(先週の続き)Aさんを恨んでいたヤドカリさん達は、相手の非道を分からせるため、結果的にA家の代々の人を恨んで来たのです。当時は仇討ちも認められていた時代です。「目には目を…」、やられたらやり返すのは当然のことだったかもしれません。しかしそれは一見正しいように見えて、結果的に恨みというマイナスの氣を出すことにより、マイナスの氣を引き付けます。どんどん影が集まり黒くなって、余計に苦しくなって行くのです。それがわからなかった彼らですが、どんどん真氣光の光が入って来て、その間違いに気づいたのです。子孫のAさんには何の関係もなかったこと、逆にこんなに心が軽く楽になったのは、Aさん達のお陰だったことが心からわかり、申し訳ない気持ちと、感謝の気持ちをもって、光の国に行かれたのでした。
このヤドカリさんの場合は、最初は正義にも似た小さな恨みが、結果的に何百年もの永い年月にわたってマイナスを引き付け続け、より強力な影になったのです。今回こんなに深いところで苦しんでいたヤドカリさんに氣が届いたのは、Aさん達が日頃から一生懸命真氣光を充電してきた結果だったのでしょう。
時代が変わり今では、恨む、恨まれるということが、身の回りに少なくなっているかもしれませんが、似たような事は私達の身近な生活の中にもよくあることです。たとえば「相手の間違いに気づかせる」という一見正しいことをしているようでも、執拗に相手を咎めたり、怒ったり、非難したり、マイナスの感情をぶつけてしまうことなどです。相手のことを考えているというプラスの氣つまり光を装っていながら、自分にも相手にもマイナスの氣を溜め込ませる影になっている場合です。
私達は魂を成長させるために体を持って生きています。ですから、逆に考えると完璧な人など身の回りには存在せず、どんなに光り輝く人でも何らかの影があるということになります。そしてよりいっそう魂の光が強まると、強いライトに照らされた物のように、影も強く浮かび上がるのです。最初は光を装っていて見つけにくいものです。しかしそれに気づき、そのままにすることなく、その影をマイナスとして受け止められた時から、それは光へと変わる準備を始めます。真氣光を充電するうちに少しずつ魂は成長していくのですから、周りの人にも自然に気づいていただけるような工夫が、できるようになるのです。
カテゴリー: たましいの話
(22)光を装った影-3
センターの会長セッションでの出来事です。私が氣を送り始めると、ある女性が急にお腹が痛い、痛いと苦しがるのです。どしたのかと思って近くによって、お腹に手をあてると、「悔しい」と私に訴えます。どうして悔しいのかと思いながら、さらに氣を送ると「腹を刺された」と言うのです。「人のために良いことをしたのに、なぜこんな目に会うのだろうか」と私に尋ねるのです。どうもその人は、ある人のために何かをしてあげたのに、恩を仇で返され、刺し殺されたらしいのです。身体を無くした後は、悔しいという強いマイナスの思いのために、暗いところに長い間居なければならなかったのでしょう。「良いことをしてあげたのになぜだ」と、私にしきりに尋ねるので、わたしも返事に困って「なぜ良いことをしてあげたのですか?」と尋ねました。その人は少し考えていましたが「自分のしたことが後で、私の家族のためになると思った」と、答えたのです。良いことをしてあげれば、後でなんらかの家族への見返りがあるだろう。どうやら彼(?私の想像ですが)は、それを期待していたということらしいのです。そう答えた後彼は、結局は見返りという自分の欲で、人に良いことをしていたと気がつくのです。そしてそれは、本当にその人のためにはなっていなかったことがわかったのです。彼は真氣光の光を受けるうちに、氣づいて、間もなく光の世界に旅立って行きました。
良いことをしてあげたら、良いことをしてもらえる。単純に逆にとらえれば、自分にとって良いことをしてほしいから、良いことをしてあげる。私は彼を見送りながら「我々の毎日の生活の中にも、これはよくある事だなぁ」と考えていました。人は、見返りを求めて誰かのためになるのでは、本当の光を放つことにはならないのです。人に親切にする時、真氣光の氣を送る時や、ハイゲンキをしてあげる時も同じです。その人の喜ぶ顔が見たいから、それが嬉しいから、ただその人が良くなって欲しいから、純粋にそう思える時、本当の光が放たれるのでしょう。見かけは同じでも、心がそこに有るか無いかで、光の質は全く違います。本当の心が伴っていなければ、それは光を装った影になるのでしょう。
