(19)怪我の功名

先月のことです。人と待ち合わせをしておりました。私は車で高速道路を走って目的地に行こうとしていたのですが、ちょっとよそ見をしている間に、案内表示板を見落として、道を間違え遠回りの道路に入ってしまっていたのです。高速道路ですから、後戻りするわけにはいきません。「失敗したなぁ、時間がかかるだろうから待ち合わせ時間に遅れます」と電話しようか等と考えながら走っておりました。すると、どんどん道が空いてきたのです。間もなくすると、道路状況を現す電光掲示板が見えてきて、さっきの道が大渋滞していたという事がわかりました。結局、私はその後順調に走り、待ち合わせ時間の1分前に目的地に着くことが出来たのでした。なんと有難いことだったか、もし道を間違えなかったら1 時間は違っていたでしょう。これはまさしく怪我の功名です。私は、このような“怪我の功名”も氣と関係があると思っています。
ところで、このことわざについて調べてみました。意味は(1 )間違ってやってしまったことが思いがけずよい結果となること(2 )なにげなく行ったことが偶然良い結果を生むことのたとえ。とあり江戸時代初期から使われていたようです。かなり昔から使われていますから、それを体験してきた人が多いのでしょう。2000 年にノーベル化学賞を受賞した白川英樹筑波大名誉教授のエピソードは、実験の指示を取り違えた大学院生がとんでもないものを作ってしまった失敗がきっかけで、とんでもないものが発見されたというものでした。2002 年にノーベル化学賞を受賞した田中耕一さんは、間違えて試料を混ぜてしまい、「どうせ捨てるのも何だし」と言って実験したところ見事成功したというものでした。
世紀の大発見などには、この“怪我の功名”的といえるものが多いように思います。普通に考えるなら、手段、方法、過程に誤りがあれば、好結果を得る可能性は極端に低いわけです。しかし二人の科学者のように「常識の枠にとらわれない考え方」や「行動力」に加え「失敗からどれだけ学べるか」というものの見方ができる人だったからこそ発見できたのでしょう。さらにそれだけではなく、私には大きなプラスの氣つまり人智を越える何か大いなる存在が介在していたと思うのです。私たちには一見マイナスともいえることが、いろいろと押し寄せて来ます。時には失敗もあるでしょう。しかし、不平や不満といったマイナスの氣を自ら発することなく日々努力できることが、いつしか大きなプラスの氣を呼び込むことに繋がります。真氣光というプラスの氣 も、それを後押ししてくれるのです。

(18)二度あることは三度ある

先日雨が降る夜に、私は車を運転していました。路地から大きな道へ右に曲がって出ようとしたときのことです。まず左側を見て、次に右側から来る車が来ないことを確認しながら、発車しようとしたときです。凄い勢いで左側から私の車の前を走り抜けようとした無灯火の自転車がいました。慌ててブレーキを踏みましたが、もう少し発見が遅れていたら接触していたことでしょう。その自転車は雨が降るので急いでいたらしく、何事も無かったかのように走っていきました。その前にも、見通しが悪い交差点で左折しようと車を止めたところ、よそ見をしていて止まり切れなかった若い女性の自転車が突進してきました。結局、直前で自転車は止まりましたが女性のお尻が私の車にドシンとぶつかってしまったのです。彼女の身体の方は、お尻ということもあり痛むこともなく、大事にいたらず安心したのでした。ど うも私は、自転車との相性が悪いようです。それもスピードを出して走ってくる自転車に縁があるようです。サラリーマン時代、雨が降る中、夜遅く傘をさして帰宅途中のことでした。もう少しで家だと思った矢先に我が家の前で、後ろから傘をさして走って来た自転車にぶつけられ、跳ね飛ばされて転んでしまいました。私は仕事でヘトヘトでしたから文句を言う元気も無く、相手の人が心配そうに謝ってくれていましたが、早々にその場を後にしたのです。私のズボンは破れて泥だらけ、玄関を開けた家内が、「自転車にひかれた~」という情けない私の姿を見て、大笑いしたことを思い出します。
氣 は波動的な性質を持っています。自分の氣に波長が合って、いろいろなものが集まってくるわけです。何かマイナスの氣が在って、それが消えないと再び同じようなマイナスの氣が集まり、事が起こります。“二度あることは三度ある”ということわざがありますが、これはまさしく氣の法則を言っているのだと思います。江戸後期から使われているようですから、昔の人は経験的に解っていたのでしょう。
私 は幼少の頃、自転車暴走族(?)として鳴らしたものです。もしかしたら、ずいぶん周りに迷惑をかけ、その時にご縁のあったマイナスの氣の影響があるのかもしれません。このような場合、核となるマイナスの氣によって他の人よりも、似たようなマイナス現象に遭遇しやすくなります。ですから、より一層注意を払うとともに、もし現象が起きても“不幸中の幸い”に目を向けマイナスの心に引っ張られないことです。私も、何かに守っていただいたことを感謝するとともに、もう少し注意しようと思ったのでした。

