(2)弱り目に祟り目

 各地を会長セッションで回らせていただくと、ずいぶん今年はインフルエンザが流行したようです(まだ流行している最中かもしれません)。私も一年のうちに何回かは感染して2~3日寝込んでおりましたが、昔に比べるとここ数年、有り難いことに風邪をひきにくくなったようです。油断は大敵なのですが、これも氣のおかげと感謝しています。最近もそうですが忙しい時に限って、次から次へと「どうしてもやらなければ…」ということが飛び込んでくるものです。
 サラリーマン時代の私であれば、「どうして私ばかりやらないといけないの」とか「運が悪いなぁ」と不平不満とストレスで一杯になって体も疲れ、そうしているうちに風邪をひいていたかもしれません。これは、似たような氣が集まるという波動的な現象です。ですから自分にマイナスの氣を持てば持つほど、同じ波長の同調現象により益々自分のところにマイナスの事柄が集まってきて、どんどん苦しくなってしまうのです。
 一般的にも、苦しい境地にある時に、さらに悪いことが重なることがよくあるものです。昔の人も、それを経験的にとらえていたのでしょうか?諺(ことわざ)に「弱り目に祟り目」というのがあります。この解釈は「目」を「境目」などの目と同じように、異なる状況に変わるところという意をもつ接尾辞と解し、「に」を位置を示す助詞と考えて、弱っている時に、祟る時、または、弱っているところに祟るところができるという意味ととらえるようです。岩波のことわざ辞典によりますと、「このことわざの先行形と見られるものに、弱った体に物の怪がつくという「弱めの霊気(りょうげ)」があり、江戸初期から常用のものであった。」ということです。
 物の怪とは、何か怖い物のような気がしますが、どこにでもあるマイナスの氣のことです。「何かの原因で自分がマイナスになると外からマイナスの氣が集まってくる」と、江戸時代の人も感じていたのでしょう。外からマイナスが来るからさらにマイナスになり、それが新たなマイナスを集めるというマイナスの繰り返しです。そして、そういうマイナスの繰り返しの時は自分自身の力では、なかなか事態を改善できないものです。弱り目に祟り目の時は、外から少し強めの真氣光の氣を取り入れてください。
 

(22)光を装った影-3

 センターの会長セッションでの出来事です。私が氣を送り始めると、ある女性が急にお腹が痛い、痛いと苦しがるのです。どしたのかと思って近くによって、お腹に手をあてると、「悔しい」と私に訴えます。どうして悔しいのかと思いながら、さらに氣を送ると「腹を刺された」と言うのです。「人のために良いことをしたのに、なぜこんな目に会うのだろうか」と私に尋ねるのです。どうもその人は、ある人のために何かをしてあげたのに、恩を仇で返され、刺し殺されたらしいのです。身体を無くした後は、悔しいという強いマイナスの思いのために、暗いところに長い間居なければならなかったのでしょう。「良いことをしてあげたのになぜだ」と、私にしきりに尋ねるので、わたしも返事に困って「なぜ良いことをしてあげたのですか?」と尋ねました。その人は少し考えていましたが「自分のしたことが後で、私の家族のためになると思った」と、答えたのです。良いことをしてあげれば、後でなんらかの家族への見返りがあるだろう。どうやら彼(?私の想像ですが)は、それを期待していたということらしいのです。そう答えた後彼は、結局は見返りという自分の欲で、人に良いことをしていたと気がつくのです。そしてそれは、本当にその人のためにはなっていなかったことがわかったのです。彼は真氣光の光を受けるうちに、氣づいて、間もなく光の世界に旅立って行きました。
 良いことをしてあげたら、良いことをしてもらえる。単純に逆にとらえれば、自分にとって良いことをしてほしいから、良いことをしてあげる。私は彼を見送りながら「我々の毎日の生活の中にも、これはよくある事だなぁ」と考えていました。人は、見返りを求めて誰かのためになるのでは、本当の光を放つことにはならないのです。人に親切にする時、真氣光の氣を送る時や、ハイゲンキをしてあげる時も同じです。その人の喜ぶ顔が見たいから、それが嬉しいから、ただその人が良くなって欲しいから、純粋にそう思える時、本当の光が放たれるのでしょう。見かけは同じでも、心がそこに有るか無いかで、光の質は全く違います。本当の心が伴っていなければ、それは光を装った影になるのでしょう。

