(29)女心と秋の空

私は、9月の研修講座が終わり一息ついているところです。
今月は特にたくさん参加していただいた受講生の皆さんとともに、しっかりと真氣光のエネルギーが取り入れられた感じがしています。
ところで研修前には気がつきませんでしたが、今月も最後の週なんですね。
街中の大きな交差点では、秋の交通安全週間ということで、交通整理の警官やパトカーが多く見られます。
天高く・・・という秋の空を思わせるように、先日から東京ではスッキリ晴れた良い天気が続いています。
大型連休も終わり、皆さん、十分にリフレッシュまたは氣の充電ができましたでしょうか?
 ところで秋の空といえばもう一つ「女心と秋の空」ということわざがあります。
ことわざ辞典を調べてみると、「男の側から女心の変わりやすさを秋空になぞらえた語句だが、古くは男心と秋の空と、女心ではなく男心が主で、もともとは妻から夫への非難の言葉だった。
男女の力関係の変化で、男側からの言葉に変化したのだろうか」と続いています。
結局は、男、女のどちらも、心は変わりやすいということでしょうか?
 恋愛の話は経験不足ですので私にお話できることはないのですが、氣の観点から心が変わるということについてなら、たくさんお話しできることがあります。
私たちの周りには、プラスやマイナスの影響を与える見えないエネルギー、氣というものが存在し、それによって身体に変化が出るばかりではなく心にも変化が出ます。
身体は細胞レベルで変化する必要があるので時間がかかりジワジワと変わるものですが、むしろ心というものは身体に比べると変わりやすいものと言えるかもしれません。
マイナスの氣の影響を受けると、イライラしたり怒りっぽくなったり心配事が多くなったり、マイナスの心に傾きがちになります。
一方プラスの氣の影響を受けると、気持ちが良くなったり、清々しい、嬉しい、ありがたい気持になるなどプラスの心が湧いてきます。
マイナスの心にはマイナスの氣が集まりやすくなりますので、この氣と心の関係を知って、うまく付き合っていきたいものです。
 人生という永い間に、人はいろいろな経験をします。
楽しいこともあれば辛く悲しいこともあるものです。
マイナスの状態に置かれたときも心を上手く変化させ、自分自身でプラスの方向にコントロールできるようになるには、もともと特別な修行や鍛錬、練習が必要でした。
しかし、真氣光はハイゲンキや氣グッズで氣を受けることによって自然にそれを促してくれる便利なエネルギーなのです。
マイナスの状態に置かれたときこそ、真氣光を受けて「プラスに心変わり」をしてほしいと思います。
(中川 雅仁)
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(28) 紺屋の白袴

猫の手も借りたいほど忙しい日々が続いており、私は少々気持ちにも焦りが出ておりました。
原稿を書こうとパソコンに向かったのですが、何から手を付けて良いやらわかりません。
咄嗟に妻に、何かおもしろい話はないかと訊ねていたのです。
どうも苦境に立たされると、その台詞が口から出るらしく、妻からは「紺屋の白袴」との返答です。
妻曰く「焦るときはマイナスの氣の影響を受けているのだから、氣を受けてくださいと、あなたはいつも言っているではないですか」「音氣でもかけたら」とのこと。
私は痛いところをつかれ、早速音氣CDをセットして、パソコンに向い、このことわざの意味を調べてみたのでした。
辞典には『自分の専門のことや技量を自分には用いないことのたとえ、医者の不養生』とあります。
私にとっては何かの教典のようなお言葉です。
少々反省しながら、これは自分への戒めとして、似たようなことをずいぶん前に決心したことがあったと思い出しました。
この話は、研修講座ではよく皆さんにお話しているのですが、先代が亡くなり、私が会長になったばかりの頃です。
当時皆さんには「毎日ハイゲンキを使うと良いですよ」とお話をしていましたが、私自身疲れたり体の調子が悪いときにはハイゲンキをしていましたが、今のようにいつもは使っていなかった時期でした。
30代ですから、まだ今よりは若かったということもあり、疲れも一晩寝ると取れたような気がしていました。
ところがマイナスの氣は知らないうちに溜まるもので、あるとき右の腕がしびれて全く上がらなくなってしまったのです。
寝返りを打つのも痛くて熟睡できないという状態です。
私は、その時には、祈るような気持ちでハイゲンキを一生懸命に使ったのでした。
おかげさまで、その後順調に回復して一週間ほどで何事もなかったかのようになりました。
そして、これは「毎日ハイゲンキをやりなさい」と先代に教えられたと思ったのです
(先代も晩年脳溢血で倒れてからは、右側が不自由でしたから)。
私の場合、会長という立場ですから、真氣光については皆さんに向かって立派なことを言わなければならないわけですが、その分、自分自身の行動が上の方からも観られているような感じがします。
真氣光の波動が少しずつ強くなっています。
ですから、ますます私も精進しなければならない気持ちと、そうすることで、皆さんにもより強い氣を利用していただけると思うのです。
(中川 雅仁)
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(27)昔取った杵柄

