中川家という兄弟の漫才師がテレビに登場しておりました。「…家」とは、面白いネーミングです。ましてや中川とは、つい応援したくなるから不思議なものです。どこかご先祖の方で繋がりがあるのでしょうか。どちらかというと「中川」は、シンプルな名字ですから、あちらこちらに同じ名前の人がいてもおかしくはないでしょうが…。
さて、我が家のご先祖の話ですが、私の4代前のご先祖が富山から北海道に移り住んだところまでは何とか辿れるのですが、もうその先になるとよくわかりません。唯一の手がかりとなるお墓も4代前からのものですから、その前はどんな人がいたのか皆目検討もつきません。そういう意味で、石に文字が刻まれ長い年月にも風化しにくい墓というものの価値を感じます。後々の子孫が墓の前で手を合わせてくれることは、多くの光をもたらしご先祖のよろこびになるのでしょうから。
氣を受けて出てくる魂さんの中には、ご先祖のことを恨んでいるという事がよくあります。土地を取り上げられたとか、ひどい仕打ちをされたとか、たいていはご先祖とは他人、つまり違う「家」の人々の恨みをかっている場合です。しかし、同じ「家」つまり身内の中にも強い恨みや憎しみがあったのです。先日、氣を送っていると出て来られた方は、もう2百年あまり前に生きていた方でした。当時の日本は今以上に「家」と「血のつながり」を大事にしておりました。家督相続のため本家の血を絶やさないように、養子縁組等いろいろな工夫がなされた時代です。その結果、いろいろな悲劇が生まれました。つまり、そのとき強いマイナスとなって出てこられたのは、その「家」に嫁いで来たお嫁さんだったのです。話はこうです。本家筋の立派な「家」に嫁いだ彼女は、所詮は血のつながりのない嫁として、いじめられ肩身の狭い、悲しく辛い一生を送ることになったのです。自分の一生がそんな風になったのも、「家」というものがあったからと、死んでからその家系にマイナスの感情を抱くのです。少しでも自分の気持ちがわかって欲しくて、代々嫁いで来た人を自分のように寂しい思いにさせました。またその「家」が途絶えるよう、つまり男の子が育たないように等、マイナスの方向に引っ張ったのです。しかし彼女にも真氣光の光が届き、憎しみや悲しみが薄れていくと同時に、自分のしていた愚かさに氣づきました。自分が寂しいから他人も寂しくさせるのではなく、自分が辛い思いをしたからこそ辛い嫁の立場がよくわかり、本当の意味で力になれることに気がつくのです。最後に彼女は嬉しそうに「自分にできることがあった。光になって見守る」と言ったのでした。
(18)「存在」にありがとう
以前、私が真氣光を送っていると、明らかに氣を受けている方とは違う口調で、別の魂さん(らしい?)が話をしはじめました。私は一生懸命真氣光を送り、その方は光の世界に行かれました。その時、彼女(だと思う)の話が印象的だったので紹介します。氣を受けていた人は、仕事に疲れ「自分は、他の人に比べて何もできない」とすっかり自信を無くしていました。多分、そのマイナスに同調して来られた、はじめはマイナスの魂さんだったのでしょう。
最初その魂さんは「私は病気で身体が満足に動かなかった。何もできない。何もしてあげられない。私には生きている資格が無いと思った。早く死ねばいいと思った。だけど死んでみて、気持ちは何も変わっていない事に気がついた。身体のある無しに関係なく、私は何の役にも立たない。」と言っていました。誰のためにもなれないという、絶望感。それが死んだら終わりになると思ったのでしょう。しかし何も変わることなく、同じ気持ちが続いていたのです。苦しかったことでしょう。しかし氣を受けるうちに、考え方が変わってきたのです。「だけど、私が死んで、みんなが悲しんでくれた。何もしてあげられないと思ってたけど、感謝の気持ちをたくさん、たくさん、あげれば良かった。」と言うのです。どんどん真氣光の光が、その方の気持ちを変え、いろいろな気づきを与えます。
