アメリカに行ってきます

 私は、ニューヨーク近郊で行うセミナーのため、今日から米国出張です。
昨年はインフルエンザ騒ぎで一年抜けてしまいましたが、毎年の恒例行事になって十数年になります。
現地で二泊三日のセミナーと体験会開催ですが、今回も真氣光を通してどんな人たちとご縁ができるのか、今から楽しみです。
一週間ほど日本を留守にする関係で出発直前まで慌ただしく、成田から飛び立ってから落ち着いてこの原稿を書こうと思ったのですが、飲み物が運ばれてきたかと思うと次は夕食、終わるとまた飲み物と、機内ではとてもサービスが良いのです。
さらには、目の前のディスプレイで面白そうな映画をやっていますので、(言い訳のようですが)ついつい見ることになってしまいました。
「こんなことをしていたら原稿ができない」と、誘惑に負けないよう心を強く持ってパソコンを開けたところです。(笑)
 しかし、文明の利器の進歩は目を見張るものがあります。
三代前あたり、私のひい爺さんの時代には想像も出来なかったことでしょう。
快適な空の旅、食べ物・飲み物はおいしく、映画や音楽に溢れ、楽しんだり、飽きたら眠っていればよいのです。
ニューヨーク便は時間が掛かると言いますが、昔を思えばアッという間のことです。
 私たちは心や魂だけではなく体という一見不自由なものを持っている以上、モノや道具とは切っても切れません。
もしも原始時代のようにモノが無ければ、不自由なばかりか今や生きていくこともできないでしょう。
人類はこのモノや道具を進化させて可能性を広げてきたとも言えます。
 真氣光は、父が夢を見てハイゲンキを作ったことから始まりました。
それは魂に光のようなエネルギーを注入し、その結果その人に気づきを与え意識を変えていきます。
昔には知り得なかった、こんな機械もあるのです。
私もこれを使うことで体調不良とは無縁になったばかりか、自分の事だけではなく他の幸せを願えるような人間に変わり、実際に各地でたくさんの人に氣を送るという仕事ができるようになりました。
昔なら、山に籠もり滝に打たれるなど、特別な修行をしたりして手に入れたのかもしれません。
 私は今、アメリカの会社が造った飛行機に乗り、アメリカの会社の機械で音楽を聴きながらパソコンで原稿を作っています。
日本のエスエーエスという会社が作るハイゲンキは、そういう物とは少々違い、心や魂を変えるという機械ですが、人ができることを大きく増やすという点では同じ道具です。
利用することで、その人のもつ可能性を飛躍的に高めてくれるハイゲンキと真氣光を、たくさんのアメリカの人たちに体験していただきたいと思っています。
(中川 雅仁)
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(33) 後悔先に立たず

 私は、いろいろな人に真氣光という氣を送って、そろそろ15年 余りになります。
真氣光を受けると、その人に影響を与えてい た、体を失い魂だけになった存在が、氣を受けている人の口を借りて出てくることがあります。私はこれまでたくさんの魂に遭い気づいたこと は、「後悔」している魂がとても多いということです。
 自分には生きている資 格がないと思い自殺した人からはじまり、責任を取らされ切腹した武士や、采 配を誤り自責の念に駆られた武将まで、昔からたくさんの人達による後悔の念 というマイナスの氣が世の中に立ちこめています。
死んでしまうと何も出来な いと思うことで、余計に後悔の気持ちが強まるようです。
そして魂はどんどん エネルギーを失い、苦悩に苛まれるようになるのです。
 私たちは生きる上で 誰しも後悔はあるものです。
しかし、このような見えないエネルギーの影響を 受けると、知らないうちに後悔することが多くなり(後悔しなければならない ような事が多く発生することもある)、後悔することで余計に他のマイナスの氣を引き寄せてしまうという悪循環に陥ることもあるのです。
「後悔先に立たず」ということわざがありますが、昔の人はよく言ったものです。