(21)光を装った影-2

 (先週の続き)Aさんを恨んでいたヤドカリさん達は、相手の非道を分からせるため、結果的にA家の代々の人を恨んで来たのです。当時は仇討ちも認められていた時代です。「目には目を…」、やられたらやり返すのは当然のことだったかもしれません。しかしそれは一見正しいように見えて、結果的に恨みというマイナスの氣を出すことにより、マイナスの氣を引き付けます。どんどん影が集まり黒くなって、余計に苦しくなって行くのです。それがわからなかった彼らですが、どんどん真氣光の光が入って来て、その間違いに気づいたのです。子孫のAさんには何の関係もなかったこと、逆にこんなに心が軽く楽になったのは、Aさん達のお陰だったことが心からわかり、申し訳ない気持ちと、感謝の気持ちをもって、光の国に行かれたのでした。
 このヤドカリさんの場合は、最初は正義にも似た小さな恨みが、結果的に何百年もの永い年月にわたってマイナスを引き付け続け、より強力な影になったのです。今回こんなに深いところで苦しんでいたヤドカリさんに氣が届いたのは、Aさん達が日頃から一生懸命真氣光を充電してきた結果だったのでしょう。
 時代が変わり今では、恨む、恨まれるということが、身の回りに少なくなっているかもしれませんが、似たような事は私達の身近な生活の中にもよくあることです。たとえば「相手の間違いに気づかせる」という一見正しいことをしているようでも、執拗に相手を咎めたり、怒ったり、非難したり、マイナスの感情をぶつけてしまうことなどです。相手のことを考えているというプラスの氣つまり光を装っていながら、自分にも相手にもマイナスの氣を溜め込ませる影になっている場合です。
 私達は魂を成長させるために体を持って生きています。ですから、逆に考えると完璧な人など身の回りには存在せず、どんなに光り輝く人でも何らかの影があるということになります。そしてよりいっそう魂の光が強まると、強いライトに照らされた物のように、影も強く浮かび上がるのです。最初は光を装っていて見つけにくいものです。しかしそれに気づき、そのままにすることなく、その影をマイナスとして受け止められた時から、それは光へと変わる準備を始めます。真氣光を充電するうちに少しずつ魂は成長していくのですから、周りの人にも自然に気づいていただけるような工夫が、できるようになるのです。
  

(20)光を装った影-1

真氣光を送っているとその人とは全く違う人(既に亡くなっている人の魂)が、氣を受けている人の口を使って出てくることがあり、私はヤドカリさんと呼んでいます。いろいろな事情をもつヤドカリさんがいて、このコラムで紹介していますが、よくある「事情」の一つに「恨んでいる」というのがあります。先日の出来事をお話ししましょう。もう何年も一生懸命真氣光を続けてくれているAさんご夫婦ですが、毎回センターでの会長セッションに二人仲良く参加してくださいます。奥さんが霊的に敏感な方で、氣による反応を通して、私にもいろいろな気づきをいただいております。その日も氣を受け始めると低い唸り声のようなものが出始め、隣で横になっているご主人の胸を掴むのです。私は「これは何か恨みがあるんだな」と直感しました。もう少し氣を送っていると「おまえにはわかるか。俺達の苦しみが。おまえにわかるか。」と叫び始めたのです。どうやらご主人のご先祖は、かつて広い畑を持つ有力な農家で、まわりの小さな農家などに、お金を貸していたらしいのです。しかし不作などで借金を返せなくなった家に対し強引な返済を迫り、できない家は畑を取り上げたのです。畑を失った一家は飢えと苦しみの中、A家に対する恨みを持って亡くなったのでしょう。そのようなことが繰り返されて、Aさんの家は大きくなったのです。お金を貸したら返してもらうのはあたりまえのことですが、そこに行き過ぎた部分があったのでしょう。出てきたヤドカリさんは何代にも渡って、何百年も恨んでいると言います。そういう方がたくさんいたために、その後Aさんの家は、いろいろなマイナスの出来事が絶えなかったようです。彼らはAさんに分からせたくて、当然のこと、正しいことをしていると思っているのです。私にも、どうしようもないほどの憤りや辛かった気持ちがよくわかります。何も言えずに、真氣光が彼らに届き、光り輝いてほしいと、ただひたすら祈りました。しばらくすると、そのヤドカリさんはAさんの他に何代も恨んで来たけれど、一向に氣が晴れず、かえって苦しみが増していることに気が付くのです。さらに氣を受けるうちに、自分たちは、すごく当然のことと思ってしていたことが、実は大きな間違いだったということが分かり始めたのです。(次週に続く)