「目に見えることだけが、人間の価値じゃない。その人の存在が、安らぎや希望を与えることがある。目に見えないことでも、人のためになることがある。この人にも教えてあげてほしい。もっとバリバリ仕事をして、みんなに認めてもらいたいと、この人は焦ってる。」マイナスの氣が、プラスの氣の存在に変わり、身体が無くなっても、できることがたくさんあることがわかり始めます。「自分自身を責めている人がたくさんいるはず。居るだけで、だれかのためになっていることがたくさんある。目に見えることをしていないと、分かってもらえないと思っていた。感謝されたい、認めてもらいたいと思っていた。そうやってがんばって認めてもらう人も必要。認めてもらわなくてもいい人も必要。自分の役割が分からなかった。私は光になります。そしてみんなの光になれます。私にチャンスをくれてありがとう。死んでから人の役に立てると思わなかった。ありがとう。」そう言って光の世界に行かれたのでした。みんな、誰かに確実に光を与えている光の存在です。しかし、一時それを忘れてしまうことがあります。真氣光が、身体の有る無しに関わらず、それを思い出させてくれるのでしょう。
(17)言いたいことを我慢していた
これまでに、私が真氣光を送っていると、氣を受けている人の口を借りて、身体の痛みや辛さを訴えながら出てくる魂さんの話をいろいろ紹介しました。しかし、いつも苦痛を訴えるばかりではありません。辛い事を一生懸命我慢しているという場合もあります。このような例も、よくあることなのでお話ししておきましょう。
私が20代の女性に氣を送っていた時の話です。氣を送ると彼女は顔を歪め、いかにも何か辛いことがありそうな感じなのです。「何か辛いことがあるの?」と問いかけても、口を開こうとしません。そして、ただ何かを一生懸命我慢しているという様子なのです。こちらとしては、この場合、何か話しをしてくれれば解決の糸口が見つかると思うのですが、一向に口を開こうとしないのです。私も問いかけるのをやめ、氣を送ることに専念することにしました。そうすると、だんだん彼女の辛さが増えてきたようで、我慢している様子がどんどんかわいそうになるのです。私も何かピンと来て「そうか、言いたいことが言えなかったんだね。わかったよ。」と言うと、何かホッとしたのか涙をポロポロ流して泣き始めたのです。私は「辛い気持ちが、だんだん消えていくよ」と言いながら氣を送ると、真氣光が次第に浸透してきたのでしょうか、心が重苦しく辛い気持ちが晴れてきたようになり、顔が柔らかくなっていきました。落ち着いたところで目を開け、「なぜ自分が泣き始めたのだろう」と不思議がっていました。後で彼女に話を聞いてみると、小さい頃から両親の思うとおりに育てられ、自分の気持ちを言えない状態だったようなのです。多分、彼女の魂は自分自身の気持ちを表現し、やりたいことを自由にしたかったのでしょう。しかし実際にはそれを押し殺し、我慢というマイナスの感情を強くし、それに同調して似たような心をもつ魂さんを引きつけてしまったのだと思います。
私たちは、本当は言いたい事があっても、相手のことを考えて我慢して言わないことがあります。話す、話さないということではなく、「我慢する」というマイナスの感情をため込んでしまうということが問題です。しかし我慢するほど気になっていたことが、そんなに気にならなくなることがあります。彼女も辛いことを実際に私に話した訳ではありませんが、真氣光を受けるうちに、それが無くなってしまったのです。真氣光を受けて、頭を整理してみてください。真氣光のエネルギーがマイナスの感情を減らしてくれ、伝えるべき事だけを話せるようになるでしょう。またストレスをたくさん溜めてしまっている人が氣を受けると、様々なマイナスの事を、堰を切ったように話し始める人がいます。いろいろな理由でため込んでしまったマイナスの氣が浮き出ていることを理解し、聞く側も「何か自分にプラスの事(氣づく事)が隠れているのでは」という気持ちで聞いてあげてください。
(16)先祖供養
皆さんお盆には、親戚や家族で集まったり、お墓参りに出かけた方も多いのではないでしょうか。日本には、お盆やお彼岸などの仏事が数多くあり、家族揃ってお墓参りに出かけるなどという風習があります。既に亡くなってしまった先祖に手を合わせることによって、たくさんのプラスの氣(光)が送れる事を、昔の人は知っていたのでしょう。私も小さいころから知らぬ間に、「ご先祖様を大事にする」ことを、教えられたような氣がします。