このことわざを 辞典で調べてみると『物事がすんでしまってから、悔やんだり残念がってもど うにもならない意。「後悔」は文字通り、ある行為の後でその過ちなどに気づき 無念に思うことだから、前もって後悔はできない。ことわざの意味するところ は、後悔が先にできないのだから、物事をなす際には後悔の残らないようにす べきということ。古いものでは「保元物語」(巻中)に「後悔さきにたつべから ず」がある』とあります。
氣の事を知っていたのでしょうか、数百年も昔から 先人は「後悔」ということには注意を促していたのです。
 後悔することによっ て人は、魂が持つ光(エネルギー)を失います。
ことわざが教えるように、後 悔の残らないように全力を尽くすこと、反省することはあっても後悔すること なく次に何ができるのかを具体的に考え行動に移していくことが大事です。
しかしそれは難しいもので、頭では分かっていてもなかなか身につきませんから、何回も失敗しながら少しずつ自分のものになるのです。
先代は「後悔」という言葉とは無縁の人でした。
後悔に打ち勝つ精神力を、若いときから人に騙されるなど大変な苦労をしながら培っていったのでしょう。
私たちには真氣光という氣の応援があります。
後悔よりも、氣を受けながら具体的に何ができるのか考え氣づき、光の方向を見失わないようにしたいものです。
(中川 雅仁)
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氣の世界、真氣光の世界

 私は電機会社でのサラリーマン時代、小さな機械(マイクロマシン)の研究をしていました。
大きなテープレコーダーが、ポケットに入るウォークマンになって大ヒットしたように、いろいろな物がサイズを小さくすることでその価値を上げるということ、それが当たり前になりつつある時代でした。
コンピュータの部品はどんどん小さくなり、その技術を応用してロボットのようなものが、どこまで小さくできるかという限界に挑戦していたのですが、力を作り出すためのモーターやエンジンなど人の作る物は小さくなると取り出せる力が極端に小さくなるのです。
ロボットを動かそうとするとモーターが必要になるのですが、あるところまで小さくしていくと、自分の重さも支えられない、自走もできないということになってしまうのです。
 当時定期的に大学などと研究会が行われて、参考のために細菌やゾウリムシ、昆虫などのビデオも観たものです。
小さい頃は、当たり前に思っていたようなものが、実はトンデモないほどすごいもの、科学技術を突き進めて行くと、とうてい人間の手には及ばないということが歴然となるのです。
そんなときに92年、体の不調から初めての真氣光研修講座受講となり、工学博士の故関英男先生の話から、この宇宙には自然界全体を統制する神のような存在がいるのかもしれないと思ったものでした。
以前の私は、「人間は死んだら終わりだ」とか「科学で証明出来ない物は存在しない」と考えていたのに、氣の世界=スピリチュアルなことに目覚めたわけです。
目には見えない氣の世界を知ると、住む世界が広がるのです。
氣の世界とは見えないエネルギーの世界、その範疇には神社仏閣など神や仏の世界から、霊・魂、風水や占いまでいろいろなものがあります。
そういうものが存在していることに納得できるようになったわけです。
しかし、それらのもの全てが必要かと言うとそうでもありません。
 私は、人が生きる目的とは自分の置かれた状況において魂を輝かせることで、そのために重要なことは、他人・家族・先祖と自分との繋がりの中で、何か一つに集中してエネルギーを取り入れることだと思います。
そうすることでその吸収力が上がり、毎日の生活の中で大いなる力に生かされていることが分かり、考えや行動が自然に変われるということです。
私は、たまたま縁のあった、真氣光を生活に取り入れてみて、たくさんの氣づきがありましたが、それらは他のいろいろなことをやっていたのでは得られなかっただろうと思います。
私は真氣光の世界しか知りませんが、自分の体験で得られた真氣光の良さを皆さんに伝えていこうと思うのです。
(中川 雅仁)
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素直になろうとする心

 皆さんゴールデンウィークは、いかがお過ごしでしたか?