(1)病は氣から

  ことわざ(諺)には、古くからの人生の知恵を表現した言葉の技とか、処世のための短い有効な教訓などの意味づけがなされています。それは古くから人々の生活に密着したものとして、受け継がれてきたものです。日本人には古くから「氣」という概念がありますから、ことわざの中にそれを垣間見ることもできます。
 氣と言えば「病は氣から」という、ことばがすぐに思い出されるでしょう。ことわざ辞典で調べてみると、「病気は気持ちの持ち方一つで、重くも軽くもなるということ。病気と言えばとにかく身体の具体的な故障だけが問題視されがちだが、それには人の気持ちのありようも大きく関わっているものである。例えば病人が病気を悪い方にばかり考えれば実際の症状も悪くなり治るものも治らない。ことに胃は精神面の影響を最も受けやすいところで、胃潰瘍はしばしばストレスによって生じると言われる。正にこのことわざの正しさを科学的に証明しているものと言える。ことわざとしては古く、太平記に異表現『病は氣より起こる』が見えている」とあります。太平記といえば南北朝時代。当時は今よりさらに断定調に、氣の重要性が表されていたようです。そして、そんな昔から言われている言葉は、現代の医学でさらに証明されつつあります。
 今月12日には、月刊ハイゲンキ(98年1月号)で対談させていただいた筑波大名誉教授の村上和雄先生により「笑いが遺伝子を活性化し、健康をもたらすという」仮説を、実験を交えて検証するイベント「笑いと健康」がつくば市で開かれました。吉本興業のB&Bの漫才と、筑波大名誉教授のまじめな講演という異例の組み合わせに、約千人の観客が集まり、一部参加者を被験者にして、笑いの前後での血糖値や遺伝子の変化を調べるため、血液の採取が行われています。
 「病は氣から」を氣の観点から解説してみましょう。人の心から発せられる見えないエネルギーである氣は、プラスに作用したりマイナスに作用したりします。感謝や喜び、慈悲などの心から発せられる氣はプラスで、自分の身体や心ばかりでなく他人にもプラスに作用します。一方、不安や心配、怒りなどの心からはマイナスの氣が発せられ自分や他人にマイナスに作用するのです。私たちには古くからの経験により無意識に捕らえていることが、科学という目で次々に検証されていくのでしょう。

