「真氣光研修講座」#平成を語る

電車に乗ったら、twitterの「平成を語ろう」という広告で埋め尽くされた車両で、びっくりしてしまいました。

31年間のキーワード年表の中から、キーワードを選び、例えば「冷戦終了」「ゲームボーイ」「リーマンショック」…等について、いろいろな人によって投稿されたものが広告になっていて、思わず目を引いたのです。
あと何日かで平成が終わりますから、タイミングの良い面白い企画です。
先週、私は平成の時代に真氣光は大きく進化したと書きました。
それは毎日少しずつ変化しているようなものですが、何かがきっかけとなり格段に進むのです。

それでは、そのきっかけとは何でしょうか?先代の死や新しい強力な各種氣グッズ・ヘッドの発売がそれにあたりますが、忘れてはいけないのが、‘06年つまり平成18年いっぱいで奈良・生駒での真氣光研修所を閉所して、研修講座開催地を全国に拡げたことだと思います。

先代は、’94年(平成6年)に日本全国をめぐり氣の館となる研修所を開所するための適地を探し、古くからの信仰の地、霊山でもある生駒山という場所を見つけます。
そして氣の効果を最大限に引き出すために、研修所の床に水晶を敷き詰め、いたるところにピラミッドやアクアリフレッシャー等、特別な氣グッズを配置したのです。
それによって、格段に真氣光のエネルギーそのものが強力になりました。
しかし、それから12年が経過し、先週説明したように会員の皆さんのおかげでハイゲンキや各種氣グッズが強力なものになったことで、特別な場でなくても研修が可能になり、私は研修講座を全国各地で開くことを決心したのです。

これは、見えない氣というエネルギーの観点から言えば、真氣光が伝統によって培われた氣を持つ信仰の山によって庇護されるものから、誰のものでもない「宇宙エネルギーとしての氣」という独自の路線を究めるものに変わったということです。
平成19年から、日本各地で研修を開催してきましたが、私はその場に縁あるマイナスの氣はもちろん、全国数々の神様や、宗教者・信仰者、私たちを守ろうとしてくれるプラスの氣に対して、真氣光による効果というものを観てもらってきたということだと思っています。

そして、これまで多くの参加者のおかげで、毎月確実にステップアップできたのです。
研修講座は「誰もが真氣光を利用して魂を輝かせられる」ということを学ぶ場であり、私はそのために余計なものを極力切り捨て研ぎ澄ませてきました。
なぜならこれは、ごく普通の一般家庭であっても、強力な氣の中継地になり得るということに繋がるからです。新しい時代には、そのような場が増えていくことを願っています。

(中川雅仁)

平成と令和と真氣光

平成の時代も残り僅かになってきました。
私は、10日間のゴールデンウィークがあるものですから、その分の仕事が前倒しに山積みになってきて、少々忙しい時を過ごしています。
さらには、業者さんとの打合せでも、「これが平成最後の打合せですね」等と言ったりして、この頃「平成最後」が流行り言葉のようになっています。
ところで、先代が夢で白髭の老人から「お前の手から氣が出る」と教えられたのが’88年12月23日の夜でした。
翌年の’89年つまり平成元年から、先代は「ハイゲンキも使うのだけれど、氣を送るということを前面に出してやっていこうと決心した」と言っていました。
平成2年3月からは真氣光研修講座がスタート、平成7年には先代が亡くなり私が引き継いでいます。
考えてみると、この平成という時代に真氣光のエネルギーは飛躍的に高まったのです。
このようなことから、きょうは平成と真氣光、そして令和の時代の話をしたいと思います。

’86年、先代は白髭の老人の夢からハイゲンキを発明し、それを使って多くの人を治療しているうちに、自分の手からも氣が出るようになりました。
ハイゲンキを使う、つまり道具としての真氣光を上手に使い、いろいろな人から動物まで、多くの周りの存在に良い氣を送り届けるということを実践した人です。
後を引き継いだ私はと言えば、先代が夢で教えられた氣を集めたり中継するSASマークやピラミッド形状に代表される、いわゆる「氣入れ」によって氣を記憶するというモノを、サラリーマン時代に習得した小さくして集積化する技術を使って、思いつくままに作って来たというわけです。
それも、氣中継器をはじめ各種ヘッドや氣グッズなど「こんなものができました」と発表すると、会員の皆さんが「これは良い」と購入し使ってくれ、さらに私が皆さんの体験から気がついたことを改良する…、この繰り返しをしているうちに、飛躍的に真氣光のエネルギーは高まっていたのです。
これは、皆さんが自分自身の体験を通して道具である真氣光を理解し、これを上手に使って自身のエネルギーを大きく高めて来たということだと思うのです。

