(49) 喉元過ぎれば熱さ忘れる

 先週、たこ焼きを一つ、味見にもらって口に入れたら、これが熱々の代物で、口から出すわけにもいかず、ハフハフ言いながら飲み込んでしまいました。
「喉元過ぎれば熱さ忘れる」とは、江戸時代のことわざだそうですが、氣の観点から考えても良く言ったものです。
私の場合は、食道に入ってしまえば何とかなり、結局、味はよくわかりませんでした。
 ところで私は、毎月土曜日か日曜日の午後半日を使って、どこかのセンターから全国に向け、講義をネット配信し遠隔で氣を送る、真氣光レッスンと称する催しをしています。
 先日も日曜日に大阪センターでありましたが、その時に、ある女性が私の「喉元過ぎると…」を思い出させてくれるような質問をしてくれました。
氣のことを知るには、良い教材になりましたので、そんな話をしたいと思います。
彼女の話を要約すると『足の踏み場もないぐらい散らかっている部屋に、エアコンの修理に来てもらわなければならなくなり、恥ずかしい思いをしたのだが、その後に、また会社の人に入ってもらわなければならなくなって二度までも恥ずかしい思いをした。
しかし、「喉元過ぎれば…」で、なかなか掃除ができない』と、こんなことでした。
私は、「熱さ忘れる」のも、「その人に忘れさせようと働くマイナスの氣の影響があるかもしれません」と、回答したのです。
 私たちは、肝に銘じなければならないことでさえも、喉元過ぎれば忘れてしまうことがあります。
その人が良い方向に変わってしまうと、波長が合わなくなり出ていかなければならないので、そのことを分かっているマイナスの氣が、一生懸命邪魔をするように働いて、忘れさせようとするのです。
「二度までも恥ずかしい思いをしているのにも関わらず…」とのことでしたが、それはプラスの氣が「掃除をしないとマイナスの氣の影響をもっと受けてしまうよ」と、言っているのかもしれません。
マイナスの氣の影響を強く受けると、何回も痛い目にあうのに、なかなか変われないようになってしまいます。
また逆に、恨みを持ったマイナスの氣の影響を受けると、人に言われた悪いことが耳につく等、嫌な事、大変だったこと、してもらえなかったこと等が、なかなか忘れられなくなってしまいます。
 ですから、忘れてしまうのも、忘れられないのも、マイナスの氣の影響が考えられますので、それを意識して、まず真氣光を受けてみることです。
そして、一見悪いことから体験して学んだことは頭の中にしっかり残し、自分を変えようと努力するとともに、マイナスの氣を引き寄せるような感情は、なるべく頭に残さないようにすることがポイントなのです。
(中川 雅仁)
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(48)口は災いのもと(幸いのもと?)

 先日3/22は先代の誕生日でした。
私は、すっかりそのことを忘れていたのですが、岡谷で会長セッションがあり、そこに集まってくださっていた会員の皆さんに教えて貰って気がついたのです。
その日は、晴れた良い天気だったのですが、前日に雪が降ったそうで、山が僅かに白く輝いて、とても綺麗でした。
よく先代の命日に雪が降ったりするものですから「先代が雪を降らせたのかな」と、会員の皆さんと話をしたのです。
生きていれば81歳、どんな人になっていたのでしょう?若い頃から白髪でしたので、全く変わらないかもしれないし、ちょっと想像ができません。
いつもニコニコ笑っていて、話を聞いていると、こっちが楽しくなってくる、そんな人ということは変わらないでしょう。
 先代より2歳下、弟にあたる叔父から、先代の小さい頃の話を聞いたことがありました。
先代は、ガキ大将で喧嘩も強く、特に弱い者イジメが許せなかったようで、正しくないということには徹底的に立ち向かう、それを祖父も認めていたようです。
「人にされて嫌なことは絶対に人にしない、人の喜ぶ顔を見るのが嬉しい」私には、そんな少年時代が想像されました。
先代の話は、いつも人をワクワク、楽しくさせるものでした。
逆に先代が、不平、不満、愚痴、陰口、悪口、…そんな話をしているのを聞いたことがありません。
 「口は災いのもと」ということわざがあります。
口から不用意に発した言葉や余計なひとことが災い(不幸な出来事、不運など)をまねく場合が多いという意味で、言葉遣いは慎重にせよということわざです。
もっとも簡単にマイナスの氣を集める方法だと、昔から経験的に知られていたのでしょう。
口から出る言葉は、私たちの周りに存在するマイナスやプラスの氣も聞いています。