(17)自業自得

家内と話しをしていて、最近は自分の身に起きるちょっとした不幸な出来事が少なくなって来たようだと気がつきました。少しは私も成長できたのでしょうか?「あなたは、不幸な出来事が多かったわよね」と言われるぐらい、昔は失敗や災難に見舞われていたのでした。今でも笑われている話を紹介しましょう。結婚して間もない頃住んでいた家は、食堂テーブルを置くべき位置の上に、ガラス製の大きめの傘がかかった照明が、天井からぶら下がっていたのです。引っ越して、まだ間もない頃の話です。我が家も食堂テーブルをそこに置いていましたが、その電灯の位置が少し低い為に、よく家内は頭をぶつけていたのです。私は「おまえは粗忽者だ」と、彼女が頭をぶつけるたびに言っておりました。その時の事を彼女は事細かに描写して言うのですが、私は少しも「ぶつけて大丈夫」と心配することもなく、(私には覚えがないのですが???)いつも彼女を説教口調で咎めていたというのです。ある日のこと、ぶつけたことのない私が、テーブルから立った瞬間に、頭をそのガラス製の傘に激しくぶつけ、次の瞬間にその傘付きの照明は粉々に割れて私の頭に降りかかって来たのでした。頭はとても痛かったのですが、不幸中の幸いとはこのことで、怪我をすることもなく胸を撫で下ろしたのですが、ガラスの破片でどこかを切ってもおかしくない状況でした。神様が私に教えてくれたのでしょう。それからは、私も少しは口を慎むようになったようです。
氣 は、人の心から発せられる電波のようなものです。プラスの氣を出せば、プラスの氣が集まるし、マイナスの氣を発すればマイナスの出来事が起こりやすくなります。私も自分では気がつかぬうちに、マイナスの氣を出すことが多かったからマイナスの氣が集まってくる、つまりは自業自得だったようです。“自業自得”をことわざ辞典で調べてみると「自分が犯した悪事によって自ら報いを受けること。古代から現代に至るまで幅広く常用されている」とありますから、昔も今も多くの人が実感している宇宙法則なのでしょう。人 のことは分かるのに、自分が発しているマイナスの氣は、なかなか気がつくことができません。自業自得という法則により、私達は氣づくチャンスをもらっているのでしょう。大きな災難に見舞われる前に、いろいろなことに氣がつきたいものです。私の場合も、真氣光が効果を発揮しているのかもしれません。

