(10)類は友を呼ぶ

 「類を以(も)って集まる」とも言われるこの諺は、魂というものの性質を見事にとらえている言葉です。ことわざ辞典で調べてみると『似たところがある者は集まってくるものだということ。中国の「易経」に出典が認められる古いもので、善人は善人同士、悪人は悪人同士というように、人は集い合うものだという意。』私は魂(心)から電波のように氣が出ていて、それには波長が合うと同調しお互いに引き合うという波動的な性質があるのではないかと考えています。
 これは、生きている私達の世界だけの話に止まりません。私は、真氣光を送っていると氣を受けている人の口を借りて出てくる、いろいろな魂達の話を聞くことで、身体が無い人達の世界にも言えるのだということを確信しました。つまり、既に亡くなった魂同士も集まるし、生きている人と既に亡くなっている人との間にも成り立っているということなのです。中でも氣を学ぶ上では、生きている人と身体を持たない魂との関係を知ることが重要です。心配性の人には似たような心配性の魂が、怒りが多い人には怒りを持った魂が、優柔不断な人にはそのような魂が、つまり似たような性格の魂が同調します。つまりどんな人も生きている人は洩れなく、何らかの魂と同調しあって生きていると言ってもよいでしょう。病気の人ばかりではなく、健康でもマイナス思考になったり、考えがまとまらなかったり、何かうまく行かないことが多くなったり、ということがありますが、そのような場合は、たくさんの自分以外の魂が同調しています。憑依などと言うと、怖いものとか、私には関係ないと思う方がいらっしゃいますが、普通に、どこにでも、誰にでもあることなのです。
 身体を失うと何がなんだか分からないうちに、似たような心を持っている人に引き寄せられる場合もありますし、自分の意志で同調しようとする魂もあります。似たような人が集まることで、一人では気がつかなかったマイナスの面が顕著に現れることになりますが、生きている人がそれに気がつき自分を変えていこうとすることで、自分自身の魂も輝きを増すし、同調している魂達にも光が届き次の次元に進めるという仕組みなのです。しかし、マイナスな事が徐々に訪れたり、深く長い間自分自身のマイナス面と同調していると、自分ではなかなかわからないものです。
真氣光を受けるということは自分自身の魂に光が入ってきますから、同調している魂達との間に差が生じ、それがもたらすマイナスの部分に気がつきやすくなるのです。ですからたくさんの人に、真氣光を生活の中に取り入れて欲しいと思うのです。

(38)先祖供養

今日はお彼岸ということで、先日ある人の口を借りて出てきたご先祖様の話しです。私が氣を送っていると出てきた魂さんは、直接その人とは血縁関係にはないのですが、今生きている人達にとても不満があるようで、いろいろな事をぼやいていましたので、皆さんにも参考になるかと思い紹介します。 言い分はこうです。『何かと言えば、すぐ「ご先祖様お願いします」と言うが、こちらはそれどころではないんだ。自由も利かない身なのに、「見守ってください」「力を貸してください」と、あれこれ言われても困る。もっと苦しくなるのだから…。生きている時にかなり徳を積んだ者以外は、なかなか強い光にはなれないものだ。死ぬ時には、いろいろな苦痛、不安や心配が襲い、光を失うもとにもなる。しかし真氣光という光は凄い。人の魂に光を送ってくれるものだが、そんなものはそうあるものではない。ましてやこれ程の光は他に例が無いのだから、そのことを真剣に考えて一生懸命やってほしい。私らが楽になれる方法は、これ以外に無いということを、皆によく伝えてほしい。…』ということなのです。 本当に強く光り輝いている魂以外は、生きている人から光をもらうしかありません。家族が暗くなっていると、自分まで暗くなってしまうように、生きている人も既に亡くなってしまっている人も同じです。生きている人が悲しければ、それに同調して悲しみの中にあり、家族が喧嘩をしていれば心配をしているものです。つまり生きている私達の心から発する氣が、伝わっているのです。ですから、ご先祖様が光り輝くようになれるには、常日頃から明るい心を持つことなのです。 私達は、いつも明るく生活したいものですが、なかなかそうは行かないのが現実です。家族や職場でのストレス、世の中の暗いニュースなど心に影をつくる要因が溢れていますから、自分は氣をつけていても、周りの人達の影響を強く受けてしまいます。ですから、いつも一定の光を送るということができないのです。一方、ハイゲンキや氣グッズが放つ真氣光の光は、一定のエネルギーを出し続けています。今までに出会った魂達の話を総合すると、それが私達の魂を経由して、既に亡くなってしまっているご先祖の魂に届くようなのです。 洗心と真氣光の両方を、毎日の生活の中で実践できることが、私達の心に幸せを感じやすくします。それが結果として、ご先祖にも強い光を与えることになり、彼らが強く輝くことで私達の生活もまた明るくさせてもらえるのです。まずは、日頃からの私達の努力なのですね。