(23)平和を祈る
米英軍がイラク戦争に踏み切ってから21日。今日の新聞には「米軍がバグダット制圧」と大きな見出しが載っていました。早く戦争の無い世の中になってほしいものです。
先日の会長セッションで私が氣を送っていると、Aさんの顔がみるみる歪んできて、とても苦しそうな様子になったのです。足が重いようです。私は足の方に氣を送りながら、Aさんが何か言おうとしているので、耳を傾けました。「俺はもう歩けない。先に行ってくれ」と苦しそうな声です。どうやらたくさんの人達と一緒に歩いているらしいのです。私が「何かの旅の途中かな」と考えていると、今度は「家に帰りたかった」と苦しそうに言うのです。私は早く楽になってもらいたくて、一生懸命、何も言わずに氣を送りました。すると少しずつ話せるようになり、だんだん状況がわかってきました。彼は戦時中軍隊にいた人で、広い大陸(たぶんシベリアか満州)を仲間と日本に向かって、それはもう延々と歩いていたようなのです。しかし、飢えと寒さと極限にまで達した疲労で、もう一歩も足が前に出なくなったのです。仲間は彼を勇気づけようとするのですが、彼はもう付いて行けず、すでに死を覚悟したのでした。私は氣を送りながら「戦争は終わりました。ゆっくりしてください。」と言ったのですが、彼は苦しそうな顔のままで、まだまだ光が足りないようすです。仲間もみんな苦しんでいると言います。戦後半世紀以上が経過しています。私達には遠い過去の出来事ですが、彼らにとってはまだ終わっていなかったのです。私はたくさんの光が届くことを祈りながら氣を送り続けました。「勝っても負けても、戦争はイヤだ。前線で戦った人間は皆そう思っている。辛い、苦しい、帰りたいと思っても、口に出して言えなかった。誰も口にしなかったけど、みんなそう思っていた。ああ、だんだん楽になってきた。私のようなものが光の世界に逝けるなんて…。まだまだ仲間がたくさん苦しんでいる。私も少しでもたくさんの人を光に導きたい。よろしくお願いします。」最後、彼はそんなふうに言って光の世界に旅立ったのでした。私も微力ながら少しでも力になろうと、決意を新たに見送りました。
計らずも翌日午後からは、広島で囲む会を企画していただきました。私は早朝から空いている時間を利用して平和記念公園を巡り「すべての魂が光り輝くよう」世界平和をお祈りさせていただきました。素晴らしい快晴と満開の桜。今では広島に世界中から平和の波動が集まっています。かつてたいへんな経験をした、たくさんの魂さん達がこれからの地球に尽力してくれているような氣がして、何とも言えない気持ちになったのでした。
(24)酒を飲まされる
うちの近所に大学があり、駅前には新入生らしき学生が大勢、やけに陽気に集まっていました。どうも、クラブかサークルの新入生歓迎コンパの帰りのようでした。昔と今では、随分酒の飲み方も変わったと新聞に載っていました。酒を飲んで議論などというよりは、一気飲みが流行り、急性アルコール中毒になる学生もいるとか…。私も学生時代、友人が酒の飲み過ぎで動けなくなり、介抱したことを思い出しました。酒は百薬の長などと言い「適度の飲酒はどんな薬にもまさって効験がある」ということのようですが、飲み過ぎると大きな害につながります。良いのか悪いのか、我が家の家系は代々酒が弱かったようで(先代も弱かった)、私の場合ビール一杯ですっかり顔が真っ赤になってしまいます。
