(61)泣き面に蜂

忙しい時に限って、いろいろな用事が舞い込んで来ることがあるものです。
以前、締め切り間際に原稿執筆をしていた時、やっと一つ出来上がってメールしようと思ったら、パソコンが壊れて書いたものが消えたばかりか、執筆と修理で大変な目にあったことがありました。
「泣き面に蜂」ということわざがあります。
災いが続けざまに起こることのたとえで、「江戸いろはかるた」に出典があるといいます。
皆さんの話を聞いていても、もともと左足が痛かったのに、さらに転んで右足も痛くなったとか、不幸な出来事が重なったということをよく聞きます。
英語にはMisfortunes never come singly.(不幸は単独では来ない)という言葉もあるとか、世界中で、昔から多くの人が体験していることなのでしょう。

氣の観点から考えると、マイナスの氣の同調作用ということになります。
目には見えない氣というエネルギーは、大きく分けてプラスの氣とマイナスの氣に分類できますが、それらは波動的な性質があって、似たようなものが集まることから、何かのタイミングで現れたマイナスの氣の影響による現象に、更なるマイナスの氣が集まって、それが不幸な出来事となって重なるのです。

このような時に、人間性が出てしまうというものです。
自分の心までもが暗くなったり、イライラしたり、八つ当たりや投げやりな態度をとったり、不平・不満・愚痴を言うなど、つまりマイナスの氣を出すと、更なるマイナスの氣を集めてしまう結果になりますから、事態をさらに悪くしてしまいます。
そんな時は、淡々と事態の収拾を図ること、静かに事を収めて態勢を立て直すことができれば、傷を最小限にとどめることができるだけでなく、後々までもマイナスの氣の力を弱められるのです。
プラスの氣である真氣光を受け、「後で笑い話にでもしよう」などと心の余裕が持てたり、さらには「不幸中の幸い」の部分に目が向けられれば、更なるプラスの氣の応援が受け易くなるというものです。

ところでこの同調作用、マイナスの氣がマイナスの氣を呼ぶなら、どんどんマイナスの氣だらけになって、これが連続的に急激に進めば、本来私たちの体の中にある氣のエネルギーまでもが消滅してしまうところですが、そういうことにはなりません。
私は、どんな人にも、その人を守るように働くプラスの氣というものがあり、それが最悪の状態にならないようにしてくれていると考えています。
その考えを突き詰め、プラスの氣の働きの凄さが体験によって感じられていくと、ある芸人さんが言っていますが「生きているだけで丸儲け」という考え方、つまりどんな事があっても動じない心の平安に繋がるのだと思うのです。

(60)待てば海路の日和あり

私の思い出のことわざに「待てば海路の日和あり」があります。
意味を調べてみると「待っていれば、いずれはよい機会がやってくるというたとえ」ということです。
お恥ずかしい話ですが、この言葉を、私はある時まで耳にしたことがありませんでした。
亡き妻が、何の理由で使ったかは今となっては定かではありませんが、私と結婚することが決まった後、何かの折に発した言葉なのです。
私は、知らない言葉を彼女に言われたので耳に残り、後で意味を調べて学んだので、とても印象深いことわざになったというわけです。

せっかちな私は、待つという行為が、とても苦手なほうでした。
昔は「どうしてもっと早くできないのか」と、文句を言いたくなってしまうこともありました。
待つ時間に対する人の反応は様々です。
同じ時間が経過するのに、ある人は平和な気持ちのまま待てるのに、私のようにイライラしながら、文句を言いながら待つ人、不安感で一杯になりながら待つ人、心配しながら待つ人…等々いろいろなのです。
この言葉は、待っていれば、いずれ悪くなるのではなくて、「よい機会がやってくる」ということなのですから、私たちを見守るように働くプラスの氣の存在というものを前提とした、ことわざとも考えられます。
私だけかもしれませんが、この言葉には、どこか柔らかい時間が流れる印象があるから不思議です。

何もしないで良いことが起こるのを、ただ待ってばかりいても、よい機会など訪れるはずはないでしょう。
しかし、精一杯の努力はするけれど、どうしても結果が出るまでは、待たなければいけない時というものがあります。
私たちの邪魔をするように働くマイナスの氣に対して、私たちを応援しようとするプラスの氣が、いろいろな局面で奔走あるいは画策してくれています。
時には、マイナスの氣の影響が少なくなるのには、少々時間がかかることもあるでしょう。
その時が来るまで、私たちは、マイナスの氣を引き寄せることなく、着々と光を増やし続けることが大事です。
真氣光をしっかり受けて、いいとこ探しをしたり、心が明るくなることを増やす等、できる努力を精一杯やってプラスの氣を集めるのです。