(20)ハイゲンキはすごい

私は、今も狙われているのかもしれませんが、ずいぶん命を狙われたものです(笑)。以前私が氣を送っていると、「交通事故で、おまえの命を奪おうとした」と言う魂が出てきたことがあるのです。もう少し聞いていると「でも、光が邪魔して出来なかった」と言うのですが、このような事が一度や二度ではありません。私はその度に、見守ってくれているプラスの存在のありがたさを感じるのです。 私は会長という立場にあることから、このようなことがあると気づくために、こんな体験をしたのだと思います。ここで私が言いたいことは、「どこかで見守ってくれている存在があり、その勢力はハイゲンキの光で増え続けている」ということなのです。 ハイゲンキのもっとも凄いところは、いつも強い光を休む間もなく放ち続けているというところなのです。実際にヘッドを手に持って意識することにより、自分自身の魂に入りやすくなりますが、そうしなくてもハイゲンキから出ている光が、いろいろなマイナスの魂達にエネルギーを与え続けています。ふつうは、それがどのような効果を引き出すか、あまり意識しないものです。この点を、もう少し説明しましょう。 どんな人にも「守護霊さん」とでも言いましょうか、光を届け見守ってくれている存在があります。一方で、憎しみや妬みなどマイナスの気持ちを持って近づいてくるマイナスの魂もあるのです。私たちの体験によって強く感じたマイナスの心に、それらは同調して集まり強くなって隠れます。そればかりでなく、私たちの祖先も生きていた時にマイナスの魂達に影響されています。ですから、どんな人もマイナスの氣の影響を受けていない人はいないでしょう。しかし、それが表に出てきて悪いことにつながらないのは、蔭で一生懸命支えてくれているプラスの氣、つまり光り輝く魂達の存在があるわけです。ハイゲンキはマイナスの魂達に光を与え、プラスの存在に変えてくれます。さらには光を得た魂達は、真氣光の光を中継してくれるようになるのです。 ハイゲンキのすごいところはここなのです。常に光を出し続け深いところに隠れている影の部分にも光を与え、たくさんの見守ってくれる有り難い「守護霊さん」を作り続けてくれるというところです。ですから、いろいろな影が集まって来て一時的にマイナスの方向に引っ張られても、大事に至らない、『不幸中の幸い』となるよう努力してくれるのです。ありがたいものです。

(9)灯台下暗し(とうだいもとくらし)