(16)災害は忘れた頃にやってくる

私 が原稿を書いているこの時点で、関東地方は台風11 号の接近に伴い、激しい風雨に見舞われているところが出ているようです。最近台風や地震など自然災害が多くなっていますので、何事もなく通り過ぎてくれることを祈っております。つい先日も宮城県を中心に震度6 を記録した地震がありました。このところ地震が多いこともあって、デパートなどでも防災用品が売れているということです。9 月1 日は関東大震災のあった日であり、今では防災の日として、この季節には「災害は忘れた頃にやってくる」という言葉もよく耳にします。これは岩波のことわざ辞典にも載っており、「災害は、日が経って悲惨な思いが希薄になり、災害への心構えなどを忘れてしまった頃に、再びやってくるものだという意。物理学者であり災害防止にも多くの提言を残した寺田寅彦の言った言葉だとされる」と、ありました。このような時ですから地震や台風などが来ても、災害とならないように、私たちの心構えをしっかり持ちたいものです。
このことわざは災害のことを言っているのですが、「災害」を「一見マイナスの出来事」に置き換えることで、真氣光を続ける上での教訓とも捉えられます。私たちの魂が成長する過程の中には、一見マイナスの出来事が起き、そこで何かに氣づけることで魂が大きく成長するというステップがあるようです。私なども真氣光の会長をやっているからといって例外ではありません。頭でわかっていても行動が伴っていないなど本当の意味で理解できていない時や、氣づきが必要な時には、絶妙なタイミングでマイナスの出来事は何回でも現れるものです。真氣光をやっているのにマイナスの現象が出るということで、氣のことが信じられなくなったり不安を感じたりすることがあるかもしれません。そのような時は、氣の効果が無くなったとか自分には合わないと考えがちですが、このような時こそ焦らずにじっくりと自分自身を見つめてみることです。真氣光で何か良いことがあったから、今まで続けてこられたはずです。急に真氣光が届かなくなったり、効かなくなったのではありません。真氣光のエネルギーを、より強く信じることで宇宙の波動に同調できます。一生懸命に氣を受けることで何かに氣がつくことがあるはずです。そしてそれにもとづき、小さなことでも良いですから行動に移してみることです。確実に自分が変わり、その結果同じようなマイナスの出来事が現れることは無くなるのです。

(15)仏造って魂入れず

先代は、いろいろな物に真氣光の波動を記憶させる「氣入れ」のやり方を、夢で白髭の老人から教えられました。私も生駒にある「氣入れ室」を使って、今でも先代と同じようにやっているわけです。「氣入れ」された氣グッズというと、真氣光を知らない人は不思議な感じがする人もいることでしょう。しかし、昔から氣を入れた物が、たくさん造られていました。「仏造って魂入れず」ということわざがありますが、仏像などは、まさしくその類の代表と言えるでしょう。このことわざを、岩波ことわざ辞典で調べると『物事のだいたいを果たしながら、最も大事な点をなおざりにすることのたとえ。開眼供養という法事は、新しくできた仏像などに眼を書き入れて仏に魂を入れ、彫像を仏にするための儀式のことで、こうした儀式があるように、仏像が新しく造られても魂が入れられなければ仏にはならない。…』と、あります。魂を入れて初めて、素晴らしい氣を放つことになるのですから、まさしく氣グッズと言えます。魂を入れる、すなわち真氣光で言うところの「氣入れ」は、物に物理的な変化を与えることではないので、見た目には何の変化もありません。氣は科学の力では測定できないので、どんな機器を駆使しても、その変化は分からないのですが、そのものが放つ氣が変化するのです。
しかし、本当に氣入れの効果はあるものなのです。先代の時代から真氣光にご縁がある、和歌山でペインクリニックを開業されている西本医師が実際にハイゲンキを使って試験し、学会に発表してくれています。当時、私も非常に興味深く論文を読ませていただきました。その解説記事を月刊ハイゲンキ2002 年6 月号で紹介してくれていますので、興味のある方はご一読ください。この試験は二重盲検試験と言って、外見は全く同じハイゲンキヘッド(一つは氣入れし、もう一つは氣入れしないもの)を二つ用意して、患者さんには、どちらが本物か知らせないで治療するという実験です。先生は50 代から70 代のいろいろな病気の患者さんに試した結果、氣入れしたヘッドでは有効率が74 %、氣入れしないもの方は有効率が42 %になったとしています。明らかに氣入れによる違い、「仏造って魂入れず」ということが確認できていると言えます。
私は「氣入れ」について良く聞かれることがありますが、簡単に言えば気持ちを込めるということです。これはハイゲンキを使う人にも応用できるものです。氣が入って来る事を強く意識することで、より強い氣が受けられるようになるのです。