私の父、先代は、元は時計技術者でしたが、‘86年に真氣光という宇宙からのエネルギーを集めるハイゲンキの作り方を夢で教わりました。‘95年に亡くなるまでのおよそ10年間、気功という分野に新しい風を吹き込むと同時に、医療ばかりではなく環境問題やエネルギー問題にも目を向け、氣づきの重要性と「すべて起こることには意味がある」と言い遺したのです。父は中学を出て時計技術を習得したのですが、その技術が無ければハイゲンキはできていなかったでしょうし、真氣光も無かったかもしれません。
私は、父が亡くなり突然この会社を引き継ぐことになりましたが、元は電機会社の研究開発部門で働くエンジニア、この会社に転職して3年ばかりが経過しているときで、35歳の経験も乏しい私が何故父の偉業を引き継ぐことになったのか、最初はわかりませんでした。そのうちに誰よりも自分が真氣光というエネルギーを体験しなければと思うようになり、一生懸命に真氣光を受けました。そして、ある時わかったのです。すべては理由があって起きていて、遙か昔から計画されていたということ。つまり宇宙がこの地球にエネルギーを送りたくて、父に氣の中継器をつくらせたこと。そして元エンジニアである私が、それを引き継ぎ、氣中継器の性能をさらに向上させて、たくさんの人たちに利用してもらうという役割があるということを。
「昔取った杵柄」ということわざがあります。辞典には『過去に鍛えた技量は年月を越えても十分に使うことができるというたとえ。「杵」は穀物などを臼に入れてつくための道具で「柄」は杵の手で持つ部分の呼称。つまり、若かりし時に餅つきなどで鍛え抜いて習得した腕前ということから。』と、あります。
私の場合、確かに昔の技量が活きました。当時はただ目の前の事に立ち向かっていたことが、点と点を繋げると線になって、さらには方向性を持つ矢印に変わるように、はっきりとわかったのです。サラリーマン時代の経験が無ければ、今の音氣CDや真氣光DVD、クリスタルマットに真氣光チタンプレートなど大半の氣グッズ、さらにはパワーユニットをはじめスティックヘッドやホワイトセラミックヘッドに至るまでの全てを思いつくことは無かったでしょう。
技量と言うと狭くなるので、経験という言葉で置き換えても良いように思います。どんな人にも無駄な経験はなく、年月を越えて、それが活きるのではないでしょうか。その時にはわからなくても、後になって全ては繋がっていると気がついたとき、私たちを生かしてくれている、この宇宙の大いなる存在に感謝せずにはいられないのです。
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(26)苦しい時の神頼み