広義に「待つ」という行為を考えると、体が良くなるのも、自分の目標に到達するのも…、一足飛びには成りませんから、待たなければなりません。
そのような神様から与えられた時間を、自分自身の時間にできるか、マイナスの氣の思うとおりの時間にしてしまうかは、自分次第です。
私も、時々「待てば海路の〜」と心で言ってみるのです。

(59)百聞は一見にしかず

私の本「絶望を希望に変える氣の力」を読んで、無料体験会に来られる方がいらっしゃいます。「百聞は一見にしかず」と言いますが、目には見えない、科学でも捉えられない氣というものを知るうえでは、このことわざがとても参考になります。ことわざ辞典で調べてみると、『人の話を百回聞くより、自分の目で一度見る方が確かだということ』と、あります。昔の人は古くから自身の体験を通して感じていたことなのでしょう。 百聞ですから何回も聞くということです。聞くということにより、誰もが自分の頭の中で想像することでしょう。しかし、特に自分の体験に無いことは想像できないものですから、実感となって湧いてこないということで、実際に目にすることとは格段に違うということになるのだと思うのです。例えば、私は北海道育ちですから、東京で就職するまでは、富士山を見たことがありませんでした。富士山が日本一の山とは聞いていたものの、目の当たりにし、さらには登ってみて初めて、その大きさと美しさを本当の意味で実感できたように思います。そして、もう少し付け加えるなら、私は小さい頃からテレビでも、富士山の映像を見ていたのですが、当時それも想像の範囲内でしかなかったことを痛感したのでした。ですから、「目の当たりにする」という体験は、聞くことよりも目にすることの方が、情報量が多いという単純な話だけではなく、その場で体験しなければ、その場の雰囲気、つまり見えない氣を感じられないということになり、そこがポイントだと思うのです。 科学技術が進んで、ビジュアルな情報が多くなり、バーチャル・リアリティという仮想空間も体験できる時代になりました。話で聞く範疇をはるかに越え、何でも分かりやすくなっています。それ自体は素晴らしいことですが、それだけで何でも分かったような気にならないように注意が必要です。そこには氣が関係していて、実際に体験することとは大きく違うからです。 真氣光研修講座を何回も受講している方が、「今回、…がはじめて分かりました」と言われることがよくあります。私は、今までいろいろなことを聞いていても、マイナスの氣が邪魔をするように働いて、分からないようにさせられていることがあるのだと思うのです。研修で真氣光のエネルギーが充電されていくことと、各種行法や講義などによる何らかのきっかけで、影響を受けているマイナスの氣に意識が向くことで、スイッチがはいったように光が届き、それが消えて行くことで分かるのだと思うのです。百聞は一見にしかず、ぜひ研修講座に参加してみてください。
[追記]古いハイゲンキの下取りセールに、予想を超える反響をいただき、ありがとうございます。ハイゲンキとホワイトセラミックヘッドが欠品していますので、今回のセール対象商品すべてについて期間を3月末日まで延長させていただきます。

(中川雅仁)