不平不満や愚痴、自分が言われて嫌なこと、などマイナスの言葉は、似たような気持ちを持つマイナスの氣を集めてしまいます。
一般的に、このことわざは、「慎重にせよ」ということから、「沈黙は金」つまり「多くを語るな」という、いましめに向かう傾向があります。
しかし、先代のように良いことを口にしていくことは、プラスの氣を集めるとても良い方法なのです。
 また、強くマイナスの氣の影響を受けていると、口から出てくる言葉が、マイナスの言葉になってしまいます。
それが、さらに周りからマイナスの氣を集めるのです。
自分自身の口から出るマイナスの言葉に気がついて、少しずつでも減らすよう努力したいものです。
せっかくプラスの氣である真氣光を受けていても、自らマイナスの氣を集めていては、せっかくの良い氣の効果が現れにくくなるからです。
(中川 雅仁)
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(47)好事魔多し

 私は、いろいろな事をすぐに忘れてしまうので、できるだけメモをとるようにしています。
しかし、笑い事のようですが、なぜ、そこにこんな言葉がメモされているのか、わからないこともあります。
今日は、そんな私のメモにあった言葉、ひらがなで「こうじまおおし」です。
多分、何かのきっかけで耳にして、氣の観点からお話ししたいと思ったのでしょう。
「好事魔多し」この言葉を、ことわざ辞典を調べてみると「よいことには何かと邪魔が入ったり妨げる者が現れたりするものだという意。好事は良いこと。魔は邪悪なことで、ここでは邪魔。…」とあります。
 このことわざは、好調の時には身を律しなさいという教えとも言えます。
よいことがあったと有頂天になっていると、注意を怠り見落とすことが多くなったりすることがあるでしょうし、自分の力を過信しすぎて客観的に自分を見られなくなることで無理をしすぎたり、蔭で支えてくれている人たちへの感謝を忘れてしまったり、周りの人たちの気持ちを考えられなくなるなどということもあります。
私は、この言葉を聞いた時に直ぐ、「魔=邪魔が入ったり、妨げる者が現れたり」とは、まさしくマイナスの氣のことだと思ったのです。
これは見えない光つまり氣のエネルギーを失ってしまった魂のことですが、私たちは知らないうちに影響を受けていることがあります。
 よいことがあってウキウキしているときなどは、魂に光が増えます。
部屋の光が増え明るくなった分だけ、汚れた部分が鮮明になるように、存在していたマイナスの氣が、浮き上がってくるということがあるものです。
一つには、以前その人が辛い体験をしてマイナスの気持ちになったときに、波長が合って来ていたマイナスの氣です。
そのようなマイナスの氣は、「自分が辛いから、その人も辛いままでずっといてほしい」「自分の辛い気持ちをいつまでも分かって欲しい」「いつまでもそこに居て、この気持ちを分かち合いたい」というような気持ちをもっています。
その人に、よいことがあると、そこには居られなくなるから困るのです。
ですから一生懸命に足を引っ張ろうとします。
もう一つは、その人を恨んでいるマイナスの氣です。
正確には、その人の先祖に恨みを持っているのですが、対象はその人も含めて一族全員で、よいことがあると悪い方に行くように力を振り絞ります。
 このようなマイナスの氣の影響を受けていると、自分の魂の光だけでは、なかなか好転し難いので、外から光をとり入れる真氣光がとても有効です。
ですからまずは、よいことがあるように真氣光を受けるのですが、調子がよいときも真氣光を忘れるわけにはいかないのです。
(中川 雅仁)
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(46) 備えあれば憂いなし

 先週私は、「阿蘇での研修が始まります」と書きましたが、阿蘇山が噴火したのは、その半日余り後、夜半過ぎでした。
窓に何かがバチバチと当たる音で目が覚めたのですが、すぐに「阿蘇山が噴火したので会議室に集まって下さい」と全館放送があったのです。
私たちが研修をやっている会場が解放されていて、そこに70人程の人が集められ、宿の支配人から説明を受けたのでした。
朝になってみないと、どんな状況か分からないということで、皆さんその場で眠れぬ夜を明かしました。
朝、外は火山灰が1cmほど積もっていましたが、噴火はその時の一回のみで、結局私たちは、お昼まで予定通り講座を継続し、午後には熊本市内に宿が取れたので移動することができました。
 ちょうど噴火前、夜の私の講義では、「洗心」の話をしていたのです。