(19)「家]嫁ぐということ

 中川家という兄弟の漫才師がテレビに登場しておりました。「…家」とは、面白いネーミングです。ましてや中川とは、つい応援したくなるから不思議なものです。どこかご先祖の方で繋がりがあるのでしょうか。どちらかというと「中川」は、シンプルな名字ですから、あちらこちらに同じ名前の人がいてもおかしくはないでしょうが…。
 さて、我が家のご先祖の話ですが、私の4代前のご先祖が富山から北海道に移り住んだところまでは何とか辿れるのですが、もうその先になるとよくわかりません。唯一の手がかりとなるお墓も4代前からのものですから、その前はどんな人がいたのか皆目検討もつきません。そういう意味で、石に文字が刻まれ長い年月にも風化しにくい墓というものの価値を感じます。後々の子孫が墓の前で手を合わせてくれることは、多くの光をもたらしご先祖のよろこびになるのでしょうから。
 氣を受けて出てくる魂さんの中には、ご先祖のことを恨んでいるという事がよくあります。土地を取り上げられたとか、ひどい仕打ちをされたとか、たいていはご先祖とは他人、つまり違う「家」の人々の恨みをかっている場合です。しかし、同じ「家」つまり身内の中にも強い恨みや憎しみがあったのです。先日、氣を送っていると出て来られた方は、もう2百年あまり前に生きていた方でした。当時の日本は今以上に「家」と「血のつながり」を大事にしておりました。家督相続のため本家の血を絶やさないように、養子縁組等いろいろな工夫がなされた時代です。その結果、いろいろな悲劇が生まれました。つまり、そのとき強いマイナスとなって出てこられたのは、その「家」に嫁いで来たお嫁さんだったのです。話はこうです。本家筋の立派な「家」に嫁いだ彼女は、所詮は血のつながりのない嫁として、いじめられ肩身の狭い、悲しく辛い一生を送ることになったのです。自分の一生がそんな風になったのも、「家」というものがあったからと、死んでからその家系にマイナスの感情を抱くのです。少しでも自分の気持ちがわかって欲しくて、代々嫁いで来た人を自分のように寂しい思いにさせました。またその「家」が途絶えるよう、つまり男の子が育たないように等、マイナスの方向に引っ張ったのです。しかし彼女にも真氣光の光が届き、憎しみや悲しみが薄れていくと同時に、自分のしていた愚かさに氣づきました。自分が寂しいから他人も寂しくさせるのではなく、自分が辛い思いをしたからこそ辛い嫁の立場がよくわかり、本当の意味で力になれることに気がつくのです。最後に彼女は嬉しそうに「自分にできることがあった。光になって見守る」と言ったのでした。

(18)「存在」にありがとう

 以前、私が真氣光を送っていると、明らかに氣を受けている方とは違う口調で、別の魂さん(らしい?)が話をしはじめました。私は一生懸命真氣光を送り、その方は光の世界に行かれました。その時、彼女(だと思う)の話が印象的だったので紹介します。氣を受けていた人は、仕事に疲れ「自分は、他の人に比べて何もできない」とすっかり自信を無くしていました。多分、そのマイナスに同調して来られた、はじめはマイナスの魂さんだったのでしょう。
 最初その魂さんは「私は病気で身体が満足に動かなかった。何もできない。何もしてあげられない。私には生きている資格が無いと思った。早く死ねばいいと思った。だけど死んでみて、気持ちは何も変わっていない事に気がついた。身体のある無しに関係なく、私は何の役にも立たない。」と言っていました。誰のためにもなれないという、絶望感。それが死んだら終わりになると思ったのでしょう。しかし何も変わることなく、同じ気持ちが続いていたのです。苦しかったことでしょう。しかし氣を受けるうちに、考え方が変わってきたのです。「だけど、私が死んで、みんなが悲しんでくれた。何もしてあげられないと思ってたけど、感謝の気持ちをたくさん、たくさん、あげれば良かった。」と言うのです。どんどん真氣光の光が、その方の気持ちを変え、いろいろな気づきを与えます。
 「目に見えることだけが、人間の価値じゃない。その人の存在が、安らぎや希望を与えることがある。目に見えないことでも、人のためになることがある。この人にも教えてあげてほしい。もっとバリバリ仕事をして、みんなに認めてもらいたいと、この人は焦ってる。」マイナスの氣が、プラスの氣の存在に変わり、身体が無くなっても、できることがたくさんあることがわかり始めます。「自分自身を責めている人がたくさんいるはず。居るだけで、だれかのためになっていることがたくさんある。目に見えることをしていないと、分かってもらえないと思っていた。感謝されたい、認めてもらいたいと思っていた。そうやってがんばって認めてもらう人も必要。認めてもらわなくてもいい人も必要。自分の役割が分からなかった。私は光になります。そしてみんなの光になれます。私にチャンスをくれてありがとう。死んでから人の役に立てると思わなかった。ありがとう。」そう言って光の世界に行かれたのでした。みんな、誰かに確実に光を与えている光の存在です。しかし、一時それを忘れてしまうことがあります。真氣光が、身体の有る無しに関わらず、それを思い出させてくれるのでしょう。