 私が下田で開催していた真氣光研修講座に参加して、氣に興味を持つようになったのは’92年のことです。それまで父である先代に氣の話しをいろいろ聞かされても、あまり興味はありませんでした。’86年にハイゲンキができていますから約6年、父にすれば中川家の長男がハイゲンキばかりか氣にもまったく感心を示さないと言うことは、けっこう気がかりだったと思うのです。先代は、特にはじめの頃は真氣光を広めるため勢力的に各地に足を運んでおり、ひと月のうち家にいるのは3日か4日ぐらいだったでしょうか。おかげで、真氣光の認知度が飛躍的に高まりエス・エー・エスという会社の基盤が整備されたのですが、当時私をはじめ家族のものは真氣光がどんなものなのか良く理解できていなかったと思います。私などは真氣光を実際に使っていなかったから、それこそ氣の光も少々と言った調子、まさしく我が家は「灯台下暗し」という感じだったのです。ある時期から先代もそれに気がつき(気がつかされたのかも?)、私をはじめ家族や親戚への宣伝活動を活発に始めたということなのです。
 この「灯台下暗し」ということわざは、真氣光を実践する上でだいじな事を言ってくれています。ことわざ辞典で調べてみると「手近なことがかえって分かりにくいというたとえ。江戸前期から常用されたもので、当初「灯台」は灯火をのせた台のことで、燃える火の下には受け皿のようなものがあるために灯台の真下は薄暗いというところから言われたことわざ。もっとも岬の灯台も遠方を照らすため真下は暗いから、「灯台」を現代風に岬のものとし理解しても少しもおかしくない。」とあります。
 私は、真氣光の光も身近な人から、氣を受けながらまず自分自身が毎日の生活の中で楽しく暮らせる努力をすることだとお話ししています。光が嫌なマイナスの氣にとって灯台の光を弱める方法は、足下から少しずつ崩すことなのです。つまり家族や友人、職場の人など身近な人を使って、徐々にマイナスの心が多く出てくるように仕向けるわけです。
 私も会長になったばかりの頃は、それに気がつきませんでした。少しでもたくさんの人に氣を送る事だけを考えていたのですが、一番身近な家内にいろいろな症状が出て家族で氣を受けながら、一つひとつのマイナスをプラスにするということの重要性がわかったのです。それができると、遠くにあるマイナスの氣もそれに関係していますから、そちらも少しずつ浄化されていくのです。つまり足下を明るくしようと一生懸命になっていると、その光が強まり、結果として遠くにまで届く光になっているということなのです。

(37) 氣グッズでしらせる

先日、次のようなメールをいただき、皆さんにも参考になることと思い、今回はこれに関係した魂さんのお話しをしましょう。「真氣石ネックレスのことについてお聞きしたいのです。ネックレスを購入してから、2、3年経ちますがその間、記憶によると4回ほど糸が切れ、再気入れしていただきました。先日、お盆休みに家内の実家に帰省し、帰ってくる車の中で、何か苦しいなと思ってネックレスを外し手に持ったところで糸が切れてしまいました。切れることが多いので、なぜかと思いましてメールを打ちました。」まずはメールをいただきありがとうございます。 この真氣石ネックレスですが、確かに物理的に糸が弱くなって切れるということもあるのですが、実際には切れにくい一番強い糸を使用しています。いろいろな現象を見てきて言えることは、何回も頻繁に切れる場合には見えないところにも原因があるようです。私は以前会長セッションで、同じようにネックレスを愛用していただいている女性に氣を送っていた時のことを思い出しました。私はセッション前にA さんに「氣になることはありますか?」と聞いたのですが、彼女は喉が少し痛いと言われていました。私が参加している皆さんに向かって氣を送り始めると、Aさんの隣の女性Bさんが、彼女とは全く違う口調で苦しみ始めたのです。どうも喉がどうにかなったようで、しきりに喉のあたりに手をあてます。私は、誰かはわからないけれど相当苦しんでいる魂さんだと思い、一生懸命に氣を送らせていただきました。しばらくすると、徐々に顔が緩み始め、話ができるようになったのです。話しを聞くと、B さんではなくA さんにご縁があった方で、ずっと喉が苦しく何とかしらせようと真氣石ネックレスを何回も切っていたと言うのです。しばらく氣を受け、「やっと今日、気がついてもらえて、私は光になって上がれる」と感謝の言葉を最後に逝かれました。確かにAさんの真氣石ネックレスは頻繁に切れていたそうです。最後にお二人とも勉強になったと言われていましたが、私も勉強になりました。Bさんにも何らかのご縁があったので、たまたま一緒にセッションを受ける事になったのです。このように氣グッズは、見えない力で変化することがあります。自分の身に何らかのマイナス反応が及ぶと辛くなるものですが、そのようなことがないように氣グッズが身代わりになってくれるということなのです。そのような時には何か理由があるはずですから、いつもよりは少し意識して、家やセンターなどで少し多めに氣を集めながら受けてみることをお勧めします。