「何か面白い話は無い?」私はよく原稿のネタに困ると妻に聞くようなのです。妻は「無い」と答えると、私がいろいろ執拗に責める(笑)ので迷惑だということです。私はあまり意識していないのですが、妻はそれが「苦しいときの神頼み」だと言って笑うのです。私にすれば、神頼みでもないが…という気持ちですが、そんなことを考えながら、このことわざを調べてみました。すると自分が苦境の時だけ、他人に頼る身勝手さのたとえとあります。「自分が悩んでいるのだから、お前も考えて当たり前」のようなところがあり、確かに身勝手なものだと少々反省いたしました。しかし、このことわざ、良く考えると氣の観点から非常に興味深いので、今回のテーマに使わせてもらうことにしました。 と いうのも苦境に立たされているときほど、氣の効果を実感できるものです。氣とは波動的な性質があるものですから、信じようとすればその分だけ、あるいは氣を集めよう・氣を受けようとすればその分だけ同調作用が働いて吸収率が増します。ですからハイゲンキも、苦境に立たされ必死になってやっていると、効果が引き出されるということがあるのです。以前ある方に、山中で一人、車のバッテリーが上がって困り、ボンネットを開けてハイゲンキで氣を照射したらエンジンがかかったという話を聞いたことがあります。この方の場合は、普段からもよくハイゲンキを使っていて良さが実感できているからこそ、そのようなときにも手元にあり、咄嗟に「使おう」とひらめいたのだと思うのです。 話 を元に戻しますと、苦しいとき困ったときに神に救いを求めるのは、恥ずかしいことでもなく、氣の効果を引き出しその良さを実感できることに繋がります。しかし、このことわざが批評している、自分の都合だけで相手を利用し、事がすめば、「はい、さようなら」とする身勝手さは、注意したほうが良さそうです。ハイゲンキで氣を受けるのも身体の調子が悪いときばかりではなく、日頃からよく使っていただきたいと思います。私たちの周りにはご先祖様のように、数限りなくたくさんの方々が居ます。ハイゲンキからのエネルギーは使っている人の魂を輝かせ、さらにその人を通じて縁の深いところから順にエネルギーが浸透していき、その背後の霊的な存在にも行き渡らせるのです。自分のためだけではありません。もしかするとあちらの人が、ハイゲンキを使って欲しくて、あなたが真氣光を知ることになったのかもしれないのです。そのようなことを記憶に止め、末永くそして毎日のようにハイゲンキを使って欲しいのです。

(25)急がば回れ

私たちは、日頃多かれ少なかれマイナスの氣に曝されて暮らしていますが、昔から人はマイナスの氣の影響を受けないための工夫を生活の中に取り入れていたようです。その一つでもある諺は、その多くが言葉を思い出すことによって注意できたり、気持ちを切り替えられるなど、マイナスの氣から身を守る知恵であり、いわば先祖が遺してくれた宝でもあると思うのです。 と ころで私は、毎週末に地方で会長セッションがあり出張なのですが、たいていは一日ごとに場所が変わりますのでセッション後に移動して宿泊となり、時には夜11 時にホテルに入るという日も珍しくはありません。ある時、いつものホテルに予約が取れずに、初めてのホテルに泊まることになりました。たまたま駅に着いたのが11 時を過ぎる頃で、慌ててホテルの場所を確認したのです。分かったつもりで夜の街を歩き始めましたが、道を間違えたのか、5 分で付けるはずが15 分経っても見つけられません。早く宿に着きたいと焦る気持ちに疲れもあったのでしょうか、判断力が鈍ってしまい、ぐるぐる30 分ほど歩き回ってしまったのです。歩きながらふと「これはマイナスの氣に歩かされているかな」と感じたのです。結局、駅にもどり交番でよく聞いて、ホテルに無事着いたのが、そろそろ12 時になろうかという時でした。「急がば回れ」とはこのことで、このような話は、よく登山でも耳にします。7 年程前、本紙でも書きましたが、丹沢を登山して山荘で対談という時にも、道を間違え大方を引き返したことがありました。 こ とわざ辞典を見てみると、「(1)急いでいる時は、危険性のある近道より遠回りでも安全な道を行けという意(2)急ぐ時はゆっくり落ち着いて、着実にやるのがよいというたとえ」 と 、あります。安土桃山時代には「急げば回る」と、「急いでみたけれど、かえって時間がかかってしまった」と後悔のニュアンスで使われたこともあったようです。急ぐと、本来の平常心を失い、イライラ・セカセカや焦りの心になりがちです。焦れば焦るほど自分のマイナスの意識に同調して集まるマイナスの氣によって、ますます迷いやすく、良い方向への決心が鈍ることに繋がるのだと思います。霊的なマイナスの氣は、付け入る隙を狙っています。原点に戻り、ゆっくり冷静に整理して考えてみるなど、本来の自分の意識、つまりマイナスの氣に影響されない自分自身の魂に聞いてみることが大事です。私も一日の疲れがマイナスの氣を集めたのでしょう。真氣光のエネルギーは魂に浸透し光を強めます。「回りすぎる」「回らされている」と感じた時は、より集中して真氣光を受けると良いでしょう。