真氣光研修講座行持集「洗心の指標」に掲げられている「心からなくすべき感情」の中に「心配心」というのがあります。
その中でも、取り越し苦労による心配、これは考えても仕方がない、どうしようもないことなのに頭の中で考え心配してしまうというもので、「考えている間ずっとマイナスの氣と波長が合ってしまい、その影響を強く受けてしまいますよ」と話したところだったのです。
先代は「何が起こるかわからないのが人生。
取り越し苦労をするのではなく、一見マイナスな出来事に遭遇した時、冷静かつ瞬時に適切な対応をとる訓練が必要だ。
だから研修講座のスケジュールは前もって公表しない」と、よく言っておりました。
当時、私たちスタッフも、先代の思いつきによる咄嗟のスケジュール変更に、すぐに対応しなければならい事が幾度もあり、これも今考えると訓練を受けていたということだったのです。
 今回の研修ですが、ありがたいことに私たちは、その後も熊本センターに会場を移し、無事に研修講座の全日程を終えることができました。
これも参加者の皆さん全員の「洗心」を見事に実践した素晴らしい対応と、宿のスタッフの皆さん、さらには御先祖をはじめとするプラスの氣という見えない存在のおかげだったのです。
 咄嗟の時に最善の方法をとるには、日頃からモノの備えもありますが、生活の中で良くない出来事に直面した時、どうすればよいかという対策を、慌てることなく順序立てて頭でしっかりと考え対応する練習が大切です。
そして、その実力がついてくれば、心配する必要もまたなくなるでしょう。
私も、まだまだ学びが必要です。
しっかりと準備をすることと、心配してもどうにもならないことは天にお任せすること、この両方を万全にする上でも、毎日の真氣光のエネルギーの充電は欠かせないのです。
(中川 雅仁)
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(45)失敗は成功の基

 先日、慣れない仕事をしなければならなくなり、自分ではよく確かめてやったつもりだったのですが大失敗をしてしまいました。
私だけのことならまだ良いのですが、周りの人にとても迷惑をかけることでしたから、私なりに“大反省”をしました。
「失敗は成功の基」ということわざを思い起こし、失敗に至った一番のポイントを再点検し、次は失敗しないようにやるしかないと、自分に言い聞かせたのでした。
私は、特に学生時代には失敗するのが本当に嫌でした。
ですから失敗しそうなものは、最初からやらないと心に決めていたような気がします。
ところが、サラリーマン時代にやらされた仕事が、失敗だった製品を徹底的に調べ対策することだったので、段々と性格も変わってきたように思います。
そして、特に氣のことを知ってからは、このことわざの良いところがとても実感出来たのです。
 ことわざ辞典によると『物事をしくじっても、その原因を突き止め、同じ過ちを繰り返さなければ成功への導きとなること。
英語の Failure teaches success.からの翻訳と考えられる。
明治時代のことわざ集では「失敗は成功の良師なり」が早いもののようだ。
戦前からのことわざ集にはなかなか収録されず、一般化するのは昭和40年代以降のようだ』とあります。
ということは昔の日本人は知らなかったことわざでしょうか?確かに、失敗すれば「死んでお詫びする」という武士も多かったことでしょう。
私が、氣を送っていると、氣を受ける人から、戦国時代に生きていたと思われる武士が出てくることがあり、その中には、「自分の采配ミスで皆をたいへんな目に遭わせてしまった」と言って、悔やむ気持ちからいつまでも抜けられない人もいます。
そこまで自分を追い詰めて事に当たるということ、駄目であれば死を潔しとする文化は良い所もあるのですが、魂の成長という氣の観点から考えると、効率の良いものとは言えません。
 ところで、失敗を「成功の基」とするには「失敗の原因を突き止める」ということ、これがとても大事です。
なぜなら、突き止めようと努力し、隙を作らないようにしていくことは、その人を失敗させたいと思っているマイナスの氣を浄化し、その人の魂を輝かせ大きく成長させるからです。
 このように考えると、失敗からなかなか立ち直れない、失敗の原因が突き止められないということの蔭には、過去の失敗にまだまだ囚われているマイナスの氣の影響があるかもしれません。
そのような気持ちが強い人は、それを意識して真氣光を受けるとともに、将来の成功に繋がるよう、より一層努力していただきたいと思います。
(中川 雅仁)
