界が有ると言うことも知っていると言うのです。本当は身体を失った魂は、光の世界に行かなければならないことも知っていると言います。しかし、自分はこの世界に居たいから、この人の身体を使って、いつまでもここで生活を共にすると言うのです。自分のやりたいことが出来て、とても楽しいとも言っていました。さっき出てきていた女性の魂のように、辛くないからこれ以上、楽になりたいとも思わず、ずっと彼女の身体を借りて今まで通りの生活を送ることが望みだと言います。そのような魂は、自分ばかりでなく、たくさん居ると言います。「だから俺にかまうな」と言って消えてしまったのでした。それから、しばらく真氣光を送ってみましたが特に変わったこともないようなので、私は「まだ時期ではなく、もう少しこの方に氣の充電が必要だ」と判断してセッションを終了したのでした。 実際に、この魂が言っていることは本当の事で、身体を持たない魂が自分の意思で他人の身体に深く入り、気づかれないようにしていることがたくさんあります。そのような場合、あまりいろいろな他の魂を誘い込むと、身体を持つ人が病気になったり、ひどい時は命を落としてしまって、せっかく身体を得たのに身も蓋もなくなってしまうので、出来るだけ気づかれないようにするのが利口な方法らしいのです。さらに彼らは、身体が得られればどんな人でも良いというわけではないようです。自分のもう一つの人生を謳歌するのに都合の良い身体、ある程度永い時間ヤドを借りて楽しめる身体ということで、老人よりは若い人を狙うらしいのです。最近、日本では少子高齢化が進んでいます。つまりヤドを借りられる身体が少なくなってきているから、子供達にも及んできているようなのです。<来月に続く>

(10)類は友を呼ぶ

 「類を以(も)って集まる」とも言われるこの諺は、魂というものの性質を見事にとらえている言葉です。ことわざ辞典で調べてみると『似たところがある者は集まってくるものだということ。中国の「易経」に出典が認められる古いもので、善人は善人同士、悪人は悪人同士というように、人は集い合うものだという意。』私は魂(心)から電波のように氣が出ていて、それには波長が合うと同調しお互いに引き合うという波動的な性質があるのではないかと考えています。
 これは、生きている私達の世界だけの話に止まりません。私は、真氣光を送っていると氣を受けている人の口を借りて出てくる、いろいろな魂達の話を聞くことで、身体が無い人達の世界にも言えるのだということを確信しました。つまり、既に亡くなった魂同士も集まるし、生きている人と既に亡くなっている人との間にも成り立っているということなのです。中でも氣を学ぶ上では、生きている人と身体を持たない魂との関係を知ることが重要です。心配性の人には似たような心配性の魂が、怒りが多い人には怒りを持った魂が、優柔不断な人にはそのような魂が、つまり似たような性格の魂が同調します。つまりどんな人も生きている人は洩れなく、何らかの魂と同調しあって生きていると言ってもよいでしょう。病気の人ばかりではなく、健康でもマイナス思考になったり、考えがまとまらなかったり、何かうまく行かないことが多くなったり、ということがありますが、そのような場合は、たくさんの自分以外の魂が同調しています。憑依などと言うと、怖いものとか、私には関係ないと思う方がいらっしゃいますが、普通に、どこにでも、誰にでもあることなのです。
 身体を失うと何がなんだか分からないうちに、似たような心を持っている人に引き寄せられる場合もありますし、自分の意志で同調しようとする魂もあります。似たような人が集まることで、一人では気がつかなかったマイナスの面が顕著に現れることになりますが、生きている人がそれに気がつき自分を変えていこうとすることで、自分自身の魂も輝きを増すし、同調している魂達にも光が届き次の次元に進めるという仕組みなのです。しかし、マイナスな事が徐々に訪れたり、深く長い間自分自身のマイナス面と同調していると、自分ではなかなかわからないものです。
真氣光を受けるということは自分自身の魂に光が入ってきますから、同調している魂達との間に差が生じ、それがもたらすマイナスの部分に気がつきやすくなるのです。ですからたくさんの人に、真氣光を生活の中に取り入れて欲しいと思うのです。

(38)先祖供養

今日はお彼岸ということで、先日ある人の口を借りて出てきたご先祖様の話しです。私が氣を送っていると出てきた魂さんは、直接その人とは血縁関係にはないのですが、今生きている人達にとても不満があるようで、いろいろな事をぼやいていましたので、皆さんにも参考になるかと思い紹介します。 言い分はこうです。『何かと言えば、すぐ「ご先祖様お願いします」と言うが、こちらはそれどころではないんだ。自由も利かない身なのに、「見守ってください」「力を貸してください」と、あれこれ言われても困る。もっと苦しくなるのだから…。生きている時にかなり徳を積んだ者以外は、なかなか強い光にはなれないものだ。死ぬ時には、いろいろな苦痛、不安や心配が襲い、光を失うもとにもなる。しかし真氣光という光は凄い。人の魂に光を送ってくれるものだが、そんなものはそうあるものではない。ましてやこれ程の光は他に例が無いのだから、そのことを真剣に考えて一生懸命やってほしい。私らが楽になれる方法は、これ以外に無いということを、皆によく伝えてほしい。…』ということなのです。 本当に強く光り輝いている魂以外は、生きている人から光をもらうしかありません。家族が暗くなっていると、自分まで暗くなってしまうように、生きている人も既に亡くなってしまっている人も同じです。生きている人が悲しければ、それに同調して悲しみの中にあり、家族が喧嘩をしていれば心配をしているものです。つまり生きている私達の心から発する氣が、伝わっているのです。ですから、ご先祖様が光り輝くようになれるには、常日頃から明るい心を持つことなのです。 私達は、いつも明るく生活したいものですが、なかなかそうは行かないのが現実です。家族や職場でのストレス、世の中の暗いニュースなど心に影をつくる要因が溢れていますから、自分は氣をつけていても、周りの人達の影響を強く受けてしまいます。ですから、いつも一定の光を送るということができないのです。一方、ハイゲンキや氣グッズが放つ真氣光の光は、一定のエネルギーを出し続けています。今までに出会った魂達の話を総合すると、それが私達の魂を経由して、既に亡くなってしまっているご先祖の魂に届くようなのです。 洗心と真氣光の両方を、毎日の生活の中で実践できることが、私達の心に幸せを感じやすくします。それが結果として、ご先祖にも強い光を与えることになり、彼らが強く輝くことで私達の生活もまた明るくさせてもらえるのです。まずは、日頃からの私達の努力なのですね。