(24)人のふり見て我がふり直せ

我が家の近所の桜は、そろそろ散り始めました。皆さんは、もうお花見に行きましたか?ところで先日、久しぶりに車で出かけましたが、途中から渋滞でノロノロ運転になってしまいました。約束の時間はとっくに過ぎていましたが、先の合流地点で詰まっていることがわかっていましたので、「もう少しだぞ、焦るな」とばかり辛抱強く車線を守っていたのです。すると後ろからブーンと来た車が、あっという間に私の前に割り込んだのです。こっちは20 分も掛かったというのに、「マナーが無い」と少々憤慨してしまいました。そうしているうちに合流地点を過ぎて流れが良くなり、どの車も制限速度を守っている私を追い抜いて行きます。私も・・・と、ばかりに先ほどの反動でアクセルに力が入ったとたん、前方にパトカーと数台の止められている車が見えたのです。「おお危ない、いかん、いかん、人のふり見て我がふり直せとは、このことだ」ちょっとした氣のゆるみに気づかせてもらったのでした。 そ んなことを考えていると、先ほどの割り込みに憤慨したことも反省させられました。私も今まで何回も割り込ませてもらっていたのです。車線を間違えてどうしようもなかったということもありました。その時には、入れてもらった車に感謝したものです。それを忘れて怒るとは、気がせきイライラしていたことが心の余裕を失わせていたのです。これも人のふり見て我がふり直せということ、昔の人は良いことを言います。このことわざは江戸時代から使われていて、人の行いの善悪を見て自分の行いを反省し改めなさいということ。善いところは参考にできるので案外問題ないのですが、悪いところはよく目に付くものです(反対に自分の欠点はなかなか見つけられないもの)。また、人からされてイヤな事は人様にもしないということも教えてくれます。マイナスの魂さんによくあるのですが、「自分と同じ目にあわせてやる」と、相手からされた以上にやり返す、その結果自分にも相手にも残るのは空しさや憎しみで、マイナスの氣に包まれるだけなのです。 氣 の観点から考えると大きなポイントが二つあります。まず自分の欠点(マイナスの氣が関係している)に気がつくことです。そして嫌悪感を感じ自分を変えようとすることで魂が輝き、影となっていたマイナスの氣が光に変わり離れていくのです。真氣光は氣づきの波動ですから、それが加速されるのです。周りの人は、ご縁があるから目の前に居てくれる「大事な人」です。善いことも悪いことも魂の輝きにつながるのです。

(23)笑う門に福来たる

先日新聞を見ていると「笑い測定機を関西大の研究チームが開発した」という記事が載っていました。ほお、横隔膜、腹筋の周辺の皮膚にセンサーを張り付け、筋肉を動かすときに発生する微弱な電気をパソコンに取り込み専用ソフトで解析し、笑いの程度を判定するというものです。毎月の真氣光研修講座ではヨガの龍村先生により「笑いの行法」の指導があり、ハラを動かす練習をします。このセンサーも腹筋の筋電位を測定するとのことで、なかなかのものだと感心して読んでいると、笑いの度合いを数値化し、大笑いだと40 アッハ、くすくす笑いだと3 アッハなど、アッハ(aH )という単位で表すというのです。これには思わず笑ってしまいました。私の場合、今日は妻のちょっとしたジョークで20 アッハ位笑ったでしょうか。笑いが健康に良いと、多くの学者が着目しています。将来は携帯電話ぐらいの大きさにしたいということですから、万歩計のように一日身につけて、笑った量を計れる日が来るかもしれません。「人はなぜ笑うのか」(講談社ブルーバックス)によれば、笑いの存在が確実なのは霊長類であるサルやチンパンジー、ヒトにおいてのみということになっているようで、さらには私たちが上司に対して微笑んだりする社交上の笑いの起源は、動物が誤って口の中に入れた毒物を吐き出す動作が進化したものだということです。氣の観点から考えると、笑いというプラスの氣を外に向かって出すから波動の同調作用によって、身の周りからプラスの氣が集まるということですが、もう少し変えて言えば、魂に影となって邪魔をするマイナスの氣が笑いによって払いのけられるので、守護霊さんのようなプラスの氣の存在から何らかの応援が届きやすくなるというようにも言えるでしょう。その点では、毒物をはき出す動物の動作に似ています。 日 本には「笑う門に福来たる」ということわざがありますが、ことわざ辞典で調べてみると「苦難な状況にあっても希望をもって頑張っていれば、幸せをもたらすことができるということ。一言に笑いといってもさまざまだが、この笑いは楽しげな笑顔や笑い声で、にこにこしている人の家には、どこからともなく幸運がやってくるものだということ。」とあります。私たちは辛いときや悲しいとき顔つきもさえず、うつむきがちになるものですが、そんなとき上を向いて大股で歩いたりすることで少し気分が変わります。同じように些細なことにも笑うことで、健康がやってきたり幸せがやってきたりするようです。真氣光の力も借りて、笑えることを待っているのではなく、積極的に笑って暮らしたいものです。