令和という時代、私は昭和最後の先代の氣づき「(周りに)氣を送るということを前面に出して…」ということを、先代と同じように会員の一人ひとりが実践していく時代だと思います。
氣を送る、つまり真氣光のエネルギーで自分を高め、周りの人等、より多くの縁ある氣を光溢れるものにするということを、私も重点的に説明していきたいと思うのです。
平成最後の真氣光研修講座は、今月27日~29日まで岡山で開催します。
たくさんの皆さんの参加をお待ちしております。

(60)待てば海路の日和あり

私の思い出のことわざに「待てば海路の日和あり」があります。
意味を調べてみると「待っていれば、いずれはよい機会がやってくるというたとえ」ということです。
お恥ずかしい話ですが、この言葉を、私はある時まで耳にしたことがありませんでした。
亡き妻が、何の理由で使ったかは今となっては定かではありませんが、私と結婚することが決まった後、何かの折に発した言葉なのです。
私は、知らない言葉を彼女に言われたので耳に残り、後で意味を調べて学んだので、とても印象深いことわざになったというわけです。

せっかちな私は、待つという行為が、とても苦手なほうでした。
昔は「どうしてもっと早くできないのか」と、文句を言いたくなってしまうこともありました。
待つ時間に対する人の反応は様々です。
同じ時間が経過するのに、ある人は平和な気持ちのまま待てるのに、私のようにイライラしながら、文句を言いながら待つ人、不安感で一杯になりながら待つ人、心配しながら待つ人…等々いろいろなのです。
この言葉は、待っていれば、いずれ悪くなるのではなくて、「よい機会がやってくる」ということなのですから、私たちを見守るように働くプラスの氣の存在というものを前提とした、ことわざとも考えられます。
私だけかもしれませんが、この言葉には、どこか柔らかい時間が流れる印象があるから不思議です。

何もしないで良いことが起こるのを、ただ待ってばかりいても、よい機会など訪れるはずはないでしょう。
しかし、精一杯の努力はするけれど、どうしても結果が出るまでは、待たなければいけない時というものがあります。
私たちの邪魔をするように働くマイナスの氣に対して、私たちを応援しようとするプラスの氣が、いろいろな局面で奔走あるいは画策してくれています。
時には、マイナスの氣の影響が少なくなるのには、少々時間がかかることもあるでしょう。
その時が来るまで、私たちは、マイナスの氣を引き寄せることなく、着々と光を増やし続けることが大事です。
真氣光をしっかり受けて、いいとこ探しをしたり、心が明るくなることを増やす等、できる努力を精一杯やってプラスの氣を集めるのです。

広義に「待つ」という行為を考えると、体が良くなるのも、自分の目標に到達するのも…、一足飛びには成りませんから、待たなければなりません。
そのような神様から与えられた時間を、自分自身の時間にできるか、マイナスの氣の思うとおりの時間にしてしまうかは、自分次第です。
私も、時々「待てば海路の〜」と心で言ってみるのです。

真氣光で多くの氣づきを!

今週の月曜日に新元号の発表をテレビのニュースで見ました。
日本中が「令和」という言葉に沸いた日でした。
この元号の出典は、万葉集の一文「初春の令月にして、氣淑く(きよく)風和ぎ、…」からということでした。
私も「氣淑く風和ぎ」というところが気に入っていて、令和に次の時代への明るさを感じている一人です。

ところで、この明るさとは、何かもっと明るくなりそうだということであり、あくまで比較して感じる相対的なものです。
つまり暗さがあってはじめて、明るさがあるということで、暗い部分によりいっそう輝きが出て、明るくなるということでもあります。
これは、私たちの体の中にある見えない光のような氣のエネルギーも同じで、明るい・暗い部分があったりするのですが、暗い部分がよりいっそう明るくなれば、魂の輝きが効率良く増えるということに繋がります。
私たちの氣は、周りに存在するプラスの氣からは光のような氣のエネルギーの応援を受け、マイナスの氣にはそれを分けていますから、マイナスの氣の影響を強く受けると光が吸収され暗くなります。

