「普通」が普通でない?!

 私は、家で原稿が捗らない時には、気持ちを切り替えるために周りの環境や雰囲気を変えて、cafeでパソコンを開くことにしています。
この原稿も、そんな状態に陥り、駅前に場所を変えて書いているのですが、ここの近所は幼稚園や学校が多く、午前中はお母さん達の数グループに占領されてしまいます。
あっちから、こっちから時々、元気で大きな声が耳に入ってくるので、私としては非常に勉強?になるのです。
今日のキーワードは「信じられないよね、普通はさぁ~」です。
学校や先生のことを言っているのか、他のお母さんのことを言っているのかわかりませんが、自分達の価値観「普通」を基準に話が弾んでいるようです。
 ところで、この「普通」の思い違いで、イラッときたり、人を咎めてしまったり、不平や不満、心が平和でなくなってしまったりなど、いろいろな一見マイナスな出来事が起こるものです。
人と人との「普通」違いも、これが大きな規模になると国同士の戦争にまで発展することもあるでしょう。
「普通」わかってくれるはず、「普通」このくらい配慮してくれるはず…自分が、そうだから相手もそうに違いないだろうという思い違いです。
そして、この思い違いの真っ最中には、冷静に、客観的に状況をみられなくなってしまうのです。
相手と自分の「普通」は、違っていても全く不思議ではありませんし、違うのが当然かもしれないのです。
それは、どんな人にとっても「普通」を決めているものが、これまでの体験だからです。
皆、生まれてから今まで、生きて来た歴史が違いますから価値観も違うはずです。
さらには、先祖からの氣の影響もあるものです。
例えば代々続いてきた家が、武士の家系と農民や商人の家系では違うことでしょう。
今月号の月刊ハイゲンキ巻頭対談では「武士の生き方、死に方…」について取り上げましたが、日本人と欧米人、中国や韓国など近隣諸国の人達とも価値観が違っています。
それは先祖の思いも見えない氣として、私たちに影響を与えているからなのです。
 私たちの本質は魂ですが、体を持って生きているということは、他の体としっかり区別されるということです。
つまり一人ひとり、それぞれに体験があり、その体験によって考えることが皆違うということです。
そのような中で、少しでもわかり合えるようにと考え、伝え方を工夫したり真氣光を利用するなど、努力できることが大切です。
人と自分の相違点から学び合えることで、自分の体験していないことを共有でき、「普通」の範囲を広げるとともに、おもいやりの心を育めるということに繋がります。
そうやって、魂は成長するのだと思うのです。
(中川 雅仁)
[menu][次へ]