(36)平和を願う魂2

その魂は、最初は自分自身の辛さを、どこにぶつけたらよいかという感じでしたが、冷静さを取り戻したようで、「攻撃する強さよりも、それを受け入れる強さというものがあったんだ。」と言ったのです。そして「敗戦を受け入れ復興に力を注いだ日本人の強い心を大切にしてほしい。私も光を送ります。」と言い残して逝かれたのでした。彼(彼女かも知れません)は、原爆という見たことも聞いたこともない爆弾が降ってくるとは思ってもいなかったでしょう。そして、その後たいへんな苦痛を味わい、身に降りかかった悲運を嘆き悲しんだことでしょう。ですから私には、その言葉がすごく印象的でした。生きている私たちの一般的な考えでは、物理的な力としての強さを問題にしていますから、たくさんの人を殺せる武器を持っている方が強いと思うのです。だから原爆を落とされた日本よりは米国の方が強かったと、たいていの人は思うでしょう。しかし魂のレベルで考えると、そういうことにはなりません。いろいろな状況に置かれたときに、それを受け入れられることの強さは、魂のもつ光の強さです。魂に輝きがないと、マイナスな出来事を受け入れることができず、ただ悲嘆にくれ憤りを他にぶつけるしかないのです。彼は真氣光のエネルギーを受けるうちにそれに気がつき、自分が被爆して死んだことを受け入れるとともに、私にそのことをあらためて考えさせてくれました。 生駒での研修講座では、参加者全員が真氣光という光の中継を実習します。その考え方は、まず自分自身にたくさんのエネルギーを充電し自らが気づき、そして他の存在にも光を与え気づきを促すというものです。戦争に限らず、私たちは自分に余裕がないばかりに、他の人を受け入れられなかったり、自分の思い通りにならない一見マイナスな出来事を受け入れられない事が多々あります。しかしそれを受け入れる事で自分自身の光が大きく増し、それができたなら他の存在にも光を与えられるのです。真氣光というエネルギーは、それを強く応援してくれる力なのかもしれません。 まだまだ戦禍が絶えない、この地球です。“強い”米国に対してノーと言ったり激しく抵抗する必要はありませんが、どんな事でもイエスと言うことはありません。イエスと言わない、日本人ならではのアプローチもあるのではないでしょうか。“受け入れられる日本人”として次のアプローチである、光を与えられる国になりたいものです。来月には終戦記念日やお盆があります。私たちがたくさんの先祖に光を送るとともに、あちらからますます多くの光が降り注がれることでしょう。今回の選挙が、よりよい日本に変わるきっかけになることを願ってやみません。

(36) 平和を願う魂1

参議院選挙も終わり、街に静けさが戻りました。テレビや新聞では「今回の参院選は、年金改革、自衛隊の多国籍軍参加問題を中心に論戦が繰り広げられた結果、民主党が大幅に議席を増やし、昨年の衆院選挙に続き参院でも2大政党化が進んだ。」と報道されていました。自民党苦戦の要因は、この2大争点をめぐる有権者の批判が強く反映されたということでしょう。特に多国籍軍参加問題は、米国にただ追随する日本のあり方に、たくさんの国民が疑問を感じているのだと思います。 太古の昔から地球には戦争があり、日本にもたくさんの戦がありました。戦争が起きても建物などの目に見える部分を復興し、傷ついた人々も明るく前向きに一生懸命生きることで、百年も経過すると何事も無かったかのように忘れられていくのです。しかし、たった一人の命でさえ、亡くなった後に光になるか影になるかで周りの人たちに与える影響は変わってくるのですから、戦争によって悲しみ、恐怖、憤りなどの気持ちとともに大量に命が失われると、それが世の中に与える影響は計り知れません。しかし、それを生きている私たちは理解できず、同じような過ちを繰り返してきたのです。私が真氣光を送っていると、戦争で亡くなった人達が氣を受けている人の口を借りて出てくることがあります。そのような魂たちは、戦争に結びつくようなことには非常に敏感に反応します。そして彼らは戦争とはどういうものなのか、生きている私たちには分かり難い別の視点から教えてくれるのです。先日、出てきた人もやはり、そのような人でした。 ある時、私が真氣光を送っていると、氣を受けている女性が急に泣き出したのです。私は、その様子から、何か悲しみと苦しみの中で一心に堪え忍んでいるような印象を受けました。やがて私に「なぜ、こんな目に遭わなければいけなかったのか」と訴えます。悲しみや憤りを、どこに向けたらよいのかわからないという感じでした。私は、一刻も早く楽になってもらいたくて、集中して真氣光を送り続けました。すると、少しずつ穏やかな表情になってきたのです。どうしたのかと聞くと、その人は原爆で亡くなったと言うのです。「どうして自分は死ななければならなかったのか」、「こんなにむごい死に方をしなければいけなかったのか」と繰り返します。しかし氣を受けるうちに、だんだん光が届いて表情に余裕が感じられ始めたのです。<この続きは次週でお話しします>

