才能のはなし

 昨日、長野県岡谷での無料体験会とセッションに行って来ました。
諏訪湖のほとりも山の上のほうも、あちらこちらに桜がとても綺麗でした。
今年は、天気の具合で、一気に咲いているようです。
私の家の周りの桜は、すっかり花を落として、ふつうの木になっていましたので、もう一度、よいお花見ができました。
桜ほど日本人、いや世界的にも、老若男女、万民に愛されている木も珍しいものですが、私などは花が咲いて初めて桜だとわかるような次第です。
 「桜は花に顕れる」ということわざがあります。
辞典で調べてみると「ふだんは常人と変わらないように見える人が、何かの折に優れた才能を発揮することのたとえ。
他の木に交じっている桜は、ふだんはまったく目立たないが、一旦、花が咲けば一目でそれと分かるということから。
平安時代の『詞花集』にこの言葉が詠まれた歌があり、平家物語などにも見られる。
近世では常用されていたことわざである」と、あります。
たくさんのご先祖様たちも、桜の花には心を癒されていたことでしょう。
 この言葉の意味に「何かの折りに優れた才能を発揮する」とありますが、私は小さい頃、周りの子の才能を目の当たりにする度に「凄いなー、才能があったらいいなー」と、よく思っていました。
ある時、分かったのは、才能がもともとあったのではなく、続けてやっているとだんだん身に付いてくるものであり、その陰には、より高みを目指そうと磨いた、たくさんの努力があるということです。
 特に何の才能もない私が、真氣光という宇宙エネルギーを知り、興味が尽きぬまま、これを皆に利用して貰いたいと続けていますが、私は「気功家」ということですから、私をよく知らない周りの人から見れば、これも「才能」だと思うことでしょう。
真氣光は、真氣光研修講座を受けると誰にでも氣を出すことができます。
ただ私の場合、何年にも渡って、たくさんの人に氣を送りながら「宇宙からの真氣光は、どうなってんだろう」と考え、少しでも強い氣を中継するにはどうしたら良いのかを追求してきました。
自分では、よく分かりませんが、それを「才能」と思う人がいるかもしれません。
 私が考えるには、誰にでも才能はあるもので、才能にできるポイントは、好きになれることと、磨く努力を続けられるかどうかです。
アスリートなどは、体力的な限界があるから時間的な制約がありますが、我々は何年掛かっても良いのですから、自分に合った方法が見つかれば、何からでも才能が見出せるというわけです。
ちなみに真氣光を長い間続けておられる、このニュースの読者は、相当な才能の持ち主だと思うのです。