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(44)過ぎたるはなお及ばざるが如し

 東京では気候の良い季節になってきました。
私は、少々遠い所まで、日頃の運動不足が解消されるのではと、思い切って歩いてみました。
その日はすっかり疲れてしまったばかりか、数日間は筋肉痛で、急なやり過ぎは疲労の元になることを痛感しました。
私は思いついたら、ついつい「過ぎること」が多くなりがちです。
これに似たことは良く言われます。
適度な酒は百薬の長とも言い、病気だけではなく事故や事件を含めた全死亡率で最も低い死亡率になるそうですが、飲み過ぎると、肝臓疾患など病気の原因になります。
「過ぎたるはなお及ばざるが如し」何事も程ほどが肝心で、やり過ぎることは、やり足りないことと同じように良いこととは言えない。
良いと言われることでも、やり過ぎは害になるということ。
これは『論語・先進』にある、孔子が二人の門人を比較して言った言葉に基づくそうです。
 しかしこの諺、真氣光においては、当てはまらないようです。
この強いプラスの氣を受け続けることにより、魂はどんどん成長し、人として生きるための大切なことに気づけ、やがて肉体を失う時には、その強い光の源へと帰って行けるからです。
では、どのような取り入れ方、続け方が良いのでしょうか?いくら良いことだと言っても、何もしないで氣を受けても、それこそ諺通りの「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」のようになってしまうかもしれません。
 まず生活の中に取り入れて、一つの特別なことではなく、生活の一部にしてしまうことです。
朝起きたら顔を洗い、食事をして、歯を磨くように、ストレスなく取り入れていくと良いでしょう。
時間は、短くても良いのです。
一瞬でも集中することが出来るようになれば、氣はとてもよく取り入れることができます。
その時のポイントは、できるだけ中継量の多いものを使うと上手く行くでしょう。
そしてたまには、集中的に氣を受ける時間を作って、よく自分の氣の状態を観てみることです。
それを繰り返すことで、必要な氣づきが生まれ、ますます魂が光り輝くことになるのです。
 家では、なかなか集中的に氣を受けられないという方は、真氣光研修講座を受講するのも良いですし、セミナーやセッション、センターや体験会を利用するのも良いでしょう。
センターや体験会では、中継量の多いヘッド、最近発売したミニローラーヘッドやポイントヘッドをはじめとしてハイゲンキミニ・ハンドルタイプ、氣プレートマットなどいろいろな氣グッズも用意しておりますので、ぜひお試しいただければと思います。
(中川 雅仁)
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(43) 三日坊主

 お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、今週号のこのニュースは799号、来週が800号です。
創刊号が1997年の1月6日ですから、「もうそんなに?」と、いう感じです。
毎週書くということが、最初の頃は何を書いたらよいかわからず、私にとっては少々プレッシャーにもなっていました。
しかし書くことで、いろいろなことに意識を向けられ、自分自身の考えが深まり、とても勉強になりました。
もともと私は、「三日坊主」の人間で、なかなか何かを続けるということができませんでした。
このニュースの場合は、読んでいただける人が居るから続けられているということであり、そういう意味では下手な私の話にお付き合いいただいている読者の皆様に本当に感謝したいと思います。
 「三日坊主」という言葉、ことわざ事典にありました。
「飽きっぽく何をやっても長続きしないこと。出家して仏門に入ってみたものの、わずか三日でやめて還俗してしまうということから。熟語としてとらえてあまり諺としての意識はないようだが江戸前期の俳諧に用いられている」との事。
 良いと思ったことは、その人自身が変わっていけるもの、氣のエネルギーが増えていくもの、つまり魂が輝く方向に進むものです。
続ければ良いということは頭の中ではわかっているのですが、マイナスの氣の影響を受けると、なかなか続けられなくなるのです。
どんな人もマイナスの氣の影響を受けますが、マイナスの氣とは、変わりたくない、変わろうという気持ちになかなかなれない意識を持ったエネルギーです。
