「知らない」ということがわかること

 先日のこと、夜8時過ぎに会社を出て、いつものように自転車で帰宅したのです。
ところが10分も経たないうちに電動自転車の電源がおちてしまい、バッテリーは満充電なのに、どうしても電源が入らないのです。
自転車が重くなり、残り10km、坂が多いので、すっかりくたびれてしまいました。
夜ですから昼間の暑い時でなくて良かったとか、雨の心配はなさそうで良かったとか、いいとこ探しをしながら、「トホホ」という状態で家に辿り着いたのでした。
 私は、すっかり壊れたものと思い込み、「修理はどうしたら良いか?運ぶにしても重量物ですから、どうしたものか」と、次の日に購入した店に電話してみたのです。
すると数点の対処方法を教えてくれ、恥ずかしながら、私は取扱説明書をよく読んでいなかったことに気がついたのでした。
 この自転車は、バッテリーでモーターをただ回してペダルを軽くするのではなく、小さなコンピュータで制御する仕組みになっていて、そのコンピュータにもバッテリーが入っていたのです。
それが充電されておらず、取り外して電源に繋いだら、すぐに使えるようになるではありませんか。
私は、最近の家電製品をはじめ、いろいろなモノに付いている取扱説明書を、だいたいのところがわかれば使えますから、じっくり読むことをしておりませんでしたので、大いに反省した次第です。
 ところで、よく考えると、私たちは何も知らないまま、いろいろなことをしています。
家電製品はもとより、レバーを倒せば水が出るのも、水洗トイレで水が流れるのも、はたまたズボンのファスナーが閉まるのも、原理や仕組みまで詳しく人に説明できるほど知らなくても、困らずに何でもできてしまいます。
経験に基づく推測というものが、けっこうな幅を利かせているのだと思うのです。
 ですから、知らないことは全然恥ずかしいことではないということになります。
しかし、ここでのポイントは、自分は知らないのだということがわかり、興味を持って理解ができたり、少しでも分かろうと努力できることで、とても収穫になることがあるということです。
 これは、真氣光でも言えることです。
「分からない、知らない」を意識できることは、分かりたい知りたいに繋がり、急速に自分のレベルを上げてくれるのですが、マイナスの氣が、そこに意識を向けさせないようにしていることもあります。
ですから何か問題が起きた時にも、直ぐに何故かは分からなくても、どうしてだろうと氣を受けてみることです。
いろいろな経験をさせられて、少しずつ理解が深まる世界なのだと思うのです。