酒と言えば、「最近頭がくらくらする」と言うAさんに氣を送っていたところ、酔っぱらったご先祖様が出てきました。(後から聞いた話ですがAさんの家系はお酒がめっぽう強く、お祖父さんはお酒のために土地を手放すことになった程、とのことです。)口調が完全に酔っぱらっている感じなので、相当酒を飲んでいるとわかったのですが、まだまだ飲み足りないような口振りです。いろいろ言われていましたが、私はそれには答えず、ひたすら氣を送ることに専念しました。真氣光の光が十分届いたのでしょう。だんだん落ち着いて来られたのですが、最後に言われた言葉が印象的でした。「俺は楽しくて酒を飲んだことは一度もない。辛いから酒を飲んだけど、飲んでも飲んでも辛かった」仕事のことか、家族のことか、わかりませんが、その方には、とても辛いことがあったのでしょう。過度の酒は思考を麻痺させますから、飲むことで一時的に辛さが紛れます。しかし辛い気持ちはマイナスの氣となってどこかに存在し続けますから一時的には良いのですが、また出てきます。それを繰り返しているうちに、身体に負担がかかり亡くなったのでしょう。以前このシリーズ第20話(2003/1/30)に登場いただいたAさんですが、ご先祖はたくさんの恨みをかっていました。今回出てきた方は、恨みを持つたくさんの魂達の影響で辛い出来事が集中し、酒を飲むことになったのでしょう。酒に関して辛いご先祖がいらっしゃると、次の代もそれに引っ張られ酒を飲まされますから、Aさんの家系は代々飲まされて来たのかもしれません。真氣光の光が浸透し、ご先祖を恨む人々が光になってくれたお陰で、Aさんのご先祖の辛さも癒されたのでしょう。深い繋がりがあるものです。
(25) 学校が嫌い!
今年の2月から4回にわたり月刊ハイゲンキで不登校の特集をしました。ちょうどそのころだったと思います。その日の会長セッションも終わりに近付いたところで、「ちょっと頭が痛いんです」とAさんが私に訴えました。Aさんは学校の先生です。今年から生徒指導という役をすることになったということで、「これも意味があるのでしょうね」と前回のセッションで私に話してくださったのでした。私はそんな事を思い出しながら、そのまま少し氣を送っていたのです。すると突然「やだ、やだ」と言い始めました。これはAさんじゃないと思い、その後の言葉に耳を傾けたのです。苦しそうな顔をしながら「あんな学校、誰も行かなくなればいい」と言います。どうもAさんの口を通して出て来ているのは、学校に行くことが嫌になり、悩み苦しんで亡くなった子供の魂だったらしいのです。自分を苦しめた学校や先生に、恨みの気持ちを持っているのです。後からわかったことですが、その学校は伝統のある女子校で、昔から変わることのない規律がとても厳しく、生徒の中にはずいぶん窮屈な思いをしている子も多いとの事です。たぶんその子も、そのような規律について行けず先生を通して学校というものがすっかり嫌いになってしまったのでしょう。いろいろ自分が苦しんだから、皆が自分と同じように学校が嫌いになって行かなくなるように、先生と生徒の関係が悪くなるマイナスの方向にいろいろと画策していたらしいのです。しばらく氣を送りましたが、なかなか軽くならず出てくる言葉は暗くて重い言葉ばかりです。その子一人がAさんの口を通して出てきているのですが、私にはその背後にたくさんの悩み苦しんだ子供達が居るような気がしました。私がより集中して氣を送り続けると、真氣光の光が届き始めたのでしょう。だんだんと出てくる言葉が変わり始めたのです。「でも、こんな先生もいるんだね。この先生は一生懸命生徒の話を聞いていたよ。」「だんだん軽くなってきた。自分が辛かったから、みんなが学校に行かないようにしたけど、それは間違っていたんだね。私も光になって苦しんでいる子を助けられるよ。」辛い体験をしたからこそ、苦しんでいるたくさんの子供達の本当の力になれることでしょう。Aさんがこのセッションの前日、一日を費やして生徒の話を聞いてあげていたことを後から聞きました。Aさんは「話を聞いている時には何の意味があるのかわからなかった」と言っていましたが、その行動が、影に光が届くきっかけになったのです。「私の学校は女子校だから生徒は将来お母さんになり、生まれる子は次の世代を担うことになる」と何気なく言われたAさんの言葉に、私達大人は子供達を通して未来に光を送っている事を、あらためて氣づかせていただきました。
(26) 何の価値もない