(14)蒔かぬ種は生えぬ

「蒔かぬ種は生えぬ」ということわざがあります。ことわざ辞典を調べてみると二つの意味があるようで『1 .原因なくして結果はありえないこと。2 .何もしないで良い結果を期待しても叶わないことというたとえ』と書いてあります。この二つの意味の両方が、真氣光を実践するうえで参考になります。以 前、交通事故に遭ったので直ぐに生駒での研修講座を申し込んだという人がいました。よく先代は「良くない出来事は氣という見えないところに原因があるから、真氣光でそれを解決しなければだめだ」と言っていましたので、氣の事を良く理解している人だなぁと思ったものです。たとえば同じ所を何年かおきに痛めるような場合は、原因となっているマイナスの氣が浄化されていないということになるでしょう。
先ほどの交通事故に遭った人の場合などは、軽くて済んだと安心していると、マイナスの氣という原因は消えていないので何かの災いに遭ったり、再び事故に巻き込まれたりするということがあるということなのです。一般には悪い出来事が起きないように氣をやっているという人が多いかもしれません。逆に悪いことが起きると「氣をやっているのに.…」と氣を信じられなくなったりするものです。しかし、原因が完全に消えていないから出てくる一見マイナスの出来事というものが実に多いのです。
次から次にそれが出てくると、つい希望を失い暗い気持ちになったり、氣のことも信じられなくなるものです。しかし、原因となるものが何処かにあるはずです。氣の観点から考えると、自分ばかりでなく先祖が蒔いた種という事もあり得ます。真氣光を続けるうちに必ずそれは浄化されプラスに変わっていくのです。その証拠に、以前に比べて今の方が、プラスの事が多くなっているはずなのです。ま た真氣光を続けていると、氣さえ受けていれば特に何もしなくても、良い結果を期待してしまうということがあります。確かにいろいろなマイナスの氣がプラスに変わりサポートしてくれるスピリチュアルな存在が増えて、身の周りに良いことが多くなります。私は「魂を成長させるには洗心と真氣光の二つが大事です」とよく言っていますが、生きているからには皆この世で修行している身であり完璧な人などあり得ません。ですから心の持ち方のどこかに注意を要することで、まだまだ飛躍できるはずなのです。真氣光を一生懸命受けると同時に、プラスの心が持てるよう小さなことでも行動することで、自然に良いことが増え、自分も周りもますます幸せになれるのでしょう。

(13)馬の耳に念仏

私 が氣の世界が面白くなり自分で知りたいと思うようになったのは、’92 年6 月に先代である父が当時下田でやっていた研修講座に参加してからでした。仕事のストレスで疲れがたまり、「皆が良いと言う氣でもやってみようか」という程度の軽い気持ちからでした。それまでは家にハイゲンキや氣グッズがあり、父からも氣のことを聞いていたのですが、自分は健康だから必要無いと全く興味が有りませんでした。私よりは家内が、’89 年より父の会社を手伝っていたので、氣についての知識も豊富でした。父も家内も私に、あれこれ教えてくれていたのですが、当時の私は聞いてはいたものの、その良さが心に響かなかったのです。
馬の耳に念仏ということわざを辞典で調べると、『有益な価値あるものに対して何の反応もせずに聞き流す』とありますが、私はまさにその状態でした。氣が向かないと入らない、逆に言うと一生懸命に求める心が良いものを外から引き込むものです。私もその後いろいろ氣の体験をしてきてわかったことは、全てではないですがマイナスの氣である霊的なものが邪魔をして、本人の意識がそちらに向かないようにすることがあるようです。当時の私には、もしかしたらいろいろな邪魔が入っていたのかもしれません。し かし周りの家族は、こんな私にも押しつけがましいことを言うこともなく、事ある毎に氣の話をしてくれました。温かく見守っていただいたという感じです。日本語はうまくできているものです。影響を受けるということがありますが、温かい心から発せられるプラスの氣があると、自然に何かが変わるようです。影であるマイナスの氣に少しずつプラスの氣である光が届いて行き、“影に響き”始めるようになると、もう大丈夫。黒っぽい影に光の粒子が少しずつ入り外からの光に同調できる準備が整うことで、少しずつ聞く耳ができてくるのです。“感化する”という言葉を辞書で調べると、影響によって自然に変わることとありますが、氣を感じることで自ら変われるようになるのです。実 際には気が付くまで“待つ”という事が難しいものです。「あいつは分からないのだ」と諦めたり咎めたりしがちですが、もしマイナスの霊的な者の仕業であれば、それは相手の思うつぼであり、自分の波動を下げてしまいます。そのように考えると忍耐強く待ちながら、どうしたら気がつくか分かるまで氣にかけるという事は、周りの人にとっても大きな成長になることです。馬の耳に念仏とは良く言ったもので、念仏を唱えるのは馬のためと思いがちですが、自分のためとも言えるのです。

