(13)馬の耳に念仏

私 が氣の世界が面白くなり自分で知りたいと思うようになったのは、’92 年6 月に先代である父が当時下田でやっていた研修講座に参加してからでした。仕事のストレスで疲れがたまり、「皆が良いと言う氣でもやってみようか」という程度の軽い気持ちからでした。それまでは家にハイゲンキや氣グッズがあり、父からも氣のことを聞いていたのですが、自分は健康だから必要無いと全く興味が有りませんでした。私よりは家内が、’89 年より父の会社を手伝っていたので、氣についての知識も豊富でした。父も家内も私に、あれこれ教えてくれていたのですが、当時の私は聞いてはいたものの、その良さが心に響かなかったのです。
馬の耳に念仏ということわざを辞典で調べると、『有益な価値あるものに対して何の反応もせずに聞き流す』とありますが、私はまさにその状態でした。氣が向かないと入らない、逆に言うと一生懸命に求める心が良いものを外から引き込むものです。私もその後いろいろ氣の体験をしてきてわかったことは、全てではないですがマイナスの氣である霊的なものが邪魔をして、本人の意識がそちらに向かないようにすることがあるようです。当時の私には、もしかしたらいろいろな邪魔が入っていたのかもしれません。し かし周りの家族は、こんな私にも押しつけがましいことを言うこともなく、事ある毎に氣の話をしてくれました。温かく見守っていただいたという感じです。日本語はうまくできているものです。影響を受けるということがありますが、温かい心から発せられるプラスの氣があると、自然に何かが変わるようです。影であるマイナスの氣に少しずつプラスの氣である光が届いて行き、“影に響き”始めるようになると、もう大丈夫。黒っぽい影に光の粒子が少しずつ入り外からの光に同調できる準備が整うことで、少しずつ聞く耳ができてくるのです。“感化する”という言葉を辞書で調べると、影響によって自然に変わることとありますが、氣を感じることで自ら変われるようになるのです。実 際には気が付くまで“待つ”という事が難しいものです。「あいつは分からないのだ」と諦めたり咎めたりしがちですが、もしマイナスの霊的な者の仕業であれば、それは相手の思うつぼであり、自分の波動を下げてしまいます。そのように考えると忍耐強く待ちながら、どうしたら気がつくか分かるまで氣にかけるという事は、周りの人にとっても大きな成長になることです。馬の耳に念仏とは良く言ったもので、念仏を唱えるのは馬のためと思いがちですが、自分のためとも言えるのです。