最近、左の手足が痛いと訴えるAさんに私が氣を送っていた時の事です。彼女は氣を受けて少々痛みが増したようで、少し苦しそうな表情になったかと思うと、急にすすり泣きを始めたのです。私は直感的に、これは氣を受けているAさんではなく、どなたかご縁のある魂さんが出てきていると思いました。案の定、彼女は泣きながら「私は手も足も動かなくなったんです。私にはもう生きている価値がない。」と話を始めたのです。事故なのか病気なのかはわかりませんが、どうも手足が全く不自由になって亡くなった方のようです。私は氣を送り続けました。その魂さんは「手足が動いているときにはわからなかったけれど、手や足が動くという当たり前の事がとっても有り難いことだったとわかりました。」と言うのです。さらに「自分一人では、何もできなくなったから、いろいろな人にたくさんの事をしてもらいました。だから感謝、感謝…毎日毎日たくさん感謝しています。だけど、動かなくなった手や足はもう元にはもどらない。動くことはないんです。だから、もう誰にも何もしてあげられない。私には何の価値もないんです。生きている希望もない。」と訴えるのです。私は思わず、その方の生きていた時の様子を想像しました。ベッドに寝たきりの状態になって、自分のできることを見失い、すっかり生きる希望を失ってしまったのでしょう。感謝するということは光になるのですが、自分には価値が無いという大きな絶望感が、その方の魂から光を奪っていたのです。私は「もし自分がそうなったら、どうするだろう」と考えると慰める言葉も浮かばず、出てきている魂さんに光が届くよう、ただひたすら氣を送ることしかできませんでした。「・・・」少し沈黙の時間があった後、「あーっ。私にも人の為にできることが一つだけあったんだ。」と言うではありませんか。真氣光の光がAさんを通して、その魂さんに届いたのでしょう。「手も足も動かない、こんな私にも悲しむ人の話を聞いてあげることはできたんだ。アドバイスできることは何もなかったけど、『聞いてくれてありがとう』って言われた。」と言うのです。真氣光が、忘れていた記憶の中から氣づきをもたらしたのです。「どんな人だって生きていれば誰かの為にできることがあるのです。だから生きている限り希望を失って欲しくない。」最後に、そう言ってその魂さんは逝かれたのでした。“人の話を聞かせていただく”ということさえも喜びにでき、そしてそれは本当に強い光になるのですね。
(27)もう笑えない
月刊ハイゲンキの8月号はもうお手元に届いたでしょうか。今月号の対談は神津先生で「毎日の生活の中で『笑い』発見!笑いの種は、自分の心の中にある」というタイトルが付けられています。先生は身の回りにある「笑い」を見つけることが重要とお話してくださいました。私はその話を聞きながら、毎月の真氣光研修講座でやっている“いいとこ探し”と一緒の考え方だなと思いました。最初は見つけにくくても、見つけようと努力していくうちに、いろいろな発見があるものです。どんなところにも“いいとこ”があるように、どんなところにも笑いが隠れているのですね。つまり発見できるかできないかは自分の心が決めているようです。
以前私がAさんに真氣光を送っていた時のこと、Aさんの口を借りて「もう笑えない」という魂さんが出てきたことがありました。Aさんは明るい人でしたから、私はすぐにご本人ではないと思い、氣を送ることに専念したのです。出てきた魂は、『自分は、交通事故で右半身に重症を負ってしまい、特に顔の右半分が傷ついて整形手術でやっと普通の顔を取り戻した。事故のショックと何故自分がこんな目に遭わなければならなかったのかという憤りで、心に深い傷を負ってしまった。病院でいろいろな処置をして何とか身体は元どおりになったが、すっかり笑うことができなくなり、結局生きる希望が見えなくなって自らの命を絶ってしまった。そして分かってくれそうなAさんのところに来た。』と言うのです。今ではそうは見えませんが、何年も前にはAさんにも笑えない時代があったようです。