私が以前、真氣光を送っていたときに、ある女性から出てきた魂さんがいらっしゃいました。最初は、相当苦しい様子でうなり声を上げ、全身に力が入り、のけぞるようにしておりました。次第に顔の歪みもきつくなっていきましたが、何回か激しく咳き込むとともに、だんだん真氣光のエネルギーが浸透したのか、楽な表情に変わっていったのです。最後には「やっと楽になれた。みんなが苦しんでいる。この娘(こ)のおかげで私らにやっと光が来た。この娘(こ)のおかげじゃ。ありがとう。ありがとう。」と言うのです。最後には「皆が待っている。わしも力になれる。」と言われながら光の世界に行かれたのでした。
その女性は、自分も家族も病気がちで、真氣光を知ったのでした。でも家族はみんな氣には興味がなく、彼女だけが一生懸命真氣光をやっていました。生駒での研修講座にも参加し、その時には財産相続を巡って親戚同士とても仲が悪い事を気にしていました。
彼女は、真氣光を受けながら意識ははっきりしているのに、何故急に自分がそんな事を言い始めたのか分からず最初はびっくりしていましたが、どうも出てこられたのは曾祖母にあたる方のようで、ご先祖様に光が届いていることがわかって、より一層ハイゲンキをすることの意味を再確認したのでした。
もう既に亡くなった見えない家族の中に、たくさん辛い方がいらっしゃるような場合、知らないうちにその影響を受けてしまい家族や親戚の間に不幸な事が多くなったり、仲が悪くなってしまったりするようです。あちらの世界からも本当に気づいて欲しくて、いろいろなサインを出しているのかもしれません。しかし誰か一人でもその事に気づき光を送ってあげられると、少しでも確実に一歩ずつ、事態は解決の方向に向かうのです。真氣光を受けるということは、生きている人を入口として、あちらの世界に光を送るということなのです。
(15)一生懸命生きる
以前、私がある女性に真氣光を中継していたときの話です。彼女は日頃から何か胸苦しい感じがすると言っていたのですが、氣を受けているうちに突然ゴホゴホと喘息のような咳をし始め、とても苦しそうな状態になりました。私は、マイナスの氣が浮いてきたと思い、より集中して氣を中継させていただきました。
彼女は最初、苦しさに顔をゆがめていましたが、少しするとだんだん楽になってきたらしく、咳も少なくなりました。「あー、苦しかった」と一言発し、その後男性のような口調で話を始めたのです。「俺は、炭坑で長い間、働いていたんだ」とか、粉塵ですっかり喉と胸をやられて、長い間とても苦しかったのだけれど、今はすっかり楽になったと言うのです。毎日毎日、穴の中に入っては、石炭を掘っていたのだそうです。話を聞きながら、私は、その生活を想像してみました。身体がくたくたになるまで掘り続けていたわけで、「何の楽しみ、何の希望があったのだろう」と、ふと思ったのです。彼が言うには、食べていくためには、つまりお金のためには、働かざるを得なかったというのです。彼には妻も子供もいて、毎日働いても食べていくのが精一杯、贅沢なんか全くできなかったようです。その時、私はそんな彼の人生がかわいそうにも感じたのでした。
しかし、彼はその後、言葉を続けました。「でも、俺の人生は充実していた」というのです。最初、私にはわからなかった事ですが、彼には「一生懸命働いて家族を養う」という大きな目的と希望があったのです。そしてそれは魂を輝かせるための強い光になっていたようなのです。「今生きているやつの方がかわいそうだ。生きていくのは、たやすくなったが、希望が無い。充足感がないんだ」と言うのです。「俺は身体は苦しくてたいへんだったけど、光に向かって生きていたようだ。だからこうやって早い時期に光の世界に行けることになった」とも・・・。そしてしばらくして「光が見えてきた。行かなくてはいけない」と言って居なくなったのです。私はこの時、たいへんだけれど希望を持って一生懸命生きるということは、強い光になるということを教えてもらったのでした。心の充足感です。それは単に、毎日が楽しく面白いという生活では無く、時には辛くて苦しいのかもしれません。しかしそれは確実に、表面的な一見マイナスの気持ちによるマイナスの氣も吹き飛ばす程、大きな光をもっているのでしょう。