私は毎年のことながら、真氣光研修講座を開催していました。
参加していただいた受講生の皆さん、ありがとうございました。
講座中はテレビからの情報も無く世の中がどうなっていたのかよくわかりませんが、お天気に恵まれたようで、家族で出かけられた方も多かったのではないでしょうか。
 しばらく家を留守にしていましたので、妻は予約録画していたテレビ番組を楽しみにしています。
先月から新しい番組が目白押しのようですが、彼女のお好みは多岐に渡っており、バラエティ、韓国ドラマ、男女の恋愛もの・・・私にはどうにもついて行けないものもあります。
恋愛ドラマなどは、単刀直入に「好きだ」とか「結婚しよう」と素直な心を表現してしまえば直ぐに終わってしまうところが紆余曲折、途中のハラハラ・ドキドキ、一筋縄でいかないところが良いということでしょうか。
私は嫌いではありませんが、はっきりしなくて興味がもてない人もいるかもしれません。
 今月の氣配り画像には「素直に」という言葉をキーワードに選びました。
先代も素直な心とは無邪気(邪気というマイナスの氣が無い状態)につながるとよく言っておりました。素直を辞書で調べると、ありのままで飾り気のないさま、性質・態度などが穏やかでひねくれていないさま・・・とあります。
私は、マイナスの氣が周りに多くなりすぎると、その影響を受けてしまい、素直に自分の心を相手に伝えられなくなることがあります。だからといって、何でもかんでも、ありのままに吐き出せば良いというものではないでしょう。
私たちには良心というものがあり、素直になるとはそれに従って、飾ることなく、ひねくれず、ありのままに振る舞うということなのだと思います。
それが自分の魂にある本来の心であり、それに従い行動できることで、魂が成長するということなのでしょう。
 マイナスの氣が猛威を振るっているときには、素直になれない自分を発見することは難しいものです。
しかしそれを発見し、素直になろうとする方向に自分の心を向けたとき、魂が輝き始めるのだと思います。
マイナスの氣にとっては、いつまでもそこで変わらずに影響を与えていたいので、ご本人には素直になって欲しくありません。
あの手、この手で邪魔をすることもあるでしょうが、それに負けないことなのです。
恋愛ドラマではありませんが、視聴者であるマイナスの氣を楽しませてばかりはいられません。
真氣光のエネルギーは、それを受ける人の魂に浸透し周りに存在するマイナスの氣に光を与え、素直になろうとする心を応援してくれるのだと思うのです。
(中川 雅仁)
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真氣光で通じ合える心を増やそう

 昨日22 日は「良い(4)夫婦(22)の日」だとか・・・、確か11 月22 日も夫婦の日だったと思いながら調べてみると、両方存在するのですね。
語呂合わせからこのような日がつくられているのですが、良い夫婦になるために意識する日が多くなるのは結構なことです。
 昨年の夫婦の日にあわせて、既婚者を対象にしたアンケート調査があって、夫婦円満のために大切だと思うことは何ですか?との問いに ①話をする・聞く、②信頼する、③言葉にして感謝を伝える・・・との順で回答があり、コミュニケーションのあり方が大切だと考えている人が多いと分析されていました。
 我が家の場合、時々私が余計なことまで言ってしまい失敗することが多く、コミュニケーションの質を上げるのが課題というところでしょうか。
とりたてて言葉で説明せずとも心が自然に通じあうことを以心伝心と言いますが、心と心で通じ合えると便利だと思うのですが、なかなかそうはいかないようです。
 氣は目には見えないエネルギーの総称です。
人の心も氣であり、その状態により、いろいろな種類の氣を発しているということになります。
怒っているとき、悲しんでいるとき、辛いとき、楽しいとき、それぞれに発している氣のエネルギーが違うのです。
ところで氣の性質として、電波や音のように波動的な性質があると私は考えています。
伝わってくる氣が感じられるか、感じられないかは、氣を受ける受信側の人がとても大事なのです。
他人の悲しむ姿を見て自分まで悲しくなる、もらい泣きという現象がありますが、自分に他人の悲しさが分かる体験があるから、そのようなことが起こるわけです。
誰でもが悲しいと感じる共通した体験なら、受信側の用意ができているから、氣を感じられて「以心伝心」が成り立つというわけです。
 しかし、自分と周りの人との間で、同じ体験はなかなかありません。
仮に同じ体験があっても、立場が違うと同じようには思えない場合もあります。
ですから、「何も言わなくても、私の気持ちがわかるだろう」ということは、実際にはなかなかあり得ないことであり、言葉を使って分かってもらおう、分かろうとする努力は、とても重要なことになるわけです。