(58) 雨降って地固まる

 私は、10年以上会員を続けている方から体験談を伺う「真氣光とともに10年」という月刊ハイゲンキの記事を毎月取材しています。
いろいろな方から話を聞いていると「雨降って地固まる」ということわざに当てはまる事例をよく耳にするのです。
これは、私の取材ばかりではなく、真氣光に関わっている全てというぐらい多くの人の話に共通していることで、その内容と言えば、最初は何か良くない事があるのですが、真氣光をどんどん取り入れていくと、それが解決するばかりではなく、さらに良い結果に繋がったという話なのです。
 「雨降って地固まる」ということわざを辞典で調べてみると、「いざこざや、もめごとが起こっても、それがかえって良い結果や、以前より良い状態をもたらすこと。
文献上の初出は安土桃山時代」とあります。
昔の人は「悪いことばかりではないから、物事を深く捉えるようにしよう。
一見悪いことも良いことに繋がることが多いから、そうなるように努力してみよう」と考えたから、この言葉がことわざになっているのでしょう。
 さらには、目には見えない氣という観点から考えてみると、どんな人にも守護霊や神様など、何か見守ってくれているプラスの氣の存在というものがあって、それらによって私たちは、助けられたり、より成長できるように導かれたり、生かされているとも考えられるのです。
 真氣光を送っていると、氣を受けている人が反応して、その人の口を借りて霊的な存在(マイナスの氣)が出てくることがあります。
なかには、その人の先祖に苦しめられたと恨みを持ち、未だに苦しいから子孫まで恨み、悪い出来事を集め不幸にしようとするものもあります。
しかし、真氣光のエネルギーが作用すると、苦しいから恨むというマイナスの氣が、次第にラクになり、そればかりか逆に恨んでいた人からラクにしてもらっていることに気づき、感謝しながら最後には守護霊のような存在のプラスの氣に変わるのです。
つまり真氣光によって、その人を取り巻く氣の環境がマイナスからプラスに大きく変わるということになり、これが「雨降って地固まる」を、多くの人が体験している理由なのです。
 22日土曜日から3日間に渡って真氣光メンバーズの集いを開催します。
参加することによって、たくさんの真氣光を受けることができます。
今現在、何か問題を抱えている人、あるいは何も抱えていない人も、自分のマイナス的な部分をより意識し、集まってくる強いエネルギーを利用することで、マイナスをプラスに、「雨降って地固まる」を体験していただきたいと思うのです。
多くの方の参加をお待ちしております。
(中川 雅仁)
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(57)人間万事塞翁が馬

 今しがた宅配便でステレオのリモコンが届きましたので、今日はこの話にします。
私は、テレビを見るよりはステレオで音楽を聴いているほうが多いのですが、先日ステレオのアンプの電源が入らなくなりました。
「氣のせい」かと思い、数々の対策を試みましたがダメで、仕方なく宅配便でメーカーに修理に出したのです。
1週間程すると、アンプ本体のソフトをバージョンアップしたら正常になったということで、無料で戻って来ましたが、同梱したはずのリモコンが入っていません。
電話で確認すると、メーカーで紛失したということがわかり、最新型の機能アップしたリモコンが送られて来たというわけです。
結局、私は宅配便に出した僅かなお金で、新型リモコンが手に入ったわけで、すごく得をしたことになるのですが、人生は長いもの、「人間万事塞翁が馬」ということわざを思いだしたところです。
 このことわざを辞典で調べてみると「吉凶も禍福も予測は不能なので、災難も悲しむことはなく、幸運も喜ぶことではないということ。
中国・漢代の故事」とあります。
私たちは、ついつい短いスパンで、運がいいとか、悪いとかと物事を捉えてしまいます。
特に、悪いことが目の前に現れた時に、「どうして!」とマイナスの気持ちになってしまうのです。
しかし、それは良くなる前に起きることかもしれませんし、さらに長い目で見ると、何が幸か不幸かわかりません。
そんなことに一喜一憂することなく、私たちを生かしてくれている大いなる存在に対し、何事にもただ感謝する姿勢が大事なのでしょう。
 私たちの周りには、私たちを応援しようとするプラスの氣と、私たちの邪魔をするように働くマイナスの氣が存在していて、自分の気持ちに応じて、それらの影響を受けるのです。
プラスの氣ばかりではなく、マイナスの氣もあるのですから、良いことが起きて有頂天になっているとマイナスの氣に足をすくわれますし、悪い出来事が起きた時には、気持ちを切り替え良いことに意識が向かないと、プラスの氣の応援は受けにくくなってしまいます。
たいへんな時に、なかなかそれは難しいのですが、私たちには真氣光があるので、ヘッドや氣グッズを使って、まずはプラスの氣を取り入れて欲しいのです。
「いいとこ探し」をしようと努力を続けるうちに良いことが見えてきます。
 幸?不幸?…最終的に体を失った後、光のほうに行けるか、暗くて苦しいほうに行ってしまうか、なのだと思います。
それまでの間、少しでも自分と自分の周りの氣を明るくできるように日々を過ごすことだと、私自身も精進の日々です。
(中川 雅仁)
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(56)千里の道も一歩から