(14)ご先祖様が怒っている
亡くなった方々の中には、生きているときの気持ちがそのまま続いている人たちが、たくさんいます。ずいぶん前の話になりますが、そのころ会員になったばかりのAさんからご先祖様についての相談を受けた事がありました。Aさんは真氣光に巡り会う前に良くないことが立て続けに起きるので、霊能者の所に行き見てもらったというのです。その時言われた話には、Aさんは経済的に負担になった家と土地を手放したばかりだったのですが、何代前かのご先祖様が出てきて、その事について怒っていると、言われたというのです。「再び買い戻すわけにはいかないし、どうしたら良いのでしょうか」というのが、その時の相談でした。
このような話は、よくあるものです。マイナスに傾いてしまった魂さんの中には、この世にまだまだ未練があったり、こだわりがあったりするものです。もしかしたら、このご先祖様は、生きている子孫に対し、自分達の築いてきたものに対して気づいて欲しくて、いろいろなことをしたのかもしれません。しかしこの世の現実は厳しく、生きていくということは大変なことです。ですから、売りたくないと思っても、お金が必要になったり、家族等との事情もあるでしょう。時代も状況も変わり、生きている私たちにとって亡くなった方々の意見を聞いているわけには、いかないことがたくさんあります。
真氣光によって、生きている人の心も変わるのですが、亡くなった方々の心も変わります。私はその時Aさんに「ハイゲンキをして真氣光の氣をご先祖にも送ってください」と答えました。真氣光の見えない氣は生きている人の心を穏やかにするのと一緒に、亡くなった方々の気持ちも穏やかにしてくれます。いろいろなこだわりが、だんだん氣にならなくなってくるものです。多分、ご先祖様はその家系の事を心配して、「良かれ」と思って意見をしたくなったのでしょう。しかし、たくさんの氣が届くことによって魂がより一層光り輝き、高い次元に進めるのです。その結果いろいろと言いたくなる気持ちも無くなって、もっと高いところから見守ってくれるようになるものです。つまり「どんな風になっても、私たちが力を貸してあげるよ。安心しなさい。」という感じでしょうか? その頃には「何々家の土地ではなくて、あれは地球の土地なんだ」という気持ちになっているのかもしれません。
(13)先祖に恨みを持っている
よくテレビ等でも霊的な話として興味本位に取り上げられるのは、「おまえの先祖がしたことに対し恨みを持っている」と言って出てくる魂の話です。たとえば、私の何代か前のご先祖が金持ちで、金貸しをしていたとします。厳しい取り立てをしたことにより、借りた人が強い恨みを持ったまま亡くなると、その恨みというマイナスのエネルギーが今生きている子孫に矛先が向いてくるというような場合です。つまり霊は自分が辛かったということを何とか分からせようと、その子孫を苦しめようとするのです。しかし霊的な世界では、実際に苦しめてみても、一向に氣が晴れないのです。それで、もっと辛くさせてやろうとするのですが、マイナスの氣がマイナスのエネルギーを呼び込み、その魂はさらに光とは遠い影の存在になってしまうのです。
このようなことは真氣光を送っていても出て来る場合があり、氣を受けている人が「こいつの先祖に苦しめられた」と言うのですが、生きている人には身に覚えのないことです。こういう場合「ご先祖がやったことを、どうしてこの人に仕返ししなければいけないのか」と、説得しても当の魂は一向に聞き入れようとしません。こちらは、どんどん真氣光を送るしかないものです。そうしてその魂に光が届きはじめると、だんだん辛い気持ちが穏やかになってくるのです。永年の気持ちが晴れるという事はとても有難いらしく、迷惑をかけてしまった方に心からお詫びし、さらに感謝して、今度はその方のためにいろいろなサポートをしてくれるようになるのです。一方ご先祖の方も、恨まれるなど自分達では取り返しの付かない事が解決すると同時に、自分達にもたくさんの光が届くらしく、「××家に光をありがとう」と、とても喜ばれます。