(22)心頭滅却すれば火もまた涼し

先週末は金曜日から日曜日までの三日間で名古屋、大阪、福岡、熊本を真氣光セッションで回って来ました。寒い日が続いたせいか、風邪を引いたという方、体調を崩したという方もいらっしゃいました。皆様、“氣を付けて”、ご注意ください。私も、その前からオーバーワーク気味だった為か、日曜日の深夜には自宅に戻ったのですが、翌日の月曜から何だか風邪を引いたように胸の辺りが重い感じになり、変な咳が出たかと思えば首の下が重くなり、そのうちに左の肩が痛くなるやら、しばらく体調不良が続きました。しかし、やらなければならないことは目白押しでしたから、「気合いを入れて」と思うのですが、なかなか身体が言うことを聞きません。「風邪にやられたかな」と妻に話すと、すかさず「大丈夫よ、氣が足りないだけ」のひと言。いつも私が言っている台詞をとられましたが、自分のこととなると氣のせいだとは思えず、出来ないことがでてきてもあきらめモード、「仕方がない」と言い訳ばかりを唱える始末で、我ながら少々おかしな状態でした。しかし、氣を受けているうちに火曜日には「心頭滅却すれば火もまた涼し」とまではいきませんが、かなり近い境地まで気持ちを切り替えることができました。身体は疲れていてもやはり氣の持ちようですね。 と ころで、このことわざですが、辞典で調べてみると『気持ちの持ちようで、いかなる苦難でも凌ぐことができるということ。「心頭」とは心の中。心の中から雑念を払えば火も熱くないということから。出典は中国・唐代の杜荀鶴(とじゅんかく)の詩。日本では甲斐・恵林寺の僧・快川が織田信長勢に焼き討ちされた時に唱えたと伝えられる有名なものだが、なぜか、近代以前には用例が見当たらない。』とあります。昔の人は凄いものです。修行によって、身体にいろいろな苦痛があっても精神力でそれを克服することができる、つまりそこまで心を強く出来たのですね。洗心の指標の一番目に「強く」とありますが、私にとっては最重要課題の一つです。心を強く持つことで、魂に光が増し、足を引っ張るいろいろなマイナスの波動が浄化されるのです。真氣光を受けることは外から魂に光を注ぐことで、自らの心を強く持つことは内部から光を増すことですから、両方同時に行えると良いのです。しかし、修行の無い現代の世の中で、心を強くするにはどうしたらよいのでしょう?よく考えると、毎日の生活の中でストレスを強く感じるような時が、心を強くする絶好のチャンスです。どうやら私の場合は、疲れたときに楽をしようとばかり考えがちですが鍛錬の時と捉える必要もありそうです。