(20)ハイゲンキはすごい

私は、今も狙われているのかもしれませんが、ずいぶん命を狙われたものです(笑)。以前私が氣を送っていると、「交通事故で、おまえの命を奪おうとした」と言う魂が出てきたことがあるのです。もう少し聞いていると「でも、光が邪魔して出来なかった」と言うのですが、このような事が一度や二度ではありません。私はその度に、見守ってくれているプラスの存在のありがたさを感じるのです。 私は会長という立場にあることから、このようなことがあると気づくために、こんな体験をしたのだと思います。ここで私が言いたいことは、「どこかで見守ってくれている存在があり、その勢力はハイゲンキの光で増え続けている」ということなのです。 ハイゲンキのもっとも凄いところは、いつも強い光を休む間もなく放ち続けているというところなのです。実際にヘッドを手に持って意識することにより、自分自身の魂に入りやすくなりますが、そうしなくてもハイゲンキから出ている光が、いろいろなマイナスの魂達にエネルギーを与え続けています。ふつうは、それがどのような効果を引き出すか、あまり意識しないものです。この点を、もう少し説明しましょう。 どんな人にも「守護霊さん」とでも言いましょうか、光を届け見守ってくれている存在があります。一方で、憎しみや妬みなどマイナスの気持ちを持って近づいてくるマイナスの魂もあるのです。私たちの体験によって強く感じたマイナスの心に、それらは同調して集まり強くなって隠れます。そればかりでなく、私たちの祖先も生きていた時にマイナスの魂達に影響されています。ですから、どんな人もマイナスの氣の影響を受けていない人はいないでしょう。しかし、それが表に出てきて悪いことにつながらないのは、蔭で一生懸命支えてくれているプラスの氣、つまり光り輝く魂達の存在があるわけです。ハイゲンキはマイナスの魂達に光を与え、プラスの存在に変えてくれます。さらには光を得た魂達は、真氣光の光を中継してくれるようになるのです。 ハイゲンキのすごいところはここなのです。常に光を出し続け深いところに隠れている影の部分にも光を与え、たくさんの見守ってくれる有り難い「守護霊さん」を作り続けてくれるというところです。ですから、いろいろな影が集まって来て一時的にマイナスの方向に引っ張られても、大事に至らない、『不幸中の幸い』となるよう努力してくれるのです。ありがたいものです。

(9)灯台下暗し(とうだいもとくらし)

 私が下田で開催していた真氣光研修講座に参加して、氣に興味を持つようになったのは’92年のことです。それまで父である先代に氣の話しをいろいろ聞かされても、あまり興味はありませんでした。’86年にハイゲンキができていますから約6年、父にすれば中川家の長男がハイゲンキばかりか氣にもまったく感心を示さないと言うことは、けっこう気がかりだったと思うのです。先代は、特にはじめの頃は真氣光を広めるため勢力的に各地に足を運んでおり、ひと月のうち家にいるのは3日か4日ぐらいだったでしょうか。おかげで、真氣光の認知度が飛躍的に高まりエス・エー・エスという会社の基盤が整備されたのですが、当時私をはじめ家族のものは真氣光がどんなものなのか良く理解できていなかったと思います。私などは真氣光を実際に使っていなかったから、それこそ氣の光も少々と言った調子、まさしく我が家は「灯台下暗し」という感じだったのです。ある時期から先代もそれに気がつき(気がつかされたのかも?)、私をはじめ家族や親戚への宣伝活動を活発に始めたということなのです。
 この「灯台下暗し」ということわざは、真氣光を実践する上でだいじな事を言ってくれています。ことわざ辞典で調べてみると「手近なことがかえって分かりにくいというたとえ。江戸前期から常用されたもので、当初「灯台」は灯火をのせた台のことで、燃える火の下には受け皿のようなものがあるために灯台の真下は薄暗いというところから言われたことわざ。もっとも岬の灯台も遠方を照らすため真下は暗いから、「灯台」を現代風に岬のものとし理解しても少しもおかしくない。」とあります。
 私は、真氣光の光も身近な人から、氣を受けながらまず自分自身が毎日の生活の中で楽しく暮らせる努力をすることだとお話ししています。光が嫌なマイナスの氣にとって灯台の光を弱める方法は、足下から少しずつ崩すことなのです。つまり家族や友人、職場の人など身近な人を使って、徐々にマイナスの心が多く出てくるように仕向けるわけです。
 私も会長になったばかりの頃は、それに気がつきませんでした。少しでもたくさんの人に氣を送る事だけを考えていたのですが、一番身近な家内にいろいろな症状が出て家族で氣を受けながら、一つひとつのマイナスをプラスにするということの重要性がわかったのです。それができると、遠くにあるマイナスの氣もそれに関係していますから、そちらも少しずつ浄化されていくのです。つまり足下を明るくしようと一生懸命になっていると、その光が強まり、結果として遠くにまで届く光になっているということなのです。