このようにご縁あって、恨みを持った魂さんが出てくるのも、理由があるものです。日頃私たちは、洗心の指標にある「恨み」までは持っていなくても、嫌な人を作ったり、人のせいにしたりして、マイナスの気持ちが出がちですが、それも同じようにマイナスのエネルギーです。いろいろな体験をさせられて「そのようなマイナスの心を少しずつ減らし、いつも周りに光を与える存在になってほしい」ということを、宇宙が私たちに教えてくれるために現れる事なのでしょう。
(12)死んだことがわからない
私は今まで、既に身体を失ってしまった、いろいろな魂さんに遭って来ましたが、その中には自分が「死んだ」と気がついていない方たちがたくさんいました。つまり突然死んでしまったが、生きているときのように意識があること、違う人の身体だが自分のもののように使えていることから、死んだという感覚がないのだと思います。
もうずいぶん昔のことですが、私が氣を送っていると、最初は頭が痛いとうなされるように訴えていた人が、痛みが薄らいでくると「あれ、ここはどこだ?」と言うのです。事情を聞いてみると、どうやら交通事故で突然亡くなり、わけがわからないまま(当人はそれまでと同じように生きていると思っていた)違う人の身体にいたらしいのです。
このような場合、その魂は全く無意識に、よくわからないまま違う人の身体に入ってきたということになります。つまり交通事故に遭ったその人が、なんらかの事情であの世に行けないでいるところに、生きている側が波動的に同調した、どこか共通する心を持つ魂を引きつけてしまったと言ったらよいでしょう。
心がマイナスに傾いて魂に光を失ってしまい、身体が亡くなったのに、あの世に行けない例を今までも数多くお話ししてきました。私がこの時最初に興味をもったのは、心にもマイナスがあったのでしょうが、「死んでも意識のある魂として命は継続する」「あの世の存在を知らない」ところにも原因があったように思います。科学万能の現代では、まるで宗教的なおとぎ話のように「魂」や「あの世」の存在というものが軽視されていますから、この方が特別ではないでしょう。広く一般の人にも、魂の存在が普通に語られることの必要性を感じたのでした。
さらにもう一つ私が興味をもったのは、身体を失った魂なのに、亡くなる前と変わらずに違う人の身体に存在していたということです。気がつかないくらい心の持ち方が似ていたということでしょう。このようなことはよくあることで、私たちは誰でもマイナスの魂の影響を受けるもののようです。少しでもマイナスの心を減らしていこうと自分自身で努力することで、そのような魂にも気づきを与えます。さらには真氣光の光が、それを加速してくれるのです。
(11)霊的な反応が強くなる
私が真氣光を何回も中継してきて、分かったことがあります。霊的な反応が出てくるときは、必ずその反応が一時的に強くなって、ある時点でピークに達し、その後どんどん弱くなって消えていくということです。先代も良く言っていたことなのですが、先代の言葉に代えると「消えるために現れる」ということです。これは何か霊的な反応が出るときは、例外なく必ずそのようになります。たとえば痛みが出てきたとしましょう。その痛みが霊的な現象で、何か魂の心の痛みであれば、それは氣を受けるうちにどんどん増してきて、あるときピークに達します。すぐに違う別の痛みが出てくる場合もありますが、その後弱くなって必ず消えていくのです。また、体ではなく心に表れる反応の場合、たとえば悲しみを訴えている魂であれば、その悲しみがどんどん強くなりピークに達し、その後同じように消えていくのです。ですから不思議ですが真氣光を受けるうちにどんどん強くなってくるマイナス反応であれば、それは何かマイナスに傾いている魂の影響と考えるのが良いでしょう。
