以前、私がある女性に真氣光を中継していたときの話です。彼女は日頃から何か胸苦しい感じがすると言っていたのですが、氣を受けているうちに突然ゴホゴホと喘息のような咳をし始め、とても苦しそうな状態になりました。私は、マイナスの氣が浮いてきたと思い、より集中して氣を中継させていただきました。
彼女は最初、苦しさに顔をゆがめていましたが、少しするとだんだん楽になってきたらしく、咳も少なくなりました。「あー、苦しかった」と一言発し、その後男性のような口調で話を始めたのです。「俺は、炭坑で長い間、働いていたんだ」とか、粉塵ですっかり喉と胸をやられて、長い間とても苦しかったのだけれど、今はすっかり楽になったと言うのです。毎日毎日、穴の中に入っては、石炭を掘っていたのだそうです。話を聞きながら、私は、その生活を想像してみました。身体がくたくたになるまで掘り続けていたわけで、「何の楽しみ、何の希望があったのだろう」と、ふと思ったのです。彼が言うには、食べていくためには、つまりお金のためには、働かざるを得なかったというのです。彼には妻も子供もいて、毎日働いても食べていくのが精一杯、贅沢なんか全くできなかったようです。その時、私はそんな彼の人生がかわいそうにも感じたのでした。
しかし、彼はその後、言葉を続けました。「でも、俺の人生は充実していた」というのです。最初、私にはわからなかった事ですが、彼には「一生懸命働いて家族を養う」という大きな目的と希望があったのです。そしてそれは魂を輝かせるための強い光になっていたようなのです。「今生きているやつの方がかわいそうだ。生きていくのは、たやすくなったが、希望が無い。充足感がないんだ」と言うのです。「俺は身体は苦しくてたいへんだったけど、光に向かって生きていたようだ。だからこうやって早い時期に光の世界に行けることになった」とも・・・。そしてしばらくして「光が見えてきた。行かなくてはいけない」と言って居なくなったのです。私はこの時、たいへんだけれど希望を持って一生懸命生きるということは、強い光になるということを教えてもらったのでした。心の充足感です。それは単に、毎日が楽しく面白いという生活では無く、時には辛くて苦しいのかもしれません。しかしそれは確実に、表面的な一見マイナスの気持ちによるマイナスの氣も吹き飛ばす程、大きな光をもっているのでしょう。
(14)ご先祖様が怒っている
亡くなった方々の中には、生きているときの気持ちがそのまま続いている人たちが、たくさんいます。ずいぶん前の話になりますが、そのころ会員になったばかりのAさんからご先祖様についての相談を受けた事がありました。Aさんは真氣光に巡り会う前に良くないことが立て続けに起きるので、霊能者の所に行き見てもらったというのです。その時言われた話には、Aさんは経済的に負担になった家と土地を手放したばかりだったのですが、何代前かのご先祖様が出てきて、その事について怒っていると、言われたというのです。「再び買い戻すわけにはいかないし、どうしたら良いのでしょうか」というのが、その時の相談でした。
このような話は、よくあるものです。マイナスに傾いてしまった魂さんの中には、この世にまだまだ未練があったり、こだわりがあったりするものです。もしかしたら、このご先祖様は、生きている子孫に対し、自分達の築いてきたものに対して気づいて欲しくて、いろいろなことをしたのかもしれません。しかしこの世の現実は厳しく、生きていくということは大変なことです。ですから、売りたくないと思っても、お金が必要になったり、家族等との事情もあるでしょう。時代も状況も変わり、生きている私たちにとって亡くなった方々の意見を聞いているわけには、いかないことがたくさんあります。
