(26)苦しい時の神頼み

「何か面白い話は無い?」私はよく原稿のネタに困ると妻に聞くようなのです。妻は「無い」と答えると、私がいろいろ執拗に責める(笑)ので迷惑だということです。私はあまり意識していないのですが、妻はそれが「苦しいときの神頼み」だと言って笑うのです。私にすれば、神頼みでもないが…という気持ちですが、そんなことを考えながら、このことわざを調べてみました。すると自分が苦境の時だけ、他人に頼る身勝手さのたとえとあります。「自分が悩んでいるのだから、お前も考えて当たり前」のようなところがあり、確かに身勝手なものだと少々反省いたしました。しかし、このことわざ、良く考えると氣の観点から非常に興味深いので、今回のテーマに使わせてもらうことにしました。 と いうのも苦境に立たされているときほど、氣の効果を実感できるものです。氣とは波動的な性質があるものですから、信じようとすればその分だけ、あるいは氣を集めよう・氣を受けようとすればその分だけ同調作用が働いて吸収率が増します。ですからハイゲンキも、苦境に立たされ必死になってやっていると、効果が引き出されるということがあるのです。以前ある方に、山中で一人、車のバッテリーが上がって困り、ボンネットを開けてハイゲンキで氣を照射したらエンジンがかかったという話を聞いたことがあります。この方の場合は、普段からもよくハイゲンキを使っていて良さが実感できているからこそ、そのようなときにも手元にあり、咄嗟に「使おう」とひらめいたのだと思うのです。 話 を元に戻しますと、苦しいとき困ったときに神に救いを求めるのは、恥ずかしいことでもなく、氣の効果を引き出しその良さを実感できることに繋がります。しかし、このことわざが批評している、自分の都合だけで相手を利用し、事がすめば、「はい、さようなら」とする身勝手さは、注意したほうが良さそうです。ハイゲンキで氣を受けるのも身体の調子が悪いときばかりではなく、日頃からよく使っていただきたいと思います。私たちの周りにはご先祖様のように、数限りなくたくさんの方々が居ます。ハイゲンキからのエネルギーは使っている人の魂を輝かせ、さらにその人を通じて縁の深いところから順にエネルギーが浸透していき、その背後の霊的な存在にも行き渡らせるのです。自分のためだけではありません。もしかするとあちらの人が、ハイゲンキを使って欲しくて、あなたが真氣光を知ることになったのかもしれないのです。そのようなことを記憶に止め、末永くそして毎日のようにハイゲンキを使って欲しいのです。