プラスの氣である真氣光の大きな特長は、浸透力が強く、暗い部分にどんどん光が注入され、そこに影響を与えているマイナスの氣にも光が届きやすくなるところです。
その時に、フッと気づき、意識が向上するので、先代は「真氣光は氣づきのエネルギーだ」とも言っていたわけです。
マイナスの氣が外れるから氣づきが現れるのか、氣づきがあるから外れやすくなるのかどちらもあるでしょうが、これにより大きく魂は輝くのです。

この時のポイントは、暗い部分つまり体や心にあるマイナスの部分に、私たちが意識を向けられると、光が届きやすくなるということです。
逆の立場から言えば、光を失った魂は、時代が変わってしまうと平成、昭和など…過去は忘れ去られる、つまり意識を向けられないことで光が届かなくなるという危機感を持っており、何とか分かって貰おうと浮き上がりやすくなるものです。
また一方で、元号が変わることで、645年の大化から248番目の令和まで、テレビ番組でも取り上げられるなど過去の時代にも人々の目が向き、マイナスの氣がプラスへと変わりやすくなる時でもあります。
つまり氣の観点から言えば、時代が変わる直前は、真氣光で過去のマイナスをプラスに、多くの氣づきが得られる大事な時期と言えるでしょう。
図らずも今月末開催の真氣光研修講座は、古墳の多い、歴史ある岡山・総社で行います。
平成最後の研修に、多くの皆様の参加をお待ちしております。

(中川雅仁)

最上の生き方の工夫と努力

今日から志賀島での2泊3日の真氣光研修講座が始まりました。
人は氣・心・体の三つの面から成り立っているので、研修ではそれぞれを高めるための講義や行法・実習を行っています。
毎朝呼吸法として、いろいろな良い言葉を読み上げていますが、その中に「宗教心体得の誓い」があります。
「…宗教心とは、最上の生き方の工夫と努力をすることであることを自覚させていただきました。ただ今からの私は、あらゆることを通じて正しい生き方の工夫と、実行をさせていただきます」というものです。
私は、これには終わりはなく、人生を通して続けることが大事だと考えています。

最近、宗教に関係する人が、氣を受ける人の口を借りて出てくることが多くなってきました。
女性に氣を送っているのに「ワシには、こんな光はいらん」と、男の人の強い口調で拒否します。
話を聞いていると、偉いお坊さんのようで、宗教のようなものの頂点を極めたような方です。
弟子のような人達に、いろいろなことを教えてこられたのでしょう。
「教えることはあっても教えて貰うことなど無い」という人に、私は「この光を利用して、より高みを目指していただきたい」と伝えました。
最初は「その必要はない」と言っていましたが、真氣光の光が真の苦しみを浮き出させるのか苦痛で顔を歪め、その後だんだん氣が浸透し意識が変わって、最後には光のほうへ逝かれたのでした。

たぶん、その方は「道をきわめた」というところで止まってしまっていたのでしょう。
魂を成長させることに終わりはありません。
毎日の生活では、体の調子が悪くなったり、誰かに嫌な事をされたり・言われたり、落ち込むようなことが起きたり…いろいろなことがあります。
そのようないろいろな局面に応じて「最上の生き方の工夫と努力」をすることなのですが、この「工夫」と「努力」が実際には難しいものです。

真氣光のエネルギーは、魂への浸透力が高く、その光を強めるという特長があります。
しかし、グッズを利用して真氣光をしっかり受けるなどプラスの氣を取り入れても、心がマイナスに傾いて、周りからどんどんマイナスの氣を引き寄せていたのでは、非常に効率が悪く、なかなか魂は輝きません。
やはり氣・心・体の三つの面から最上の生き方の工夫と努力が大切なのです。
まずは自分から、それが自分の周りをも明るくすることに繋がります。
私たちは研修講座ばかりでなく、各地のセンターや体験会が利用できます。
真氣光を受け自分もその難題に向き合っているし、そこに集まる人もまた同じように向き合っている…そのようなお互いが影響しあって、効率の良い魂の成長はあるのだと思うのです。