真氣光によって、生きている人の心も変わるのですが、亡くなった方々の心も変わります。私はその時Aさんに「ハイゲンキをして真氣光の氣をご先祖にも送ってください」と答えました。真氣光の見えない氣は生きている人の心を穏やかにするのと一緒に、亡くなった方々の気持ちも穏やかにしてくれます。いろいろなこだわりが、だんだん氣にならなくなってくるものです。多分、ご先祖様はその家系の事を心配して、「良かれ」と思って意見をしたくなったのでしょう。しかし、たくさんの氣が届くことによって魂がより一層光り輝き、高い次元に進めるのです。その結果いろいろと言いたくなる気持ちも無くなって、もっと高いところから見守ってくれるようになるものです。つまり「どんな風になっても、私たちが力を貸してあげるよ。安心しなさい。」という感じでしょうか? その頃には「何々家の土地ではなくて、あれは地球の土地なんだ」という気持ちになっているのかもしれません。
(13)先祖に恨みを持っている
よくテレビ等でも霊的な話として興味本位に取り上げられるのは、「おまえの先祖がしたことに対し恨みを持っている」と言って出てくる魂の話です。たとえば、私の何代か前のご先祖が金持ちで、金貸しをしていたとします。厳しい取り立てをしたことにより、借りた人が強い恨みを持ったまま亡くなると、その恨みというマイナスのエネルギーが今生きている子孫に矛先が向いてくるというような場合です。つまり霊は自分が辛かったということを何とか分からせようと、その子孫を苦しめようとするのです。しかし霊的な世界では、実際に苦しめてみても、一向に氣が晴れないのです。それで、もっと辛くさせてやろうとするのですが、マイナスの氣がマイナスのエネルギーを呼び込み、その魂はさらに光とは遠い影の存在になってしまうのです。
このようなことは真氣光を送っていても出て来る場合があり、氣を受けている人が「こいつの先祖に苦しめられた」と言うのですが、生きている人には身に覚えのないことです。こういう場合「ご先祖がやったことを、どうしてこの人に仕返ししなければいけないのか」と、説得しても当の魂は一向に聞き入れようとしません。こちらは、どんどん真氣光を送るしかないものです。そうしてその魂に光が届きはじめると、だんだん辛い気持ちが穏やかになってくるのです。永年の気持ちが晴れるという事はとても有難いらしく、迷惑をかけてしまった方に心からお詫びし、さらに感謝して、今度はその方のためにいろいろなサポートをしてくれるようになるのです。一方ご先祖の方も、恨まれるなど自分達では取り返しの付かない事が解決すると同時に、自分達にもたくさんの光が届くらしく、「××家に光をありがとう」と、とても喜ばれます。
このようにご縁あって、恨みを持った魂さんが出てくるのも、理由があるものです。日頃私たちは、洗心の指標にある「恨み」までは持っていなくても、嫌な人を作ったり、人のせいにしたりして、マイナスの気持ちが出がちですが、それも同じようにマイナスのエネルギーです。いろいろな体験をさせられて「そのようなマイナスの心を少しずつ減らし、いつも周りに光を与える存在になってほしい」ということを、宇宙が私たちに教えてくれるために現れる事なのでしょう。
(12)死んだことがわからない
私は今まで、既に身体を失ってしまった、いろいろな魂さんに遭って来ましたが、その中には自分が「死んだ」と気がついていない方たちがたくさんいました。つまり突然死んでしまったが、生きているときのように意識があること、違う人の身体だが自分のもののように使えていることから、死んだという感覚がないのだと思います。
もうずいぶん昔のことですが、私が氣を送っていると、最初は頭が痛いとうなされるように訴えていた人が、痛みが薄らいでくると「あれ、ここはどこだ?」と言うのです。事情を聞いてみると、どうやら交通事故で突然亡くなり、わけがわからないまま(当人はそれまでと同じように生きていると思っていた)違う人の身体にいたらしいのです。
このような場合、その魂は全く無意識に、よくわからないまま違う人の身体に入ってきたということになります。つまり交通事故に遭ったその人が、なんらかの事情であの世に行けないでいるところに、生きている側が波動的に同調した、どこか共通する心を持つ魂を引きつけてしまったと言ったらよいでしょう。