(35)永い時をこえて

先日の新聞で「現代に警鐘!ハリウッド製の二つの大作映画トロイとデイ・アフター・トゥモローが日本でもヒットしている」という記事を読みました。特に「トロイ」は、私が以前会ったことのある魂さんを思いだし、興味をもちましたのでお話ししましょう。「トロイ」は、ホメロスの叙事詩「イリアス」を、CGを駆使して映像化した作品で、堅守を誇った都市国家トロイがギリシャの大軍によって滅ぼされていく過程を描くものです。「図らずも戦争に突き進んでしまう人間の愚かな性(さが)がテーマ、人間は戦争になると、アドレナリンが分泌されて一種の中毒状態になる。観客も同じ高揚感を味わっている。しかし、戦争で得をする人は誰もいない。イラクを見て欲しい。米国はこの戦争で何を得たというのか。『トロイ』の登場人物は我々の反面教師だ」とウォルフガング・ペーターゼン監督は新聞記事の中でコメントしています。 私が会った魂さんとは、まさしくこの時代を生きていた人だったようなのです。セッションで私から氣を受けていた女性が、突然顔を歪め、握りこぶしを床に叩きつけ始めたのです。すぐに私は氣を受けている人とは全く別の意識(魂)が出てきていると分かりました。ずいぶん長い間、そんな状態が続きました。何かよほど深い理由があるのでしょう。声も涙も出ないと言った感じです。私は、真氣光の光がその方の奥深い所にまで届くように、氣を送るしかありませんでした。さらに2、30分経過したでしょうか。だんだん悲しさに歪んでいた顔が、緩み始め、話しができるようになったのです。その人は、数千年もの間、闇の中に居たようです。古代ギリシャ時代だと思うのですが、その頃の王の娘だったようで、戦争で敵に攻められ城もろとも敵の手にわたってしまったのです。両手は縛られ足に重しを付けられて、その後は捕虜として、たいへんな目に会います。とても生きてはいられず、死のうとして舌をかみ切ろうとするのですが、口に何か入れられていて、それもできなかったようです。ずっとチャンスを伺っていたようですが、ある時ほんの少しの隙をみて、岸壁から身を投げることができたと言うのです。しかし、死んだ後もその深い苦しみや悲しみ、人としての尊厳を傷つけられたという屈辱と怒りで、真っ暗闇の中を漂っていたようです。しかし、そこに光が届いたのでしょう。最後に彼女は「この光はすばらしい。これで私のように苦しんでいる人達を救える。私に新たな役割が与えられた。」と言って消えて逝きました。真実の事なのかどうかは分かりませんが、人類は何千年も昔から戦争を繰り返してきました。マイナスの魂が影となって、また次の争いを生むのです。しかし、光となって輝ける人たちにより、世の中は少しずつ確実に変わって行く事でしょう。そして真氣光が大きな助けになるのです。