(17)言いたいことを我慢していた

 これまでに、私が真氣光を送っていると、氣を受けている人の口を借りて、身体の痛みや辛さを訴えながら出てくる魂さんの話をいろいろ紹介しました。しかし、いつも苦痛を訴えるばかりではありません。辛い事を一生懸命我慢しているという場合もあります。このような例も、よくあることなのでお話ししておきましょう。
 私が20代の女性に氣を送っていた時の話です。氣を送ると彼女は顔を歪め、いかにも何か辛いことがありそうな感じなのです。「何か辛いことがあるの?」と問いかけても、口を開こうとしません。そして、ただ何かを一生懸命我慢しているという様子なのです。こちらとしては、この場合、何か話しをしてくれれば解決の糸口が見つかると思うのですが、一向に口を開こうとしないのです。私も問いかけるのをやめ、氣を送ることに専念することにしました。そうすると、だんだん彼女の辛さが増えてきたようで、我慢している様子がどんどんかわいそうになるのです。私も何かピンと来て「そうか、言いたいことが言えなかったんだね。わかったよ。」と言うと、何かホッとしたのか涙をポロポロ流して泣き始めたのです。私は「辛い気持ちが、だんだん消えていくよ」と言いながら氣を送ると、真氣光が次第に浸透してきたのでしょうか、心が重苦しく辛い気持ちが晴れてきたようになり、顔が柔らかくなっていきました。落ち着いたところで目を開け、「なぜ自分が泣き始めたのだろう」と不思議がっていました。後で彼女に話を聞いてみると、小さい頃から両親の思うとおりに育てられ、自分の気持ちを言えない状態だったようなのです。多分、彼女の魂は自分自身の気持ちを表現し、やりたいことを自由にしたかったのでしょう。しかし実際にはそれを押し殺し、我慢というマイナスの感情を強くし、それに同調して似たような心をもつ魂さんを引きつけてしまったのだと思います。
 私たちは、本当は言いたい事があっても、相手のことを考えて我慢して言わないことがあります。話す、話さないということではなく、「我慢する」というマイナスの感情をため込んでしまうということが問題です。しかし我慢するほど気になっていたことが、そんなに気にならなくなることがあります。彼女も辛いことを実際に私に話した訳ではありませんが、真氣光を受けるうちに、それが無くなってしまったのです。真氣光を受けて、頭を整理してみてください。真氣光のエネルギーがマイナスの感情を減らしてくれ、伝えるべき事だけを話せるようになるでしょう。またストレスをたくさん溜めてしまっている人が氣を受けると、様々なマイナスの事を、堰を切ったように話し始める人がいます。いろいろな理由でため込んでしまったマイナスの氣が浮き出ていることを理解し、聞く側も「何か自分にプラスの事(氣づく事)が隠れているのでは」という気持ちで聞いてあげてください。