心がマイナスに傾いて魂に光を失ってしまい、身体が亡くなったのに、あの世に行けない例を今までも数多くお話ししてきました。私がこの時最初に興味をもったのは、心にもマイナスがあったのでしょうが、「死んでも意識のある魂として命は継続する」「あの世の存在を知らない」ところにも原因があったように思います。科学万能の現代では、まるで宗教的なおとぎ話のように「魂」や「あの世」の存在というものが軽視されていますから、この方が特別ではないでしょう。広く一般の人にも、魂の存在が普通に語られることの必要性を感じたのでした。
さらにもう一つ私が興味をもったのは、身体を失った魂なのに、亡くなる前と変わらずに違う人の身体に存在していたということです。気がつかないくらい心の持ち方が似ていたということでしょう。このようなことはよくあることで、私たちは誰でもマイナスの魂の影響を受けるもののようです。少しでもマイナスの心を減らしていこうと自分自身で努力することで、そのような魂にも気づきを与えます。さらには真氣光の光が、それを加速してくれるのです。
(11)霊的な反応が強くなる
私が真氣光を何回も中継してきて、分かったことがあります。霊的な反応が出てくるときは、必ずその反応が一時的に強くなって、ある時点でピークに達し、その後どんどん弱くなって消えていくということです。先代も良く言っていたことなのですが、先代の言葉に代えると「消えるために現れる」ということです。これは何か霊的な反応が出るときは、例外なく必ずそのようになります。たとえば痛みが出てきたとしましょう。その痛みが霊的な現象で、何か魂の心の痛みであれば、それは氣を受けるうちにどんどん増してきて、あるときピークに達します。すぐに違う別の痛みが出てくる場合もありますが、その後弱くなって必ず消えていくのです。また、体ではなく心に表れる反応の場合、たとえば悲しみを訴えている魂であれば、その悲しみがどんどん強くなりピークに達し、その後同じように消えていくのです。ですから不思議ですが真氣光を受けるうちにどんどん強くなってくるマイナス反応であれば、それは何かマイナスに傾いている魂の影響と考えるのが良いでしょう。
私が以前20代の青年に氣を送っていたときです。最初は静かだったのに「てめー、このやろう、殺してやる」と突然大きな声を張り上げ、両手を振り回して暴れ始めたことがありました。麻薬中毒で喧嘩をして殺されたらしいのです。普通なら、怖くなってしまうでしょうが、何食わぬ顔でせっせと氣を送り続けました。一時はたいへんな状態という感じでしたが、その後次第に静かになり最後には、ご本人が我にかえり「何があったのか?」とビックリしておられました。
このような事が、何故起こるのでしょう。私は、心がマイナスに傾いている魂が、潜んでいられなくなって出てくる反応だと考えています。ご本人とは別の魂にしてみたら、いつまでもその体を自分の体のように使いたいと考えるでしょう。その場合には、ご本人には知られないようにしているのが一番良いのです。何か発見されるきっかけを見せるということは、その魂にとってはとても不利なことです。しかし、真氣光のエネルギーを受けるうちに、どんどん浮いてきて、発見されることになるわけです。その時こちらが不安に思うと氣の中継量が減り、向こうの思うツボ、こちらの心の乱れはすぐに見破られます。
ですから私は、ハイゲンキでも音氣でも、真氣光を受けていて強く出てくる一見マイナスの反応があれば、それは「効果が出ている、良かった!」と思うようにしています。反応が出て一時はつらいですが、その後は必ず軽くなるのですから。
(10)畏敬の念を持って接する
私は、最初は痛がり苦しがっていた魂が、どんどん真氣光のエネルギーによって楽になり光の世界に旅立って行かれる状況に、数え切れないぐらい立ち会いました。会長として各地を廻り始めて一年ぐらい経過していたでしょうか、いつしか自分のどこかでそれが当たり前と感じるようになっていました。氣を受ける人を早く楽にすることに目が行き過ぎ、魂達を早く光の世界に送ろうと、彼らのことを思いやる心のゆとりがなくなっていたのです。しかし、その重要性を教えてくれたのは、あるとき出てきた侍の魂でした。