 ところで、研修講座を一緒に受講したご夫婦に、「お互いの気持ちが通じ合えた気がする」との感想をいただくことがよくあります。
真氣光のエネルギーを受けることで、お互いの間を壁のように邪魔していたマイナスの氣が消えて、受講中特に言葉を交わしたわけではないのにお互いの氣を感じやすくなったのだと思います。
真氣光は言葉に加え、心と心で通じ合える機会を増やしてくれるのかもしれません。
(中川 雅仁)
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(11) 魂という氣のからだ

 昨日から足柄での真氣光研修講座が始まりました。
今回は、25歳から82歳までの21名が地元神奈川を中心に集まってくださいました。
昭和一桁生まれの方が6名、平均年齢61歳と比較的年齢も上の方が多いのですが、老若男女入り混じり、皆さん真氣光を受けてリフレッシュされています。
 研修講座初日、私は先代会長の夢の話を説明する際、94年に収録した先代自らが語っているビデオを観てもらっています。
そしてここで登場する白髭の老人が先代の夢枕に立たなければ、真氣光は始まっておりません。
先代は夢で何回かに渡り、この老人から重要なことを教わっています。
私は先代の夢でさえも見ないほどですから、そういう意味では夢枕に立つ人が居なくて少々寂しい気もしております。
 いろいろな人の話を聞いていると、時々亡くなったお母さんが夢枕に立ってとか、お爺さんが出てきたとか、そんな話を聞くことがあります。
夢枕に立つ=「神仏や故人などが夢の中に現れて、ある物事を告げる」という言葉があるくらいですから、昔からそのような経験をしている人が居たということでしょう。
科学の世界では、この現象をどれだけ説明できるのかはわかりませんが、私は何か明らかに神仏や故人の意思が働いていて、それを夢の中で実際に感じているということで、これは偶然とか、迷信などという言葉では片付けられないと思っています。
 私たちは目に見える体の他に、目には見えない心そして魂というもの、つまり大きく分けてこの三つの要素から成り立っているのです。
目に見えない魂というエネルギー体(氣)に心や意識というものがあるから、体を失っても「あの子が心配だ」とか「何とか知らせたい」などと思うことで、生きている人の夢の中に出てこられるのでしょう。
 理論的には説明できなくても、何か良くないことが起こりそうだと感じる「虫の知らせ」という言葉もあります。
私たちの周りには、いろいろな心を持った目に見えないエネルギーだけの存在が氣というかたちで存在しています。
そしてそれらが私たちに、良いこと、一見悪いことなど、何らかの影響を与えているのだと思うのです。
 宇宙からの真氣光のエネルギーを受けることで、周りに存在する体を持たない魂にも光を与えることができます。
それは、氣を受ける人の心を安らかにするばかりではなく、周りにある魂の心も安らかにするのです。
そしてそれらの目に見えない存在のお蔭で、良い閃きや氣づきが多く得られることになるのです。
さらにはそのお蔭で、実際には夢枕に立つ人がいなくても、良い方向に導いてくれることでしょう。
(中川 雅仁)
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(32)早起きは三文の得

 私は、月あるいは週の間で、大きな生活のリズムがあります。
毎月一回やっている真氣光研修講座の間は、朝6時前に起きるものですから、その後数日は朝早く起きる生活が続きます。
そして週末は地方に出張しますので、移動して夜遅くホテルに入ることから夜遅く寝ることになってしまい少々寝不足気味になります。
朝7時から15分~20分ほど宇宙から真氣光を受け世界に向けて送っている時間がありますから、大きくリズムが狂うことはないのですが・・・。
私は、大学受験に一度失敗して浪人していますが、実はこのときの経験が今とても生きているようです。
一年間予備校に通っている間、家を出て新聞店の2階に住み込み、新聞配達をしながら生活していたのですが、当時毎日が4時起きでした。
体験することには、本当に無駄はありませんね。
夜は弱いけれど朝にはめっぽう強い体質に変わってしまったようです。
今でも朝の方が頭は動くようなので、夜は逆になるべく動かさないようにしています。
あまり考えすぎると興奮状態?になるのか、寝付きにくくなるからです。(笑)
 ことわざにも「早起きは三文の得」とあります。
辞典を調べてみると『早起きをすれば何かしら得があり、健康にも良いということ。電気の無い時代では、社会全体が夜明けとともに労働を開始する朝型だった。早起きは自然のリズム、体のリズムにもかなっており、仕事の効率もよくなり勤勉にもつながるので重要な規範であった。』とあります。