自分で勝手に悪いストーリーを作らない

私は、いろいろな人の話を聞く機会があり、その人の真氣光を受けた後の変化から、マイナスの氣の影響を受けているときの傾向というものがわかりました。種々の傾向の中には、「自ら悪いストーリーをどんどん作り上げてしまう」ということがあるものです。 例えば、ちょっとした体の異変が起きたときに、自分で勝手に、ある病気を想定して、どんどん悪いほう、悪いほうへと心配することがあるものです。本当に病気だということもありますから難しいもので、病院に行くのは良いことですが、ただただ心配して、さらなるマイナスの氣を呼び込む状況であれば、それは強いマイナスの氣の影響と考えるべきでしょう。 このように、マイナスの氣の影響を受けると、自然にマイナスの発想がわいてきたり、悪いストーリーを作ってしまい、それによって、さらなるマイナスの氣が集まり、悪いほうに引っ張られやすくなるのです。潜むように存在するマイナスの氣が、その人の気持ちをコントロールして、自分の味方になるマイナスの氣を呼び込むように仕向けているということもあります。体のことは、病院に行けば確かなことがわかり、治療が必要なら処置をして貰えばよいのですが、人間関係などから生じる心の問題は、そう簡単ではありません。疑心暗鬼とは言いますが、客観的に考えるとおかしなぐらい思い込みの力が働いていることがあります。ちょっとしたことをきっかけに、確かめてもみずに、悪いほう悪いほうへと考えてしまうのです。 人も動物ですから、危険を回避しなければ死に至るということがあり、良いことよりは悪いことを想定しやすいということがあるのかもしれません。お母さんが、子どもの危険を事前に察知して回避しなければ、大事に至ります。しかし、それも度が過ぎると、マイナスの氣の影響が考えられますし、逆にマイナスの氣に付け入る隙を与えているということにもなります。 昔の体験などからのマイナスの氣の影響が強いと、なかなか悪いストーリーを自ら作り上げるモードから抜けられません。真氣光を受けるうちに、マイナスの氣がしだいに光へと変わり応援するように働いてくれるので、実際に悪いことが起こらなくなってくるものです。また、センターや体験会、研修講座などで、いろいろな人と話してみることで、自分をより客観的に見ることができるようになるでしょう。そして、そのようなモードになっている自分を感じたら「あのときは何でもなかったのだから、今度も大丈夫」等と自分に言い聞かせたり、「ちょっと考え過ぎかな、マイナスの氣の影響かも」と、真氣光を受けてみることです。

後悔と無縁になろう

春の卒業シーズンだからなのでしょうか、飛行機や新幹線にも、若い人の姿を多く目にします。最近は、卒業旅行で海外に行く人も多いとか…、私などは同級生数人で、よく調べもせずに、山中の古びた小さな1軒宿に行ったことを思い出します。図らずも混浴で、お爺ちゃん・お婆ちゃんの湯治客だけの所に、どこから来たのか場違いな若者達が登場した格好となり、何やらとても気恥ずかしかったという記憶があります。外に出ても周りは雪だけで、刺激的なものは泥のような温泉の湯以外何も無かったのですが、その分、皆でわいわいと盛り上がり、今となっては実に面白かったという良い思い出になっています。 ところで、過去のことを思い出すということについて、私の場合、真氣光を知らなかった時代と知った後では、全く変わってしまいました。昔は、「もしあの時こうすれば…」「もしあの時こうだったら…」と、過去のことを振り返り、嘆いたり後悔することが多かったのです。良くない事が多かったから、後悔ばかりが出ていたのかもしれません。しかし、後悔をすればする程、マイナスの氣の影響を受け、さらに後悔しなければいけないことが舞い込んで来るのです。後悔しながら亡くなった魂がとても多いので、後悔すればそれが引き寄せられるし、さらにその背後には、その人を恨んでいるようなマイナスの氣が居て、そのようなマイナスの氣を呼び寄せようと画策していることもあります。氣の世界を知って、その原理がわかり、自分が悪い現実を作っていたことに気がついたのでした。さらに真氣光を受けることで、マイナスの氣がプラスの氣に変わりますので、それによって良い状況になったり良いことが見えてくると言うものです。 また後悔のないように、しっかり考えて決めていきたいものです。「このように決めたのですが…、こんなふうになったのですが…、どうでしょうか」と聞かれることがあります。「決めることにはなったけど、それは自分の本意ではなかった」「決めた結果が正しいかどうかわからない」等々、いろいろあることでしょう。私はそのような場合、そうなったことは良かったこととして、未来に向けてたっぷりと真氣光を受けることが大事だと思うのです。自分の本意からの決心ではなくても、自分の気持ちがだんだん変わってくるかもしれないし、自分の気持ちにぴったりする方向に状況が変化することもあるでしょう。さらには、マイナスの氣の邪魔によって、そのような方向に動いていても、氣を受けることでプラスの氣の応援が受けられ、結果が良い方向に変わったり気づけることがあったり等、後悔とは無縁になることがあるからなのです。
(中川雅仁)