 「千里の道も一歩から」とは、良いことわざです。
ことわざ辞典には、「どんなに大規模で遠大なことでも、小さなことや手近なことから始まるたとえ」とあります。
私は、2年前の本ニュース年初の号でも、このことばを記事中に引用しています。
最近よく頭に浮かぶのですが、深い意識のどこかで「もう若くないから無理だ」という諦めの気持ちがあるのでしょうか?マイナスの氣の影響を受けているわけにはいきませんので、ますます進むべき「千里の道」を見つけては、まず「一歩」から進まねばなりません。
 真氣光研修講座では、龍村修先生がヨガの講義を担当してくださっています。
先生の体の柔らかさは、毎日の積み重ねがあってのことですが、「先生だから出来ることで、体がとても硬くなってしまっている自分には到底無理だ」と、ずっと私は諦めてしまっていました。
しかし、少しずつ、部分的にでも動かせるようになってくると、嬉しい気持ちも手伝ってか、「自分にもできるかもしれない」という気持ちが湧いてくるものです。
体の筋肉は意識して動かさないと、せっかく備わってくれているのに、動かせない部分が多くなります。
動かさない筋肉は固まってしまい血流が悪くなり、一部のことが体全体のひずみとなって、痛みがでることもあります。
さらには、そのようなところにマイナスの氣が集まりやすくなるのです。
私の場合、デスクワークが多い生活で特に運動もせずに、一部の筋肉のほんの一部分しか使わないという悪い生活習慣になっていたのでしょう。
いつからか、マイナスの氣による影響を受けていたと思われます。
 ところで、私たちの周りには、プラスの氣とマイナスの氣が存在します。
マイナスの氣は、その人を良い方向に変えたくないと、足を引っ張るように働きます。
そのようなマイナスの氣の抵抗に打ち勝つためにも、私たちは一歩ずつ進むということがとても大事です。
ある時には、多く進める時があったり、後退を余儀なくさせられる時もあるでしょう。
しかし、一歩でも進もうとしないと、いつまでもマイナスの氣の影響を受け続けることになります。
「千里の道」とは言いますが、十里でも進めれば、何もしないよりはズッといいわけで、まずは一歩がなければ何も始まらないのです。
 また、私たちには、いろいろなプラスの氣の応援があるものです。
「こんなことをしてみよう、してみたい」と思うのも、プラスの氣のおかげです。
プラスの氣は「千里の道」の存在に気づかせ、「歩けるんじゃない!」と促し、一歩そして一歩と応援してくれるのです。
真氣光というプラスの氣も活用して、良き道を着実に進みたいものです。
(中川 雅仁)
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(55)人事を尽くして天命を待つ

 「私は良くなりますか?」という質問をされることがあります。
私も歯痒いのですが、真氣光の効果にはどんなに自信があっても、氣の吸収力はその人次第ですから、「私には結果は分かりませんが、氣をしっかり取り入れてみてください」と、お答えするしかありません。
ところで先日、若い方から「採用してくれるところが今の職場しか無く就職したけれど、自分には合いません。
どうしたら良いでしょう」という質問がありました。
私は「他の所が見つからないなら取り敢えず今の職場で一生懸命やりなさい」と答えたのでした。
 ところで、この二つの質問に関係することは、今の状態に不満があるばかりか、さらに先のことも良く分からないことから生じる不安です。
マイナスの氣の影響を既に受けているから、今現在が自分の希望通りになっていない状態です。
 「人事を尽くして天命を待つ」ということわざがあります。
ことわざ辞典で調べてみると『結果を天命に任せ、悔いの残らないように最大限の努力をすること。「天命」は天によって決められた、人間がどうすることもできない運命。人間は力の限りを尽くしてもうこれ以上はやることはないというところまでやったら、あとは静かに天命を待つしかない。中国で古代から言われている語句』と、説明されています。
 一言で「最大限の努力」と言いますが、それによって人の魂が放つ光のような氣のエネルギーが増えるので、いつまでもその人に影響を与えていたいマイナスの氣にとっては、とても嫌うべきことなのです。
それをされると、波動が合わなくなり、取り付く島がなくなるばかりか、マイナスの氣は光に変わり、明るい方へ行かなければならなくなるわけです。
 逆に考えれば、人事を尽くさない限りは、マイナスの氣は変わらず、プラスの氣の応援も受け難いので天命はやってこないとも言えます。
今、置かれている状況で、どこまでやれば「力の限りを尽くす」ことになるかは定かでなくても、常にその気持ちで行動できるかどうかです。
真氣光を受けるということにも「最大限の努力」が必要な時があります。
もしかしたら、長い人生の中で、不満を感じることで、今が「最大限の努力」を学ぶ時なのかもしれません。
 天命を待つ時がいつなのか?と考えると【試練を乗り越える】その時々にあることでしょう。
しかし、最終的には私は、死に際のことではないかと思うのです。
体を捨てて魂だけの状態になるのですが、その時の氣の状態で、その先が決まってしまうからです。
ですから、その時まで、私もその時々の「最大限」に挑戦して、天命を待ちたいと思っているのです。
(中川 雅仁)
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(54)物は試し