パーソナルHG発売のお知らせ

4 /22 付け本紙で初めて皆さんにお話し、月刊ハイゲンキ6月号で詳しく解説した、新しいハイゲンキのパーソナルHGですが、やっと発売準備が整い詳しいお話しができるようになりました。間もなくお手元に届く月刊ハイゲンキ7月号でも、できるだけたくさんの紙面を割いて解説させていただきましたので参考にしてください。先週から全国のセンターにも配備しましたので、もうすでにご覧になった方、氣を感じてみた方がいらっしゃったかもしれません。何人かの方から、体験の報告をいただきました。より個人に集中して深い部分に光が当たるこのパーソナルHGですが、評判も上々のようで私も嬉しいです。今回のパーソナルHGの発売によって、真氣光の光がさらに強くなるようです。宇宙から降り注ぐエネルギーが強くなるのですから、皆さんが使っているハイゲンキも自然にパワーを増します。その分、今までは表面化できなかった影の部分も、一見マイナスの現象となって浮き上がってくるかもしれません。しかし、それは一時的にマイナスの影響を与えるだけであって、光に変わって行く過程です。くじける事なく真氣光を受けることによって、大きくプラスの方向に進めるのです。しかし実際にマイナスの出来事に直面すると、一人の力だけでは挫けそうになったりするものです。家族や友達、センターでのスタッフや会員さん同士の交流が、強い味方になってくれるでしょう。このような大事な時期ですので、私はかねてから考えていた正会員枠の拡大を実施することにしました。SASでは、毎年会員費を払ってくださる正会員の方は、センターで氣を受けられたり、限定グッズが購入できたりなど、いろいろな氣のフォローができる特典を設けております。また同居する家族も同等のサービスが受けられるようにしておりますが、これを機にこの枠を拡大して、同居していない親・子も登録していただければ正会員家族と同じように扱うことにしたのです。ハイゲンキは先代が「神棚のようなものだ」と言っておりましたが、使う人を中心に家族にも広く氣のエネルギーを与えるものです。パーソナルHGは、それに比べ「お守り」のように特定の個人に氣を集中させるものです。今までのものとは全く構造も違いますから、その効果も厳密には違うでしょう。ヘッドのバージョンアップのようにはデータも十分ではありませんので、皆さんに使っていただいて、どんなものかを感じてもらうしかありません。そこで、発売から3カ月ほどは、できるだけ安い価格にさせてもらいました。多くの方に使っていただけることを願っております。

(34)姥捨て山

先日のリーダー研修講座でのことです。特にこの講座では真氣光の時間をたっぷりと取り入れ、氣を受けることによって自らが気づけるということを重視するように企画しています。講座も中日を過ぎたころだったと思います。氣を受けていた一人の女性が、苦しそうにしていました。私は、「何かマイナスの魂さんが出てきたのかなぁ」と思いながら、近づいて氣を送りました。苦しそうに唸りながら、身体を動かそうとするのです。どうも起きあがろうとしているようなので、「どうしたのですか?」と尋ねると、「杖はどこだ、帰らなくちゃならない」と辺りを手で探りながら、息も絶え絶えにやっと答えるのです。私は直感的に出てきているこの魂さんは老人で、山に捨てられたのだと思い、「山に置いてきぼりにされたのか」と聞くと「そうだ」と頷くのでした。力を振り絞って必死で身体を動かそうとする姿を見て、私は何も言えず一生懸命に氣を送りました。すると次第に、身体から力が抜けて少しずつ穏やかになり、最後には安堵の表情を浮かべ光の世界に逝かれたのでした。 私はかつて姥捨て山という昔話を聞いたことがあります。貧しさのあまり、食い扶持を減らすために親を山に捨ててくるという話です。当時は真氣光も知らない時でしたから、「昔の日本には、そんな事もあっただろうな」ぐらいの軽い感覚でしかなかったように思います。私が、あちらこちらで「歴史が苦手で…」と話していたところ、ある方が「飢餓と戦争の戦国を行く」(藤木久志著、朝日選書)という本を貸してくれました。本には11 世紀から16 世紀まで毎年のように日本のどこかで旱魃、水害など天災による飢饉や疫病、さらには度々勃発する戦争があり、私達の先祖がいかにたいへんな時代を生きて来たかが記されていました。真氣光によって、いろいろな魂さんに出会うことになり、少しずついろいろな人達の苦しみや悲しみが見えてきました。時代は変わり、今では日本は世界の中でもトップクラスの経済大国です。物は豊富になり餓死する人は居なくなりました。しかし、このような世の中になったのは、本当にたくさんの人達のかけがえのない一生があったからです。豊かになった生活の中にも、辛いことやマイナスの氣が絶えません。貧しい時代には生まれて来たくなかった人達の辛い気持ちは、マイナスの氣の連鎖として消えぬまま、まだまだ私達の周りに残っています。しかし一方で力強く生きてきた人達の応援が光となって、真氣光の光とともに私達にサンサンと降り注いでいるのです。