しかしその後Aさんには、笑える事が多くなったようです。一方Aさんにくっついている魂は「えへら、えへら笑うのが気にくわない」とAさんの前歯を虫歯にして変色させ、口を開けて笑えないようにしたと言うのです。でもAさんは、そんな事はおかまいなしに、よく笑う生活をするようになりました。さらには真氣光を受けるようになり、ますます光が届いたのでしょう。ついにくっついていた魂が浮き出てきたという訳です。最後にその魂は「私は、自分の事だけしか考えていなかった。たくさんの人が励ましてくれたり、力を尽くしてくれたり、周りにいるたくさんの人達がいろいろな事をしてくれていたのに全く目に入らず、笑うこともできなくなっていた。でも、この人は笑いを絶やさなかった。」と言い、光の世界に逝かれました。笑顔は自分ばかりでなく周りにも光を与えます。誰でも、たいへんな時には笑えないものですが、“いいところ”を探す努力と真氣光が少し目先を変えてくれ、笑いを運んでくれるようになるのです。
(28)いいとこ探し
私は、「いいとこ探しをしましょう」と、よく言っています。日常生活の中でラッキーなことを見つけるのは、コツをつかむと案外できるものですが、いいとこ探しの対象が不幸な出来事だったり、身近な人だったり、自分に肉体的、精神的苦痛を与える人だったりすると途端に難しくなるものです。その出来事や相手側が一方的に悪いと、自分を振り返り見つめ直す材料にすることを、すっかり忘れてしまうのです。以前、このことについて考えさせられる二つの体験がありましたので紹介します。真氣光を送っていると、氣を受けている人とは全く違った人格の魂が出てくることがあります。両方とも、すでに身体をなくした魂の話です。
一人の魂さんは、若そうな漁師さんでした。雇われ漁師というのでしょうか、自分の船ではなく他人の船に乗っていたのです。ある時、その船は大シケに遭い転覆してしまったのです。日頃から船長に対して強いマイナスの感情を抱いていた彼は、その船を早く降りずに、その日も乗ってしまったことを後悔していました。「その船に乗りさえしなければ死ななかったのに」と、ずっとそのことが頭から離れなかったのです。まだまだやりたいことがあったでしょう。私もただひたすら氣を送るしかありませんでした。しかし、真氣光を受けているうちに彼は思い出したのです。海に自分の身体が沈んで行く時、下から一生懸命自分の身体を押し上げようとしていたのは船長だったということを・・・。それに気がついた瞬間に、彼は光の世界に消えていったのでした。
もう一人は、お百姓さんです。地主から土地を借りて米を作っていましたが、ある年、大飢饉にみまわれました。しかし地主の年貢の取り立ては厳しく、結局一家は生活を苦に心中しなければならなくなるのです。しかし死んでも苦しさから逃れられません。こんな風になったのもあの地主のせいだと、地主を恨んだのです。しかし、苦しさは募るばかりで、代々その家を恨み続けてきたのでした。私は話を聞いても、氣を送ることしかできずに送り続けました。すると、彼は思い出したのです。以前、同じように大変な時に、米を分けてくれたことがあったと…。彼は恨んでいた地主にも何か理由があったのかもしれないと言いながら、光の世界に旅立ちました。
真氣光の氣は、氣づきの氣です。死んでしまった魂にとっても、生きている我々にとっても、マイナスの場面に直面した時に、難しくなる〈いいとこ探し〉ですが、真氣光が氣づきを促してくれるものなのです。
(29)自由と平等
ある日の会長セッションでの出来事です。Aさんが頭が痛いというので、みんなでハイゲンキをしていると、してあげていたBさんのお腹が急に痛くなってきたのです。結局Bさんの方が苦しそうなので、皆で二人を囲むことになりました。私も一緒に氣を送らせてもらいました。しばらくすると、Bさんは隣に寝ているAさんを叩き始めたのです。どうしたのかと思っていると、Bさんが「こいつの先祖に、苦しめられたんだ。」と、叩くのをやめて、話を始めたのです。「俺は悔しいんだ。一生懸命、精魂込めて大事に育てた米を、こいつの先祖は全部持って行きやがった。もともと、人は皆平等じゃないか。だけど生まれたところがちょっと違うだけで、俺達みたいな者は、こんなひどい目に遭うんだ。」そう言って拳を床に叩きつけるのです。私は氣を送りながら、昔の不平等なくらしの事を思いました。武士の子は武士に、地主の子は地主、小作人の子は小作人に、生まれでほとんどすべてが決まる時代です。