 先代も、自分が朝早かったためか早起きを奨励していたようなところがあり、新聞配達がいいという事も、私はよく聞かされていました。
研修講座では、開講当初から朝6時に起床して、6時半過ぎには朝の呼吸法を始めます。
先代の言葉を借りれば『夜は「あの世」と「この世」が近くなるから、早めに寝て霊的な影響を受けないようにした方が良い』ということだそうです。
 人間も昼型の動物で、それが「夜でも可能」になってきたのは電気が普及してきたここ数十年の話、遺伝子にはやはり「日が昇れば起き、日が沈めば休む」のが基本となる情報が書き込まれているから、早起きは利に叶っているということでしょう。
しかし、今の時代、世の中が円滑に回るように、夜どうしてもしなければならない大事な仕事もあります。
そのお蔭で私たちは幸せに暮らしていけるわけです。
またいろいろな事情で、夜、なかなか寝られない人もいることでしょう。
昼型、夜型、どのような人にも、宇宙からの真氣光のエネルギーが力を貸してくれるのだと思うのです。
(中川 雅仁)
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氣力も真氣光が後押しする

 東京は、お花見の季節になりました。
あいにく今日は天気が悪いのですが、会社の近くの公園にも桜の木があり、綺麗な花をつけておりました。
今月の氣配り画像は、先日撮った桜の写真です。
進学、就職のシーズンですが、新しい生活に胸躍らせている人、家族が新生活を始める人も多いのではないでしょうか。
真新しいスーツに身を包んだ新入社員らしき若者が先輩と一緒にカバンを持って会社周りをしており、それを眺めながら私も、25年以上昔の新入社員時代を思い出しておりました。
 私は学生時代の成績から判断して優秀なタイプではなかったので、「体力で勝負」と自負する新入社員でした。
しかし配属先は忙しいところだったので残業、残業の毎日で、3年程そんな生活をしていたら、だんだん疲れが溜まってきたのか体力が低下し、さらに数年で気力も落ちてしまいました。
私の上司、当時はまだ課長でしたが、今思うと気力の人でした。
問題山積みのところを、どんどん突き進むというタイプで、随分いろいろな事を教えてもらいました。
今、氣のことを仕事にしているのですから、当時教わった気力も、必要なことだったのです。
 気力とは、辞書で調べると『困難や障害に負けずに物事をやり通す強い精神力。気持ちの張り、気合い。』とあります。
つまり心が持っている見えないエネルギーですから、氣の一種であり、氣力とも言えるでしょう。
 5月号の月刊ハイゲンキ誌の対談ページには、その氣力で突き進んでいるアートディレクター水谷孝次氏に登場いただきました。
北京オリンピックの開会式に、ご自分の笑顔の傘の企画を、中国政府がなかなか許可を出さないところ、氣力で実現させた経験をお持ちの方です。
 また、先代も氣力の人だったように思います。
どんなに逆境に陥っても持ち前の精神力で乗り越えて、真氣光の基礎を作りあげました。
 私は、自分の性格を分析すると、氣力で・・・と言うよりは、すぐ気弱になりがちです。
洗心の指標の「いつも心に持つべき感情」(強く、明るく、正しく、我を折り・・・・)一番目にある「強く」が、いつもテーマです。
 しかし、真氣光をやることで、“常に”というわけには行きませんが、どうしても必要な“ここぞ”という時には、何とか心を強く持つことができて、ピンチも切り抜けられているような気がします。
これから新生活を始められる方も、そうでない方も、人生にはいろいろな困難な事があるかと思います。
真氣光を利用して、ピンチに陥った時にも氣力で乗り切ってほしいと思います。
(中川 雅仁)
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思いやりで良い氣を

 愛知での真氣光研修講座では50 名ほどの方と、貴重な時間を共有できました。
参加者の皆さん、さらには研修中の遠隔真氣光で参加いただいた方、誠にありがとうございました。
おかげさまで、‘90年3 月17 日に始まった研修講座も20 周年を迎えることが出来ました。
偶然にも3泊4日の講座最終日22 日は、先代の74 回目の誕生日でした。
氣は心、良い氣を出せる人を養成したいと始めた研修講座ですが、この20年間にのべ一万四千人の方に受講していただき、先代もあちらの世界から喜んでくれていることと思います。
 ところで愛知の研修では施設に温泉が付いておりました。
私は研修講座を終えて出張したのですが、そこのホテルにも温泉があったものですから、先週からすっかり温泉三昧です。