私は女性に氣を中継していたのですが、急に肩のところを抑えて痛がりだしたのです。「何かな」と思いながら氣を送り続けていると、「腕が無い、腕が無い」と訴えるではないですか。こちらが「どうしたのか?」と聞くと、誰かに切り落とされたようなのです。痛みが無くなれば、そのうちに光の世界にいけるだろうと思い、あまり深い関心を持つことなく氣を送っていました。そうすると、痛みは無くなったようなのですが、執拗に腕が無くなったことを訴えるのです。私は、「なぜそんなに悔やまれるのか」理解することができず、聞いてみたのです。そうすると「刀が持てなくなった」と答えるのです。つい私は、この侍が肉体の無い魂の世界に存在しているのに、腕が無いことを嘆いていることに可笑しさを感じ「今は刀のいらない時代だよ。あなたは死んで身体が無くなったのだから、そんなことはもう忘れて光の世界に行きなさい」と言ったのです。そうすると、「おまえには、わからないだろう。武士にとって刀が持てないことが、どんな意味を持つかということが。」と強く静かに語り始めたのです。私は最初愚痴話かと思ったのですが、彼が言わんとする事にすぐにピンと来て、事の重大さに気がついたのでした。
当時、武士は刀を持つことで、本人とその家族の生活が保障されていました。妻も子もこれから生まれて来るだろう彼の孫も、その侍の腕にかかっていたのです。しかし刀が持てなくなったことによって、家族全員の生活と先祖代々からの期待が奪われ、さらには未来への夢も希望も無くなったのです。考えてみれば、たいへんな時代です。今のように多種多様な職業があるわけではありません。武士という職業ができなくなったことへの絶望感は、私たちには想像もつかないでしょう。そして何より重要なことは、そのような方々が生きてくれていたからこそ、今は刀もいらない自由で平和な時代があるのです。私は、いかなる魂にもかけがえの無い一生があり、その一つひとつの魂の積み重ねが、私たちの生活を作り上げていることを忘れていたのです。そして、それが心からわかっていれば、自然に畏敬の念を持って接することができるのです。<つづく>
(9)魂達は自ら氣づく
以前、「エネルギー的にマイナスに傾いて身体がなくなってしまった魂の場合、エネルギー不足で自分で行動するというわけにはいかず、磁石と釘が引合うよう知らないうちに、波長が合う人や物に引き寄せられてしまうようなのです。」とお話ししました。私はたくさんの方々に真氣光を中継させていただいていますが、氣を受けているご本人とは全く別人格の方(魂)が出てくることがあり、その体験からいろいろな気づきがありました。私がその時、どのようにして魂達と接するかについて、少しお話ししましょう。
原則的に魂達と無駄な会話はしないようにしています。話す内容についても咳やあくびと同じように、あまり気に止めないようにしています。まずは彼らが光に向かえるようにして差し上げることが第一の目標ですから、「個人的に知りたい」など興味本位な事柄は必要有りません。例えば、最初は苦しい苦しいと言われて出てくるのですが、そのうちに少し楽になると「事故で死んで、・・・・こんなふうに悔いが残っている」と訴える方がいます。真氣光を知ったばかりの頃の私は、「何の事故だろう」「どこで起きたのか?」「いつ頃の話だろう」等いろいろ聞きたくなったものです。聞くと、それなりに話し始める方もいらっしゃるものですから、ついつい長話になったりしました。(笑)これは「その方の苦労をわかる」という面では良いのですが、深入りし過ぎたり、目的からそれると、意味がありません。
また、訴えている内容が「こんなふうに悔いが残っている」と言われれば、「悔いが無くなるように、どうにかして差し上げなければいけないのでは?」と、いろいろできることを考えたりもしました。しかし、自分達には、どうにもならないものが殆どです。また、どうにかなる場合でも、話を聞くことにより、そちらに氣を取られます。私は、そちらに意識が向いてしまうより、まずたくさんの光を送るという事に集中するようにし、魂達にも、それを自然にわかってもらうようにしています。そうすると魂達の自立を促し、「悔いのあったこと」が真氣光のエネルギーを受けているうちに、自然に「悔いる必要は無かったのだ」と、気づくのです。諭したり、教えたりなど何も話していないのに、真氣光のエネルギーが魂に入り込み、魂の状態が高く引き上げられるのでしょう。不思議な話ですが、魂自身が自ら気づくのです。<つづく>