(12)思い立ったが吉日

先 日のこと、家内に電話をしようと思って携帯電話を手に取ったら突然、当の本人から電話がかかってきました。このようなことは良くあることですが、これを数学的に算出したらどのぐらいの確率になるのでしょう。私は、ついそんなことを考えてしまいます。思いついて行動に移すということは、何らかの氣を感じて思い出し、さらには行動するときにその人を意識し氣を発しているのでしょう。私の場合で言うならば電話をしようと思いついた時、家内から連絡したいという氣が電波のように私に届いたのでしょう。そういう意味では、よく「思い立ったが吉日」と言いますが、この諺は氣の性質をうまく表現しているのかもしれません。この諺をいつものようにことわざ辞典で調べてみると『物事は思い立ったらすぐにとりかかるのがよいというたとえ。現代でも結婚式は大安の日を選び葬式は友引を避けるように、暦で事を選ぶ慣習は根付いているが、それにこだわりすぎると機会を逃しかねない。物事を行うには用心深く慎重にやれということわざが多い中で「善は急げ」とともに積極的な色合いのものだ。江戸時代にもよく使われ現代も定着していることわざである』とあります。
私 は、15 年ほど前には物事を思い立ってもなかなか行動に移せない性分でした。辞典にあるように、いろいろ慎重になりすぎて機会を逃していたのかもしれません。それについて少し分析してみると、良くない出来事が身の周りに多かったので自分の考えに自信が持てず、また失敗するのではないかという恐怖から、慎重に考えすぎたり誰かの同意を必要としたのだと思うのです。
人 は頭で理解して行動しますが、失敗するのも大きな学びですから、行動してみないと本当に自分のものにならないことが多いものです。そのように考えると、最適な事を思い立ち、すぐに行動できることで学びの早さが増すということになり、かつての私のように慎重に考えすぎる事が学べるチャンスを遅らせていたということになります。
親 子ではありますが、先代は全く逆の性格で、思いついたと思ったら行動に移すタイプでした。当時私は、「もっとよく考えればよいのに」と思っていましたが、今の自分を振り返ると、思いついたらやらないと気が済まない性格になっているようです。年をとって先代に似てきたのか?真氣光を続けているとそのようになるのか?私には、どうも真氣光のエネルギーが、無駄な思いつきを除いてくれているように思うのです。皆さんはどうでしょう?

