(30)罰を与える

ある日の会長セッションで、Aさんが腰の痛みを訴えるので、私は一生懸命氣を送っていたのでした。するとAさんが、まったく別の女性の口調になって苦しそうに話を始めたのです。内容は次のようなものでした。その女性の魂さんはキリスト教を信仰していたのですが、当時あったキリスト教への弾圧により、「本当の事を言え」と役人からの厳しい拷問にあったらしいのです。今まで私は、氣を送っていて“隠れキリシタン”といわれる魂に、何度か会ったことがあります。彼らは皆、神を信じていたのですが、肉体に加えられる苦痛によって自分自身の心に光を失い、神の存在を信じ切れなくなることで神という光も見失っていたのでした。
彼女もまた同じような深い苦しみに陥っていたようだったので、「私は過去に、隠れキリシタンの人に会ったことがあります。」と、彼女に話しかけました。すると彼女は、「その人たちは、どうなったのですか。」と尋ねるのです。真氣光で皆、光の方に逝かれたので、私は「皆さん、神様からの光によって天国に行きました。」と答えると、彼女は急に泣き崩れ「私は踏み絵を踏んだのです。神様は私に罰を与えた。だから姿を現わしてはくれない。本当の事を言っても言わなくても罰を受ける。」と言ったのです。彼女は役人から拷問を受け、さんざん思い悩んだあげく踏み絵を踏んだようなのです。その後悔も手伝って暗く苦しいところに永い間、閉じこめられていたのでしょう。私は「神様からの光が、きっと届きます」と一生懸命氣を送りました。
やがて彼女にだんだん光が届いてきたらしく、穏やかな表情になって「光が見えてきた。神は罰を与えなかった。人間だけが罰を与えるのですね。」と言うのです。私はその言葉にハッとしました。確かに考えてみると、一見悪いことは起こるかもしれませんが、それは神が罰を与えているのではなく、何とか気づいて欲しいとメッセージを与えているのです。人だけが他に対して罰を与えるのですが、他の生き物には見られません。強い者が弱い者へ、罰を与えて気づかせるということですが、強い罰が相手に恐怖や深い憎悪を与えます。それはマイナスの氣を呼び込み、その人の心に深い傷となるのです。最近の報道をみると、体罰によって幼い子が亡くなる事件が相次いでいます。自分自身にあるマイナスの心のはけ口に、軽々しく罰を与える例がたくさんあるようです。罰を与える人・受ける人、両者のマイナスの心に、少しでも多くの真氣光が届くことを願っています。