(8)物に入り込む魂
目に見えない魂は、生命エネルギーとして空間に漂うばかりでなく、物に入り込む場合もありますし、土地に留まる場合もあります。なかでも、物質的なよりどころのない魂は、物に入り込んでしまうことが多いようです。広く考えると水や土地、人の身体なども物の一種と考えられます。一般的な物の場合、針のような小さなものから、建物など大きなものまで、いろいろあげられるでしょう。何かその魂と意識的な同調があると、なおさらその物へ強く引き付けられるようです。よく聞く話としては、生前大事にしていた人形とか服とか、思い入れがある宝石などです。また古井戸や学校の校舎などもよく話に出てきます。そういう物や場所は、その氣を感じるからでしょうか、どこか寂しげで独特の雰囲気を持っている場合があります。だからといって、魂がそこに宿っていても特別なことでもなく、何も怖いことではありません。
私は、物を使う人の心がまえが重要だと思っています。定期的に手入れをしたり大事に感謝して物を使えると、使う人からプラスの氣(つまり光)が出てきます。それが、そこにある魂にエネルギーを与え、より一層その物の氣を高め、それが使う人に再び返ってきます。よく昔から職人さんが、自分の使う道具を大事にするという話を耳にしますが、どんどんプラスの循環が働く良い例だと思います。物はどうして生まれてきたか? 何か本来の役目があって作られます。つまり使われて始めて、本来の役割を全うし喜びの氣が集まるのです。
そういう意味では、家の中に不要なものが多いと、使われなくて悲しい・寂しい氣が集まってきます。まず、安いからといって不要な物まで買う必要はないでしょう。または、要らないという人から譲り受けるとか、もったいないと思っても、もしその物が使われることがなかったとしたら、どんどん「寂しい」と思っている魂が入り込み、物自身も悲しむものです。また、使うことがまったくないのに、もったいないと捨てられない場合があります。それでも使うことがなければ、やはりマイナスの氣が集まります。建物もそうです。いつも掃除や手入れをすることによって、プラスの氣が宿ります。もしマイナスの気持ちをもった魂が入り込んだとしても、光を浴びてプラスになるでしょう。不要な物の場合は、誰か必要な方にもらっていただくのが一番よい方法かもしれません。物を所有するということは、その物が持つ氣の部分にまで責任をもつということですから責任重大です。
そろそろ年末の大掃除のシーズンがやってきます。マイナスの氣を溜めないように、一年間の感謝の気持ちで定期的な手入れをしっかりしましょう。
(7)魂を考える3
真氣光は、先代が夢でハイゲンキを作ったときから始まり今年で15年ほどになりますが、大きなエネルギー的な変化を遂げています。それは、宇宙的な進化もしくは、より次元の高いエネルギーへの移り変わりとも言えます。’90年に下田で研修講座が開設される以前は、真氣光によって出てくる霊的な現象に対して、まだ理解も不十分でした。先代は氣を送ると騒いだり暴れたりし始める霊に対し、最初は注意深く観察していましたが、そのうちに声をかけるようになったのです。それはただ「出て行け」と叱り付けるようなものではなく、先代の性格からでしょうか、霊に対しても思いやりのある暖かい言葉でした。今居るのはどこで、そこに居てはいけないのだという事をわからせて、本来行くべき光の方向を教えるという事だったのです。「除霊では駄目だ、浄霊だ」とよく言っていたものでしたが、その人の身体から単純に出て行かせる“除霊”では、霊は今までと何も変わらないため同じような事を繰り返してしまいます。先代は、霊がその人の身体から出た後、その霊がどこに行くのかということまで考えていたのです。霊に対して、気持ちを変え、今までのように彷徨うことなく、より高い魂の次元に進めるよう促す事、つまり魂の光の量(エネルギー量)を増やす“浄霊”が必要だという考え方です。