(11)朱に交われば赤くなる

氣とは、目には見えないけれど何となく感じられるものの総称であり、人や動物、物、土地などあらゆるものが、それぞれ固有の氣を持っています。真氣光という宇宙からのエネルギーも氣の一つであり、それらについて考えてみるとテレビやラジオの電波のように波動的な性質があることがわかります。例えば、イライラの波調がぶつかり合うと共鳴し大げんかになったり、悲しいテレビ番組の波長に合わせて自分まで悲しくなったりする現象です。現代の都会の生活には、心が安らぐ自然や、のんびりと芸術を楽しむ時間などが減っています。どちらかというと心や身体にマイナスに作用する氣が氾濫していますから、どんなに気をつけていても、“朱に交われば赤くなる”ではないですが、マイナスの方向に引っ張られてしまうようです。この諺が表すように、昔から人は氣の性質を経験的に知っていたと思います。
ちなみに、ことわざ辞典で調べてみました。『人は付き合う仲間によって良くも悪くもなるというたとえ。「朱」は赤の顔料。ちょっと触るだけでも染まってしまうことから、接する者の影響力の強さにたとえられている。安土桃山時代のことわざ集にも収載されており、現代では悪い感化力について言う場合がほとんどであるが、江戸時代には良い場合にも用いられていた。』と、書いてあります。「付き合う仲間」を周りの波動(氣)と考えれば、本当に氣の性質を的確に表現しており、これはこの宇宙の法則なのかもしれません。ここで私が着目したいのは、朱に交わって良くなる方向のものです。影響されて変わることができるのですから、良いものに強く影響されて良い方向に変わりたいものですし、マイナスの方向には影響されにくく、周りも良い方向に変えられる自分になりたいものです。
よく考えると、先代が夢で教えられて作ったハイゲンキや氣のグッズも、“氣入れ”という特別な事をして初めて氣が中継されるものに変わります。氣入れ室という強力な真氣光のエネルギーにさらされ変化するのですから、これらの現象と同じ性質のものでしょう。ところで、先代が夢で白髭の翁に教えて貰ったのは、どうしたら変化することなく真氣光を安定して中継させられるかということです。実際には特別な部品を使ったり、特別な文字を印して固定したりするのですが、私は宇宙に存在するとてつもなく大きな真氣光の後ろ盾を感じるのです。私は、ついマイナスの方向に引っ張られることがありますが、変わらないハイゲンキやいろいろな氣グッズが、少しずつかも知れませんが確実にプラスの方向に導いてくれると思うのです。

(10)類は友を呼ぶ

 「類を以(も)って集まる」とも言われるこの諺は、魂というものの性質を見事にとらえている言葉です。ことわざ辞典で調べてみると『似たところがある者は集まってくるものだということ。中国の「易経」に出典が認められる古いもので、善人は善人同士、悪人は悪人同士というように、人は集い合うものだという意。』私は魂(心)から電波のように氣が出ていて、それには波長が合うと同調しお互いに引き合うという波動的な性質があるのではないかと考えています。
 これは、生きている私達の世界だけの話に止まりません。私は、真氣光を送っていると氣を受けている人の口を借りて出てくる、いろいろな魂達の話を聞くことで、身体が無い人達の世界にも言えるのだということを確信しました。つまり、既に亡くなった魂同士も集まるし、生きている人と既に亡くなっている人との間にも成り立っているということなのです。中でも氣を学ぶ上では、生きている人と身体を持たない魂との関係を知ることが重要です。心配性の人には似たような心配性の魂が、怒りが多い人には怒りを持った魂が、優柔不断な人にはそのような魂が、つまり似たような性格の魂が同調します。つまりどんな人も生きている人は洩れなく、何らかの魂と同調しあって生きていると言ってもよいでしょう。病気の人ばかりではなく、健康でもマイナス思考になったり、考えがまとまらなかったり、何かうまく行かないことが多くなったり、ということがありますが、そのような場合は、たくさんの自分以外の魂が同調しています。憑依などと言うと、怖いものとか、私には関係ないと思う方がいらっしゃいますが、普通に、どこにでも、誰にでもあることなのです。
 身体を失うと何がなんだか分からないうちに、似たような心を持っている人に引き寄せられる場合もありますし、自分の意志で同調しようとする魂もあります。似たような人が集まることで、一人では気がつかなかったマイナスの面が顕著に現れることになりますが、生きている人がそれに気がつき自分を変えていこうとすることで、自分自身の魂も輝きを増すし、同調している魂達にも光が届き次の次元に進めるという仕組みなのです。しかし、マイナスな事が徐々に訪れたり、深く長い間自分自身のマイナス面と同調していると、自分ではなかなかわからないものです。
真氣光を受けるということは自分自身の魂に光が入ってきますから、同調している魂達との間に差が生じ、それがもたらすマイナスの部分に気がつきやすくなるのです。ですからたくさんの人に、真氣光を生活の中に取り入れて欲しいと思うのです。