(47)好事魔多し

 私は、いろいろな事をすぐに忘れてしまうので、できるだけメモをとるようにしています。
しかし、笑い事のようですが、なぜ、そこにこんな言葉がメモされているのか、わからないこともあります。
今日は、そんな私のメモにあった言葉、ひらがなで「こうじまおおし」です。
多分、何かのきっかけで耳にして、氣の観点からお話ししたいと思ったのでしょう。
「好事魔多し」この言葉を、ことわざ辞典を調べてみると「よいことには何かと邪魔が入ったり妨げる者が現れたりするものだという意。好事は良いこと。魔は邪悪なことで、ここでは邪魔。…」とあります。
 このことわざは、好調の時には身を律しなさいという教えとも言えます。
よいことがあったと有頂天になっていると、注意を怠り見落とすことが多くなったりすることがあるでしょうし、自分の力を過信しすぎて客観的に自分を見られなくなることで無理をしすぎたり、蔭で支えてくれている人たちへの感謝を忘れてしまったり、周りの人たちの気持ちを考えられなくなるなどということもあります。
私は、この言葉を聞いた時に直ぐ、「魔=邪魔が入ったり、妨げる者が現れたり」とは、まさしくマイナスの氣のことだと思ったのです。
これは見えない光つまり氣のエネルギーを失ってしまった魂のことですが、私たちは知らないうちに影響を受けていることがあります。
 よいことがあってウキウキしているときなどは、魂に光が増えます。
部屋の光が増え明るくなった分だけ、汚れた部分が鮮明になるように、存在していたマイナスの氣が、浮き上がってくるということがあるものです。
一つには、以前その人が辛い体験をしてマイナスの気持ちになったときに、波長が合って来ていたマイナスの氣です。
そのようなマイナスの氣は、「自分が辛いから、その人も辛いままでずっといてほしい」「自分の辛い気持ちをいつまでも分かって欲しい」「いつまでもそこに居て、この気持ちを分かち合いたい」というような気持ちをもっています。
その人に、よいことがあると、そこには居られなくなるから困るのです。
ですから一生懸命に足を引っ張ろうとします。
もう一つは、その人を恨んでいるマイナスの氣です。
正確には、その人の先祖に恨みを持っているのですが、対象はその人も含めて一族全員で、よいことがあると悪い方に行くように力を振り絞ります。
 このようなマイナスの氣の影響を受けていると、自分の魂の光だけでは、なかなか好転し難いので、外から光をとり入れる真氣光がとても有効です。
ですからまずは、よいことがあるように真氣光を受けるのですが、調子がよいときも真氣光を忘れるわけにはいかないのです。
(中川 雅仁)
[menu][次へ]