 最近は、料理レシピのアプリが優秀で、私の食生活を大きく向上させてくれています。
料理本からアプリになって利便性が向上しましたが、さらにスマホで動画を視聴できるという点が私には良いようです。
料理を作っているところが1分ほどの動画にまとまっているので、食材をどう切って良いのかもわからない私にとっては、いかにも簡単そうで、敷居が低くなるのです。
「物は試し」と簡単にトライできるというわけです。
 この「物は試し」という発想は、人類の進歩にとって、人の成長にとって、とても大事だと痛感しています。
先代が夢で白髭の老人から教えられ試しに作ってみたのが、氣中継器ハイゲンキだったのですから、これがなければ真氣光も始まっていません。
私も、これまで数々の氣グッズを作ってきましたが、「物は試し」と、やってみたところ、それがとても良い結果に繋がってきたのです。
 ことわざ辞典で調べてみると『とにかく一度試してやってみようということ。
・・・チャレンジ精神を評価しているとも言えよう。
江戸中期からのことわざ』とあります。
ここで、人は、なぜ「試してみよう」と思うか(思えるか)?ということですが、ここに私は、見えない氣の大きな影響があると思っています。
よく鬱病などを患って無気力のような状態になった人の話を聞くと、「試そうなどという発想にならない、だるいし面倒」などマイナスの氣の邪魔ともとれることを言われます。
だから、やってみようという意識の大本にはプラスの氣の応援がないと、なかなかそうは思えないのだと思うのです。
しかし、プラスの氣の応援があっても、その間隙を縫って、マイナスの氣の邪魔があり、時にはやってみたことが失敗に終わることもあるでしょう。
しかし、そこで「失敗が嫌だから、もう何もしない」では、マイナスの氣の思うツボにはまってしまい、魂の成長はありません。
失敗を体験できたことも貴重な学びで、真氣光を受けながら良く考え、さらに「物は試し」を続けることで、精度も上がり効率の良い成長があるのです。
私も自分自身の生活を省みると、まだまだマイナスの氣に邪魔され、時間・お金・自信が無い、未経験・・・などの理由を付け敷居を高くして、試してみようとは思えないことがあります。
邪魔をしているマイナスの氣を意識し、真氣光を受けながら、いろいろなことにチャレンジしたいと思うのです。
そして、さらにもう一つ付け加えると、失敗があるかもしれない他人の「物は試し」を、「いかにプラスの氣の応援を受けながら温かい目で見守れるか」ということも大事ですので、ここにも真氣光の利用を忘れるわけにはいかないのです。
(中川 雅仁)
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(53)隗(かい)より始めよ