(21)言うは易く行うは難し

ラジオによれば立冬だということ。日暮れが早くなって朝夕には寒さを感じ始める季節ですが、皆様いかがお過ごしですか。温暖化の影響があるのでしょうか?東京は、まだまだ暖かい日が続いているような気がします。しかし、今年もだんだん残り僅かとなり、私は少々焦り気味です。年初に、「趣味や遊びも含めて今年はこんなことをしてみたい」と思っていたことが、まだ半分も出来ていないからです。忙しい、暇がないと理由を付ければいろいろありますが、その原因を掘り下げて分析してみると、どうも気持ちの面で、いま一つ腰が引けている感じがあったのです。ちょっと面倒だとか、駄目じゃないかとか、心配や上手くできないイメージがいろいろと深い意識の中にあるようで、それらが邪魔をしているようなのです。実際に着手してみると、それらは「案ずるより産むがやすい」ということになるのかもしれません。 行 動できることで人は大きく変わっていけるはずなのに、頭ではわかっていても、「昨日までが普通に過ごせたのだから、このまま現状維持を保っていよう、敢えて冒険を犯すこともあるまい」という気持ちが何処かにあり、なかなか行動するところまで決心がつかないということでしょう。氣の観点から考えてみると、魂が大きく光を増すのは、一見マイナスのことに立ち向かう強い意志をもって行動するときです。逆に言えば、魂に光が増えるとそこに居られなくなるマイナスの氣が、少しでもそこに止まろうとして抵抗勢力となって出現し、決心を鈍らせて行動できないようにするということも考えられます。全てがそのような場合とも限りませんが、普通に考えても今まで止まっていた車輪を動かすには相当なエネルギーが必要なはずです。一端動き始めれば楽に行えるようになるのでしょうが、それまでは強い決心で行動を始め、すぐに止まってしまっても、また決心して行動すること、場合によっては、それを何回も繰り返すことが必要になってくるでしょう。また、真氣光というエネルギーは魂に浸透し、その光を増やします。マイナスの氣が邪魔をしているような時には、自分自身の魂に浸透した光が、次第にそれらにも届いてプラスに変えていきます。その結果、行動しやすくなるものです。 私も、出来なくさせているマイナスの氣に、より一層光が当たるように真氣光を受けながら、そんな風に自分に言い聞かせることにして、少しでも実行できるように年末までの50 日を大事にしていきたいと思っています。

(20)塵も積もれば山となる

私は先週土曜日から札幌、仙台、福岡、熊本、大分県佐伯市と日本列島の北から南下し、一昨日遅くに東京に戻りました。ほんの数日ですが、久しぶりの東京は幾分涼しく感じられました。先週「新しい枕、新発売」の話をしましたが、各地では早速この枕を買ってくださる方が多く、一部では在庫が無くなるほどでした。皆様ありがとうございました。 こ の枕ですが中身に水晶を練り込んだチップを使っています。一つひとつのチップからでる真氣光の光は小さなものでも、たくさん集めることで大きな力を出すもので、まさしく『塵も積もれば山となる』です。2000 年に発売したパワーユニットから、このことわざがポイントになるような、いろいろな氣グッズが誕生しています。スティックヘッド、アクアリフレッシャー、ホログラムシール、先月発売したチタンプレートなど、多数の組み合わせが一つひとつを足し合わせた以上に、つまり相乗効果のように働いて、大きな効果を引き出すのです。古くからことわざにもあるように、人は昔から体験によって感じてきたことなのでしょう。 こ のことわざを辞典で調べてみました。「ごく僅(わず)かなものでも、数多く積み重なれば高大なものになるということの喩え。小事を疎(おろそ)かにするなという戒(いまし)めの意味を込めても使う。」とあります。妻は、これを聞いて耳が痛いと言います。彼女は最近ずいぶん福々しくなっているようなのですが、デザートの強力な誘惑に「これぐらいは大丈夫か」と、気のゆるみも手伝って体重増加に歯止めがかかりません。ただ逆に考えれば、ほんの少しのストレッチも積み重なれば大きな効果を発揮するまでになるかもしれません。ですから私から見れば、ダイエットの本を買ってきては高く積み重ねるのではなく、何かやってみたらということなのですが・・・。しかし、かく言う私も同様に、このことわざには反省させられることが多く、人の事は言ってはいられません。 氣 グッズのように光の塵ならよいですが、マイナスの氣つまり影の塵がつもるのは困ります。マイナスの氣は、最初は小さな事でも、少しずつ少しずつ、気づかれないように蓄積していきます。たいていは山のように大きくならないと、気がつかないということなのです。そうなっても気がつけることで、大きく前進できるのですが、あまり大事には至りたくないものです。日頃から精進、精進。真氣光に加え、マイナスの山を築かぬように少しでも努力せねばと思うのです。