でも仕事ですから、せっかくの温泉ものんびりゆっくりというわけには行かず、やはり私の場合は温泉効果よりも毎日の真氣光の効果の方が、リラックスにはずっと効いているような気がしています。
出張先のホテルでの温泉では、たくさんの人が入るからでしょうか、桶などが散乱しておりました。
「後に入る人のことを考えると片付けておくのはマナーでしょう」と、つい咎めの心が沸いてしまいます。
しかし、私自身よく考えると、‘92 年に初めて研修講座を受講して他の人の気持ちを思いやることの大切さを学ばせてもらったようなものですから、人のことをとやかく言えるような立場にもないと気がつきました。
まだまだ毎日たくさんの気がつかないマナー違反をしているでしょうし、他の人への配慮が足りない言葉使いや振る舞い・行動をしていることに、あらためて反省です。
 ところで数年前から「江戸しぐさ」が、テレビや新聞で話題に上るようになりました。
雨の日に互いの傘を外側に傾げ濡れないようにすれ違う「傘かしげ」、腰をこぶし分浮かせて席を詰め空席をつくる「こぶし腰浮かせ」、人様の足を踏んでしまったら素直に謝り、踏まれた方もこちらこそと言う「うかつあやまり」等々・・・当時人口百万人の大都市江戸の町方のリーダー達が互いに気持ちよく共生するために築き上げた人付き合いの心構えを形にしたと言われています。
他の人を思いやるという心くばりの深さには、終わりがないように思います。
その心が周りの人、そして自分自身を幸せにする、つまり真氣光の氣のエネルギーとは違いますが、良い氣をお分けすることで良い氣が戻ってくるという氣の原理は同じです。
現代の方が進んでいる点もありますから、昔が全て良いということではないでしょう。
だからこそ私達それぞれに他を思いやる、さらに深い氣づきが必要な時代なのだと思うのです。
(中川 雅仁)
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(10)先祖供養について考える

お彼岸の時期です。
今日から真氣光研修講座が始まり、研修中の四日間集中遠隔真氣光にたくさんのお申し込みがありました。
皆さんお彼岸ということも意識されてのことだと思います。
 私たちは、お彼岸やお盆など御先祖のことを思い、お墓参りや法事・法要を行う習慣があります。
今ではこの習慣もお墓が遠いから、忙しいからなどの理由で、特に都会では行われなくなって来ているようです。
またやっている家でも、昔からやっているから、ただ習慣として等、あまり意識されなくなっているかもしれません。
未だ科学では捉えられませんが、既に亡くなっている私たちの御先祖は、姿形は見えないけれど魂というエネルギー体として心や気持を持って確かに存在しているのです。
そして、既に亡くなっている人と生きている人との間には、エネルギー的な関係があり(私は氣の交流と呼んでいます)、魂の発する光のようなエネルギーを送ったり受けたりしているのです。
 お坊さんがお経を唱えてくれることで、何らかのエネルギーが魂だけの存在になった方々に届きます。
そればかりではなく、例えば「亡くなったお爺ちゃんには、こんな事をしていただいた」と感謝の心を持てたり、親戚や家族が皆仲良くできていたり、それらによって生きている人から発せられる光のようなエネルギーが亡くなっている人の魂にも届き、御先祖は安らかな気持が多くなる…、つまり先祖供養になるのです。
 私たちにご縁のある体を持たない魂は、たくさん存在します。直接の御先祖ではなくても、御先祖が親しくしていたなどの間接的なご縁も含めれば、相当な数に上るでしょう。
ですから、誰かに親切にして差し上げるという行為も、もしかするとその方の御先祖と自分の御先祖は親しかったかもしれず、「親切」によってどちらの御先祖も喜んでおられるということになり、それも先祖供養に繋がることがあります。
また生きている人が、困難なことにも負けずに強く明るく前向きに生きていることが、体を失い嘆き苦しんでいる魂に希望を与えることもあり、それも先祖供養と言えるかもしれません。
 また真氣光という宇宙エネルギーは、魂に浸透するエネルギーです。
特に氣中継器を使うことによって、体を通して使う人の魂に効率良く浸透し、それが周りの魂にもエネルギーを与えることになります。
ですから、それだけでも広い意味での先祖供養と言えるでしょう。
さらに、ハイゲンキのヘッドを体に当てながら氣を送りたい人のことを思うことでエネルギーは届きやすくなります。
それが遠隔で真氣光を送るということで、この氣の受け方はお墓参りに行けない方にもお薦めしたいものです。
(中川 雅仁)
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