敬愛の心を持とう

これまで私は、いろいろな人に真氣光を送り、それを受けている人の口から出てくる魂の言葉を聞いてきましたが、ある時期から古い時代の宗教家と思われる魂が出てくることが多くなりました。そのような魂は、自分の信じていることが絶対なので、なかなか真氣光の光を受け入れられずに、より次元の高い世界に上がっていくことが難しいようなのです。 もともと彼らは、光を持ったプラスの氣という存在なのですが、見守っていたはずの人が真氣光を受けることで魂の光が多くなり、いつしかエネルギーが逆転し、見守っている魂のほうがマイナスとなり、生きている人の足を引っ張るような格好になってしまったのです。彼らは、頑なに自分達の伝統の上に培った光を信じ、「真氣光のような得体の知れないものは信じられない」、威厳のある声で「自分達が絶対だ」と言います。しかし、この宇宙で私たちは、いつまでも魂として成長していく存在ですから、絶対ということはあり得ないのです。私が彼らから学んだことは、謙虚さを失ってしまうと、そこからの成長が止まってしまうということです。 ところで、真氣光のエネルギーは、宇宙から「皆さん、たいへんな中を生きているので応援したい」と送られて来ます。真氣光のエネルギーを送ってくれている彼らもまた、「送らせていただいて、あなた方のおかげで成長させてもらっている」と伝えてきます。上下関係ではなく私たちと対等だと、つまり先生ではなく同じ生徒だと言っているのです。遙かに精神性が進んでいると思われる彼らであっても、さらに向上を目指そうとしている姿勢と、私たちに敬愛の心を持って接してくれていることに、私は感服しました。 敬愛とは、尊敬して親しみの気持ちを持つことという意味です。相手を敬うということは、偉そうな姿勢の対極にあって、人から学ぶことが容易になるということですし、皆が敬う気持ちを持てるということは、お互いを尊重し合えるということに繋がります。さらに親しみの気持ちを持つには、相手を理解し、その人の立場に立って考えるということが大事です。 氣の観点から考えると、誰もが、力を貸してくれているプラスの氣はあるけれど、暗い影のような何らかのマイナスの氣の影響を受けています。応援するプラスの氣が多ければ、それに反するマイナスの氣も多かったり、より暗かったりと、つまり体を持って生きているということは、それぞれが皆、たいへんな中を生きているわけです。それを理解して、真氣光を受けるとともに、誰にでも敬愛の心を持ちたいものです。(中川雅仁)