それにより知らないうちに「良い事だから続けよう」という前向きな気持ちが薄れたり、何か理由を付けてやめようとしたりしてしまいます。
しかし、そのマイナスの氣に打ち勝って続けられると氣のエネルギーが飛躍的に増えるのです。
 ですから良いと思ったことは、一度きりではなく継続するということが大切なことです。
そして継続していると、続けることが困難な時が出てきますが、そこでやめてしまわず、とにかく続けることです。
その続けようと努力することで何かに気づき、それによってさらに成長できるのです。
つまり良い事を続けるというメリットと、続けることを努力して得られるメリットと、二つのメリットが得られることになるのです。
小さな事でもいいのです。
一度お休みしても、また始めるということでも良いのです。
何か良いと思うことを続け、その努力をしようという気持ちが大切です。
そうすると、知らず知らずのうちに自分が何かよい方向に変わっていることに気づくことでしょう。
(中川 雅仁)
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(42) 時は金なり

 やっと秋らしい季節になってきたと思っていたところ、昨日入った店ではもう「忘年会予約受付中」の張り紙がありました。
よく考えれば10月最終週ですから当然です。
今年も残り2ヶ月あまりということですね。
「時間が早い!」と思うのは私だけでしょうか。
小さい頃は、母に「時間を大切にしなさい」と言われても、時間を持て余し気味で全くピンと来なかった私ですが、今は地球の自転・公転、さらにはこの世の時間軸のピッチが上がってしまっているのかと思うほどです。
時間の早さについて意見を聞きたいと思い妻に聞いてみると「時は金なり」と言うだけで、そんな私の話には耳も傾けず、食事の支度に忙しい様子です。
そういう時は、あまり近寄らないほうが身のためです。
 ところで「時は金なり」を事典で調べてみると「時間を有効に使って物事に励めば成功するということ。時間は貴重なものだから無駄に過ごしてはならないという戒め。英語のtime is moneyの翻訳。1900年を過ぎてからは、日本のことわざとしても伝承されていた」とあります。
 時間の使い方を大切にすることは、氣の観点からも重要です。
私たちの誰もが持っている生命エネルギーつまり氣には心があり、それは魂とも言われます。
それは肉体の有り無しに関わらず存在しますから、死を迎え肉体が消滅しても魂は存在し続けます。
ですから魂は長い時間を掛けて、そのエネルギーを増やす方向に成長しながら、この宇宙に存在しているということなのです。
しかし、この魂の成長の度合いは一様ではなく、制約のある体を持って居る期間に、その成長が著しく増える可能性があるのです。
魂は永遠ですが魂を成長させる時間は、それに比べるとあまりにも短いといえるわけです。
だからその時間を大切に使わなければなりません。
 それには今、自分にとって何が大切なのか、何が必要なのかをしっかりと考え、わかっていることが大切です。
例えば家族と一緒に過ごすことなのか、勉強することなのか、スポーツに打ち込むことなのか、仕事なのか、友人と一緒に何かを学ぶことなのか、体をしっかり休めて病を治すことなのか、それを軸にした生活を心掛けることです。
決してあれもこれもと欲張ってもいけないし、逆にただ何となくダラダラ過ごしたり、ましてや分かっていてマイナスの氣の影響を受けるようなことに時を費やしてもいけないのです。
宇宙からの真氣光というエネルギーは、より一層、私たちの「時」を大切にする生活を応援してくれているのです。
(中川 雅仁)
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(41) 案ずるより産むがやすい

 「案ずるより産むがやすい」という、物事は初めに心配したより実際に行ってみると案外簡単だという意味のことわざがあります。
私が会長職に就いてから、何度もこのことわざの言わんとしていることを体験させられてきました。
その一つに、月刊ハイゲンキ誌で「氣グッズ開発秘話」という連載を始めましたが、先代の時代からある氣グッズの改良、あるいは全く新しい氣グッズの開発があります。
特に2000年の終わりにハイゲンキの照射ヘッドに付けるパワーユニットを作った時には、考えたように効果がでるのか、皆さんに理解してもらえるのか等々、最初はあれこれ考えてばかりおりました。
しかし結果は、実際に作ってみると難無くできてしまい、会員の皆さんにもすぐに理解してもらえ、爆発的な反響となりました。