その後、先代は自ら病に倒れ、全てのことには意味がある―病気になるのも、霊を引き寄せることにも意味がある、病気や霊は悪者ではない―という思いを強くします。
私が会長になってからも、たくさんの霊的な現象がありましたが、最近では光の方向を教えるというよりは自らそれに気づき、中には、なぜいろいろな苦悩を背負ったまま身体を失くし彷徨ったのかという事にまで自然に気づく魂もいたのです。つまり、真氣光の波動的な変化もあり、出てくる霊もより高い次元に旅立てるようになったということのようです。そのような霊は皆、心が楽になったことへの感謝の念と、さらには「これからは、生きている人達を見守りたい」という思いで一杯なのです。
逆にいえば、そういう手助けをしてくれる魂が、真氣光の周りにたくさんいらっしゃるということが、真氣光の波動を変えているのでしょう。“除霊ではなく浄霊”することにより、自然に真氣光が進化するということなのかもしれません。もう少し付け加えるなら、霊的な現象や病気さらにはいろいろな問題も、悪者と決め付け固執するのではなく、「一見はマイナスの現象だが、それは何か大きな存在が自らの成長のために与えてくれたもの」と考えられることが重要なのです。
(6)魂について考える2
前回のお話をまとめると、命があるものとは何らかのエネルギーがあるもの、それは魂みたいなものが存在するということで、そして身体が有る無いに関わらず、たくさんの魂がこの世には存在するということです。それらがお互いにエネルギー(光のようなもの)を交換し合いながら、全体が成り立っているようなのです。植物も動物もその対象です。私は、意識をもった動物の場合そのエネルギーの量は大きくて、意識の力を利用することで大きく増やすことが可能になると推測しています。意識の力とは、心の持ちかたです。すごく簡単に言えば、心の状態がプラスに変化すれば光が増して明るくなり、逆にマイナスになれば光が減って暗くなるということです。人は、誰かに憎まれると暗くなり、勇気付けられると明るくなります。エネルギーをあげたり、もらったりを繰り返しているのです。
例えば、よく話題に上る霊ですが、たいてい恨んでいるとか、苦しんでいるとか、悲しいだとか、呪うとかマイナスの心になっているようです。しかし赤ちゃんの頃から恨んでいる人がいるでしょうか? 私が思うに、いかなる霊も以前は、そのようなマイナスの心ではなかったに違いない、何かのきっかけで、たまたまそういう心の状態になってしまい、それが続いてしまっているだけだと思うのです。つまり元々は輝いていた魂も暗くなることがある、つまり変化するということです。逆に言えば、暗くなっている魂も必ず光り輝くよう変化できるということです。そして、エネルギー的に大きくマイナスに傾いて身体がなくなってしまった魂の場合、エネルギー不足で自分で行動するというわけにはいかず、磁石と釘が引き合うように知らないうちに引き寄せられてしまうようなのです。どうしてでしょうか?
私は、この世に起こることは意味があって起きていると思います。そうでないとすると、意味のないことが偶然に起きているということになりますが、そう考えるには今までの生命や人類の進歩があまりにもうまく出来過ぎています。何か原因があって、あることが起き、それには意味があるのではないでしょうか? 全体の中のほんの一部が原因と結果の関係があり、他の部分にはそれがないというのも妙な話です。全てに原因と結果の意味合いがあるのだけれど、我々にはその関係がわかり難いと考えたほうが自然のような気がします。つまり何が言いたいかというと、霊的な現象が起きるにも意味があり、原因があるということです。つまり、以前は光り輝いていたにも関わらず暗くなってしまったということ、引き合ってある人のところに来てしまったというのにも、原因と結果があり意味があるということです。そして、もしその原因が除かれない(変化しない)ようであれば、またいつか同じ結果が起きると考えられるでしょう。〈つづく〉