一生懸命やっても、何も変わらないんです。さぞ辛かったろうなぁと思いました。この人達が辛い中を生きてくれたからこそ、私達はそんな制度の過ちに気づき、少しづつ世の中が変わって来たのです。今、私達が何不自由なく生きられるのは、この人達のお陰だなぁと、しみじみ思いながら私は一生懸命氣を送りました。光が届いてきたのでしょうか。「俺達は土の奥底でずっと苦しんでいた。そこに一筋の光が差し込んで来たんだ。ああ、ありがたい。本当にありがたい。こいつが土地に埋めてくれた石から、光が差し込んで来たんだ。やっと俺達がこんなに辛いっていうことを、わかってもらえた。」Aさんが以前土地の四隅に埋めた水晶から、真氣光が届いていたのです。そしてハイゲンキをしてくれている周りの皆にたくさんの光をもらって、どんどん楽になっているのです。魂は永遠です。死んで終わりではありません。私は、その人に言いました。「あなたには、まだまだ出来ることがあるんです。」すると「地位も名誉も金も無い、こんな俺にできることがあるのか?」と尋ねます。私は「こんなに苦労したあなただから、同じように苦労している人の気持ちがよくわかり、本当の意味で力になれると思います。」と答えました。「そうか、出来ることがあるのか。・・・ありがとう、ありがとう。」と、光の世界に旅立って行きました。まだまだこの地球上には、自由や平等が十分ではなく陰で泣いている人がたくさんいます。その魂は、苦しんでいる人たちの強い力になってくれることでしょう。折しも選挙シーズンが始まりました。当時の人にとっては、考えられないほど羨ましいことでしょう。私も本社での会議の前に、不在者投票に行って来ようかと考えているところです。
(30)罰を与える
ある日の会長セッションで、Aさんが腰の痛みを訴えるので、私は一生懸命氣を送っていたのでした。するとAさんが、まったく別の女性の口調になって苦しそうに話を始めたのです。内容は次のようなものでした。その女性の魂さんはキリスト教を信仰していたのですが、当時あったキリスト教への弾圧により、「本当の事を言え」と役人からの厳しい拷問にあったらしいのです。今まで私は、氣を送っていて“隠れキリシタン”といわれる魂に、何度か会ったことがあります。彼らは皆、神を信じていたのですが、肉体に加えられる苦痛によって自分自身の心に光を失い、神の存在を信じ切れなくなることで神という光も見失っていたのでした。
彼女もまた同じような深い苦しみに陥っていたようだったので、「私は過去に、隠れキリシタンの人に会ったことがあります。」と、彼女に話しかけました。すると彼女は、「その人たちは、どうなったのですか。」と尋ねるのです。真氣光で皆、光の方に逝かれたので、私は「皆さん、神様からの光によって天国に行きました。」と答えると、彼女は急に泣き崩れ「私は踏み絵を踏んだのです。神様は私に罰を与えた。だから姿を現わしてはくれない。本当の事を言っても言わなくても罰を受ける。」と言ったのです。彼女は役人から拷問を受け、さんざん思い悩んだあげく踏み絵を踏んだようなのです。その後悔も手伝って暗く苦しいところに永い間、閉じこめられていたのでしょう。私は「神様からの光が、きっと届きます」と一生懸命氣を送りました。
やがて彼女にだんだん光が届いてきたらしく、穏やかな表情になって「光が見えてきた。神は罰を与えなかった。人間だけが罰を与えるのですね。」と言うのです。私はその言葉にハッとしました。確かに考えてみると、一見悪いことは起こるかもしれませんが、それは神が罰を与えているのではなく、何とか気づいて欲しいとメッセージを与えているのです。人だけが他に対して罰を与えるのですが、他の生き物には見られません。強い者が弱い者へ、罰を与えて気づかせるということですが、強い罰が相手に恐怖や深い憎悪を与えます。それはマイナスの氣を呼び込み、その人の心に深い傷となるのです。最近の報道をみると、体罰によって幼い子が亡くなる事件が相次いでいます。自分自身にあるマイナスの心のはけ口に、軽々しく罰を与える例がたくさんあるようです。罰を与える人・受ける人、両者のマイナスの心に、少しでも多くの真氣光が届くことを願っています。