後になって考えると、氣グッズばかりではなく、これまでいろいろなところで思ったよりもスムーズに事が進み、見えない力の応援を感じて来たのです。
 このことわざですが、辞典で調べると『「案ずる」はあれこれ考え、心配すること。「産む」は出産。いくら医学が進歩しても、お産が女の一大事であることに変わりはない。まして昔は「産はあの世この世の境」ということわざもあるように、生死の境のものだった。だから出産を控えていれば、本人も周りもあれこれと心配の種は尽きない。ところが、たいていは事前の心配が嘘だったかのように済んでしまうものである。だから取り越し苦労をするなと慰めたり、事が済んだ後の述懐や、決断を促す言葉ともなる。江戸時代にはさまざまなジャンルで常用されていた。』とあります。
私たちにはどんな人にも、守ろうと働いてくれている見えない存在があり、私はそれをプラスの氣と呼んでいます。
私たちが生きていられるのは、そのような存在が力を貸してくれている結果なのだと思うのです。
このことわざも、それらが後押ししているから大丈夫だという教えも含まれているのでしょう。
 ところがこれとは反対に、邪魔をするように働くマイナスの氣というものがあって、時にはそれらがたくさん同調して強いものに変わると、プラスの氣にもどうすることも出来なくなることがあるのです。
慌てぬように適度な対応策を考えておくのは良いでしょうが、どうなるかわからないものをただ心配するだけでは、不安にさせ仲間を集めようとするマイナスの氣の思う壺にはまるというものです。
真氣光のエネルギーも強力なプラスの氣です。
不安になりそうな時には、大きな力を信じ、真氣光をしっかり受けて、乗り切って欲しいと思います。
(中川 雅仁)
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(40) 二兎を追う者は一兎をも得ず

 私は、出張に出るとコンビニ弁当や駅弁ばかりになってしまうのですが、妻が気を遣って、なるべく弁当を作ってくれます。
ありがたいことです。
今回も急にもう30分で出なければならなくなり、慌てて弁当作りに…。
フライパンで野菜を焼きながら、おにぎりを作ったところ、結局ナスが焦げて再度仕切り直しになってしまったとのこと。
このようなことを表現したものに「二兎を追う者は一兎をも得ず」という昔からのことわざがあります。
忙しいと私もつい同じようなことになっています。
その時は上手く出来ているつもりでも、結局注意散漫となって後で失敗がわかるなど、なかなか難しいものです。
先日購入した皮ベルトなどは、裏表で黒と茶のリバーシブル、ひっくり返すことでどちらも使え少々高いが便利に思えて買ってみたは良いけれど、一面を使うと皮に跡が残るので結局あまり使わなくなってしまいました。
 このことわざは、同時に二つの利を得ようとすれば、どちらもうまくゆかないというたとえです。
辞典を調べてみると『逃げ回る一匹のウサギでさえ捕まえるのは容易ではないのに、二匹を同時に捕まえようとしてもそれは無理。1877年、西洋のことわざを最初にまとめて訳出した本に掲載されている。明治初期の教科書「終身児訓」(1880年)の「学問及勉強」の章では、このことわざを紹介し大きな挿絵も収められていた。』とあります。
 いつもこのコラムで取り上げていますが、「洗心の指標」の中の「いつも持つべき正しい心」の中に「よろしからぬ欲を捨て」というのがあります。
このよろしからぬ欲に当たるので「はやく気がつきなさい」と、どこかの神様が失敗を与えてくれるのでしょうか。
つい私たちは欲が出て、短時間で…とか、効率良く…等と思ってしまいますが、失敗して初めて分かるものです。
氣の観点から言えば、氣を入れてとか、氣を込めてという言葉にあるように、気持ちや意識を集中することで、そこに集まる氣のエネルギーは強くなるものです。
時間や効率ばかりに目が向くと肝心の氣の部分が疎かになるわけです。
 これは、氣のグッズを使って真氣光のエネルギーを受ける時も当てはまります。
たとえば音氣CD を部屋の中に流すことで良い氣が行き渡りますが、仕事をしながら音氣を聞くのと、集中して聞くのでは大違い、後者の方がしっかりとエネルギーを充電できます。
いつも何かしながらでも氣を受けることは氣の充電には効果があることですが、それだけでやっているつもりになるのは要注意です。
一日一回は、しっかりと意識して真氣光を受けていただきたいと思います。
(中川 雅仁)
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