 「真氣光で家族を良くしたい」あるいは「私が良くなったので、次には家族や友人を何とかしたい」と言われる方が多いものです。
そのような方は、真氣光の良さを十分に理解したうえで、周りの人にも氣をお分けしたいということなのです。
自分から周りの人へと、良い氣の輪を拡げられるというのが、真氣光の良い所でもあります。
しかし、周りの人が理解してくれなくて、なかなか直ぐには、それが思うようにできないということもあるものです。
 「隗より始めよ」ということわざがありますが、氣の性質を捉えた言葉ですので、きょうは氣の観点から、これについて説明したいと思います。
ことわざ辞典を開くと『(1)大きなことをするには手近なことから始めよということ。(2)何事も、言い出した者から始めよということ。中国・漢代の故事で、郭隗(かくかい)という人が燕(えん)の昭王(しょうおう)の問に答えて、国力を充実する ために賢者を招くには、自分のように優秀ではない者を優遇すればすぐに集まってくる、と言った言葉に由来する。もともとは、まず手始めに私、すなわち隗を用いてみなさい、という意』とあります。
 私は、氣というものは波動的な性質があると、よくお話ししています。
波長の似たものは共鳴したり同調したりするのですが、波長の違うものはそれが難しくなります。
例えば水と混じり易いものはたくさんありますが、水と油のように全く性質が違えば、混じることが無いばかりか、ものによっては交わる・接することもできないこともあるほどです。
ですから真氣光という、プラスの氣が素晴らしいと思っても、それが直ぐに理解出来る人と、そうではない人がいるのです。
しかし、氣は少しずつ浸透するものですから、まず誰かが取り入れることで、周りの人も時間とともに理解できる方向に変化していきます。
さらには真氣光を受けようと「言い始めた」人は、既に何らかのプラスの氣の期待を受けてのことですから、まずは「隗より始めよ」、直ぐにでも出来るところから、じっくり自分自身に真氣光を取り入れることです。
そして、それができたなら、少しずつ周りの人にも、氣グッズなどを利用して真氣光を取り入れた生活をしてもらえるように促すのです。
その方の様子を見ながら、話し過ぎてもいけませんし、まったく話さないのもいけません。
その加減が難しいのですが、自分自身に真氣光の氣のエネルギーの充電ができていると、応援してくれるプラスの氣も周りにたくさん増えるでしょうから、その力もあるのです。
時々、少しずつ話しているうちに、ある時、急に理解を示してくれるときがあるものです。
焦りは禁物、まずは隗より始めよ。
(中川 雅仁)
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(52)善は急げ

 先週、私は「出鼻をくじかれる」とマイナスの氣の関係について話しました。
このようなマイナスの氣の影響を受けないように、昔から人は経験的にいろいろなことわざを残し教訓を与えています。
「善は急げ」という言葉にも、氣の観点から大事なことがあるので解説します。
 ことわざ辞典を調べてみると『良いと思ったことは即座に実行せよということ。通常はこの後に「悪は延べよ」と続けて対句形式で用いることが多い。善の解釈に二通りある、一つは人や社会への善行とする見方。善を行うには己の欲望などに打ち克つ心が必要だから、速やかに実行しないと悪の誘惑に負けるというもの。もう一つは善を自分にとってよいもの、好都合なものといった意に解する。好機は一度逃すと二度と巡って来ないかもしれないから迷わずにやれということになる。江戸時代に多くの用例がある。』とあります。
 私たちの周りには、プラスの氣とマイナスの氣のどちらもが存在していて、両方が私たちに影響を与えています。
プラスの氣は、守護霊のように一生懸命に応援しよう、支えようとしてくれています。
一方マイナスの氣は、先週解説したように、体を失うときに辛い・苦しい気持ちが強く、氣のエネルギーを極端に失ってしまった魂で、自分が不幸だから、その人がいつまでも不幸なままでいて欲しいと画策するというものです。
 私たちは、プラスの氣の応援によって、その人の魂の輝きが増える方向に、いろいろなことを実行しようとひらめくものです。
ところが、それに対して、光を増やして貰っては困るマイナスの氣が、ジワジワと邪魔をしてくるのです。
例えば、ことわざ辞典が言うように己の欲望が湧いて来ることもあるでしょうし、出来ない理由がいろいろ思い浮かぶかもしれません。
また、日頃からマイナスの氣の邪魔が多いと、プラスの氣が一生懸命に好機を作ろうとしても、なかなか作れるものではありません。
プラスの氣の気持ちになってみると、やっと苦労して作った好機を簡単に逃されると、また一からやり直しとなるので、かなり辛いことだと思います。
ですから私たちは、二度と巡っては来ないかもしれないぐらいの気持ちで、それを掴もうとすることが大事、つまり善は急げということになるのです。
 また、「悪を延べよ」も大事です。
例えば、勉強しなければいけないのに、見たいテレビ番組があったとします。
録画して先延ばしにすると、本当に見なくてもよいものは、そのうちに忘れてしまうかもしれません。
マイナスの氣の誘惑を遠ざける一つの方法です。
さらには真氣光を受けることでも、マイナスの氣をプラスにできるので、「善は急げ、悪は延べよ」が一層容易になるのです。
(中川 雅仁)
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