(59)百聞は一見にしかず

私の本「絶望を希望に変える氣の力」を読んで、無料体験会に来られる方がいらっしゃいます。「百聞は一見にしかず」と言いますが、目には見えない、科学でも捉えられない氣というものを知るうえでは、このことわざがとても参考になります。ことわざ辞典で調べてみると、『人の話を百回聞くより、自分の目で一度見る方が確かだということ』と、あります。昔の人は古くから自身の体験を通して感じていたことなのでしょう。 百聞ですから何回も聞くということです。聞くということにより、誰もが自分の頭の中で想像することでしょう。しかし、特に自分の体験に無いことは想像できないものですから、実感となって湧いてこないということで、実際に目にすることとは格段に違うということになるのだと思うのです。例えば、私は北海道育ちですから、東京で就職するまでは、富士山を見たことがありませんでした。富士山が日本一の山とは聞いていたものの、目の当たりにし、さらには登ってみて初めて、その大きさと美しさを本当の意味で実感できたように思います。そして、もう少し付け加えるなら、私は小さい頃からテレビでも、富士山の映像を見ていたのですが、当時それも想像の範囲内でしかなかったことを痛感したのでした。ですから、「目の当たりにする」という体験は、聞くことよりも目にすることの方が、情報量が多いという単純な話だけではなく、その場で体験しなければ、その場の雰囲気、つまり見えない氣を感じられないということになり、そこがポイントだと思うのです。 科学技術が進んで、ビジュアルな情報が多くなり、バーチャル・リアリティという仮想空間も体験できる時代になりました。話で聞く範疇をはるかに越え、何でも分かりやすくなっています。それ自体は素晴らしいことですが、それだけで何でも分かったような気にならないように注意が必要です。そこには氣が関係していて、実際に体験することとは大きく違うからです。 真氣光研修講座を何回も受講している方が、「今回、…がはじめて分かりました」と言われることがよくあります。私は、今までいろいろなことを聞いていても、マイナスの氣が邪魔をするように働いて、分からないようにさせられていることがあるのだと思うのです。研修で真氣光のエネルギーが充電されていくことと、各種行法や講義などによる何らかのきっかけで、影響を受けているマイナスの氣に意識が向くことで、スイッチがはいったように光が届き、それが消えて行くことで分かるのだと思うのです。百聞は一見にしかず、ぜひ研修講座に参加してみてください。
[追記]古いハイゲンキの下取りセールに、予想を超える反響をいただき、ありがとうございます。ハイゲンキとホワイトセラミックヘッドが欠品していますので、今回のセール対象商品すべてについて期間を3月末日まで延長させていただきます。

(中川雅仁)

今も続く武士の時代の思い

 今日から、熱海での6回目になる真氣光研修講座が始まりました。
縁あって毎年こちらの施設で開催していますが、ここから5分とかからないところに伊豆山神社がありますので、講座の中での青空教室の時間には、散策をかねて神社にお参りしています。
こちらの神社は、源頼朝がよく訪れていたということですし、先月の講座開催地は源平の戦いの場となった須磨浦公園のそばでしたから、縁ある東西の武士の魂に講座から多くの氣が届いてくれることを願うのです。
 私は、体を失うときに心がマイナスに傾くことで、大きく氣のエネルギーを失った魂をマイナスの氣と称していますが、これまで氣を送ることで、氣を受けている人の口を借りて出てくる、そのようなマイナスの氣に数多く遭遇してきました。
彼らの話からは、どのような心を持つとマイナスの氣となり、死後も苦しみ、生きている人に力を借りなければ自分だけではどうにもならなくなってしまうのか、という事がわかります。
そういうことから考えると、マイナスの氣とは言いますが、決してマイナスではなく、むしろ大事なことを教えてくれる存在なのです。
 いろいろな思いがマイナスの氣に繋がりますが、武士の魂に多いのは、切った・切られた痛さや苦しみの裏にある、卑怯なことをされたことへの怒りがあります。
私たちは、彼らが思うようなことは刀を持つ物騒な時代に特有な事と、思いがちです。
しかし、似たような思いは、現代を生きる私たちにもあり、それに気づいて変わらなければ、彼らも変われません。
例えば卑怯だと思っているのは自分の考えであって、相手にとっては仕方がなかったという事もあります。
現代でも、何が正しいかの判断基準が、一般的常識と考えるなら、それは本当に不確かなものです。
自分の思っていることと違うことを誰かがすれば、許せない・許さないと思い、なぜそうするのかと自分の考えを押しつけたくなりますし、もし相手が自分の思いに反すれば怒りが出てくるものです。
刀で他を傷つけることは無くなっても、言葉や態度で誰かを傷つけてしまうこともあります。
傷つけられれば決して忘れない・許さないとマイナスの氣の連鎖となり、何処かで切らなければ終わりません。
家庭で、職場で、地域で…、誰もが、本当の意味で心穏やかに生きられる時代は、まだまだ先のことです。
自分の辛さや苦しさを少しでも分かって欲しいと思うばかりで、周りの人の気持ちなど考えられないというときには、彼らのようなマイナスの氣の影響を受けていますから、それを意識して真氣光を受けてみてください。
自分から周りへと少しでも、プラスの氣を拡げたいものです。
(中川 雅仁)
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