私が以前20代の青年に氣を送っていたときです。最初は静かだったのに「てめー、このやろう、殺してやる」と突然大きな声を張り上げ、両手を振り回して暴れ始めたことがありました。麻薬中毒で喧嘩をして殺されたらしいのです。普通なら、怖くなってしまうでしょうが、何食わぬ顔でせっせと氣を送り続けました。一時はたいへんな状態という感じでしたが、その後次第に静かになり最後には、ご本人が我にかえり「何があったのか?」とビックリしておられました。
このような事が、何故起こるのでしょう。私は、心がマイナスに傾いている魂が、潜んでいられなくなって出てくる反応だと考えています。ご本人とは別の魂にしてみたら、いつまでもその体を自分の体のように使いたいと考えるでしょう。その場合には、ご本人には知られないようにしているのが一番良いのです。何か発見されるきっかけを見せるということは、その魂にとってはとても不利なことです。しかし、真氣光のエネルギーを受けるうちに、どんどん浮いてきて、発見されることになるわけです。その時こちらが不安に思うと氣の中継量が減り、向こうの思うツボ、こちらの心の乱れはすぐに見破られます。
ですから私は、ハイゲンキでも音氣でも、真氣光を受けていて強く出てくる一見マイナスの反応があれば、それは「効果が出ている、良かった!」と思うようにしています。反応が出て一時はつらいですが、その後は必ず軽くなるのですから。
(10)畏敬の念を持って接する
私は、最初は痛がり苦しがっていた魂が、どんどん真氣光のエネルギーによって楽になり光の世界に旅立って行かれる状況に、数え切れないぐらい立ち会いました。会長として各地を廻り始めて一年ぐらい経過していたでしょうか、いつしか自分のどこかでそれが当たり前と感じるようになっていました。氣を受ける人を早く楽にすることに目が行き過ぎ、魂達を早く光の世界に送ろうと、彼らのことを思いやる心のゆとりがなくなっていたのです。しかし、その重要性を教えてくれたのは、あるとき出てきた侍の魂でした。
私は女性に氣を中継していたのですが、急に肩のところを抑えて痛がりだしたのです。「何かな」と思いながら氣を送り続けていると、「腕が無い、腕が無い」と訴えるではないですか。こちらが「どうしたのか?」と聞くと、誰かに切り落とされたようなのです。痛みが無くなれば、そのうちに光の世界にいけるだろうと思い、あまり深い関心を持つことなく氣を送っていました。そうすると、痛みは無くなったようなのですが、執拗に腕が無くなったことを訴えるのです。私は、「なぜそんなに悔やまれるのか」理解することができず、聞いてみたのです。そうすると「刀が持てなくなった」と答えるのです。つい私は、この侍が肉体の無い魂の世界に存在しているのに、腕が無いことを嘆いていることに可笑しさを感じ「今は刀のいらない時代だよ。あなたは死んで身体が無くなったのだから、そんなことはもう忘れて光の世界に行きなさい」と言ったのです。そうすると、「おまえには、わからないだろう。武士にとって刀が持てないことが、どんな意味を持つかということが。」と強く静かに語り始めたのです。私は最初愚痴話かと思ったのですが、彼が言わんとする事にすぐにピンと来て、事の重大さに気がついたのでした。
当時、武士は刀を持つことで、本人とその家族の生活が保障されていました。妻も子もこれから生まれて来るだろう彼の孫も、その侍の腕にかかっていたのです。しかし刀が持てなくなったことによって、家族全員の生活と先祖代々からの期待が奪われ、さらには未来への夢も希望も無くなったのです。考えてみれば、たいへんな時代です。今のように多種多様な職業があるわけではありません。武士という職業ができなくなったことへの絶望感は、私たちには想像もつかないでしょう。そして何より重要なことは、そのような方々が生きてくれていたからこそ、今は刀もいらない自由で平和な時代があるのです。私は、いかなる魂にもかけがえの無い一生があり、その一つひとつの魂の積み重ねが、私たちの生活を作り上げていることを忘れていたのです。そして、それが心からわかっていれば、自然に畏敬の念を持って接することができるのです。<つづく>