みんなが尊い存在です

 空港や駅などで、夏休み旅行の家族連れを多く目にする季節になりました。
子供達にとっては嬉しく楽しい、大人にとっては夏バテも手伝って少々疲れ気味になる夏休みという感じでしょうか。
子供向けにテレビ番組では恐い話で涼しくなろうという企画や、納涼祭りではおばけ屋敷があったりと、霊とか魂といったことがすごく身近な話題になる季節でもあるようです。
 昔から、おばけは必ず「うらめしや」と言って出てくるものと決まっていますが、海外のおばけは何と言うのか、最近私にとっては興味があるところです。
何故この決まり文句なのでしょう。
辞典で調べてみると「うらめしいなあ」が語源らしいのですが、生きている時に誰かに何かをされて「恨む」あまりに成仏できない魂が多かったのでしょうか。
真氣光を受けていると、思ってもみなかった自分とは明らかに別人格の人の気持ちが湧き上がってきたり、イメージできたり、さらにはその人の言葉を自分の口を使って伝えたりすることがあります。
私は真氣光を送っていて、そんな現象を目の当たりしてきました。
たいていの場合それは、その人に影響を与えていた魂です。
そういう意味で、私はこれまで、たくさんの既に体を失った魂というものに遭遇してきました。
 中には恨めしいという魂もいましたが、その多くは苦しい、辛いという魂達でした。
魂のエネルギーが下がり体を失うと、生きている人に力を借りないと、自分の力ではどうすることもできないという状態になるのです。
中には、辛くも苦しくも無いという言うけれど、出口が見つからずに、ただ彷徨うだけの魂も居ました。
話を聞いていると、それも辛いものです。恨めしいばかりではなく、怒りや心配、他者への咎めなどで魂のエネルギーを下げてしまい、辛く苦しい状態の魂達にも真氣光のエネルギーが浸透すると、口を揃えて「光が見えて来た」と言い、次第に辛さ苦しさから解放され、光の世界から私たちを「見守る」と言ってくれる存在に変わります。
 原爆の日、終戦の日、お盆…この8月には生きている私たちが、既に亡くなっている人に向かって黙祷したり手を合わせ意識することが多い月です。
それは氣が届きやすいということでもありますが、反対にあの世の魂から見れば、普段よりは意識してもらえることで、あちらとこちらが近くなるということでもあります。
体が無くなっても「人の思い」は魂というかたちで残ります。
体は無くても心が存在し続けるということ、ある期間に恨みを持っていたとしても、どんな人も魂も尊い「命」であり「人間」です。
すべての命が光り輝くよう、真氣光を送っていきたいと思います。
(中川 雅仁)
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