(16)先祖供養

 皆さんお盆には、親戚や家族で集まったり、お墓参りに出かけた方も多いのではないでしょうか。日本には、お盆やお彼岸などの仏事が数多くあり、家族揃ってお墓参りに出かけるなどという風習があります。既に亡くなってしまった先祖に手を合わせることによって、たくさんのプラスの氣(光)が送れる事を、昔の人は知っていたのでしょう。私も小さいころから知らぬ間に、「ご先祖様を大事にする」ことを、教えられたような氣がします。
 私が以前、真氣光を送っていたときに、ある女性から出てきた魂さんがいらっしゃいました。最初は、相当苦しい様子でうなり声を上げ、全身に力が入り、のけぞるようにしておりました。次第に顔の歪みもきつくなっていきましたが、何回か激しく咳き込むとともに、だんだん真氣光のエネルギーが浸透したのか、楽な表情に変わっていったのです。最後には「やっと楽になれた。みんなが苦しんでいる。この娘(こ)のおかげで私らにやっと光が来た。この娘(こ)のおかげじゃ。ありがとう。ありがとう。」と言うのです。最後には「皆が待っている。わしも力になれる。」と言われながら光の世界に行かれたのでした。
 その女性は、自分も家族も病気がちで、真氣光を知ったのでした。でも家族はみんな氣には興味がなく、彼女だけが一生懸命真氣光をやっていました。生駒での研修講座にも参加し、その時には財産相続を巡って親戚同士とても仲が悪い事を気にしていました。
 彼女は、真氣光を受けながら意識ははっきりしているのに、何故急に自分がそんな事を言い始めたのか分からず最初はびっくりしていましたが、どうも出てこられたのは曾祖母にあたる方のようで、ご先祖様に光が届いていることがわかって、より一層ハイゲンキをすることの意味を再確認したのでした。
 もう既に亡くなった見えない家族の中に、たくさん辛い方がいらっしゃるような場合、知らないうちにその影響を受けてしまい家族や親戚の間に不幸な事が多くなったり、仲が悪くなってしまったりするようです。あちらの世界からも本当に気づいて欲しくて、いろいろなサインを出しているのかもしれません。しかし誰か一人でもその事に気づき光を送ってあげられると、少しでも確実に一歩ずつ、事態は解決の方向に向かうのです。真氣光を受けるということは、生きている人を入口として、あちらの世界に光を送るということなのです。

(15)一生懸命生きる

 以前、私がある女性に真氣光を中継していたときの話です。彼女は日頃から何か胸苦しい感じがすると言っていたのですが、氣を受けているうちに突然ゴホゴホと喘息のような咳をし始め、とても苦しそうな状態になりました。私は、マイナスの氣が浮いてきたと思い、より集中して氣を中継させていただきました。
 彼女は最初、苦しさに顔をゆがめていましたが、少しするとだんだん楽になってきたらしく、咳も少なくなりました。「あー、苦しかった」と一言発し、その後男性のような口調で話を始めたのです。「俺は、炭坑で長い間、働いていたんだ」とか、粉塵ですっかり喉と胸をやられて、長い間とても苦しかったのだけれど、今はすっかり楽になったと言うのです。毎日毎日、穴の中に入っては、石炭を掘っていたのだそうです。話を聞きながら、私は、その生活を想像してみました。身体がくたくたになるまで掘り続けていたわけで、「何の楽しみ、何の希望があったのだろう」と、ふと思ったのです。彼が言うには、食べていくためには、つまりお金のためには、働かざるを得なかったというのです。彼には妻も子供もいて、毎日働いても食べていくのが精一杯、贅沢なんか全くできなかったようです。その時、私はそんな彼の人生がかわいそうにも感じたのでした。
 しかし、彼はその後、言葉を続けました。「でも、俺の人生は充実していた」というのです。最初、私にはわからなかった事ですが、彼には「一生懸命働いて家族を養う」という大きな目的と希望があったのです。そしてそれは魂を輝かせるための強い光になっていたようなのです。「今生きているやつの方がかわいそうだ。生きていくのは、たやすくなったが、希望が無い。充足感がないんだ」と言うのです。「俺は身体は苦しくてたいへんだったけど、光に向かって生きていたようだ。だからこうやって早い時期に光の世界に行けることになった」とも・・・。そしてしばらくして「光が見えてきた。行かなくてはいけない」と言って居なくなったのです。私はこの時、たいへんだけれど希望を持って一生懸命生きるということは、強い光になるということを教えてもらったのでした。心の充足感です。それは単に、毎日が楽しく面白いという生活では無く、時には辛くて苦しいのかもしれません。しかしそれは確実に、表面的な一見マイナスの気持ちによるマイナスの氣も吹き飛ばす程、大きな光をもっているのでしょう。