以前、私が真氣光を送っていると、明らかに氣を受けている方とは違う口調で、別の魂さん(らしい?)が話をしはじめました。私は一生懸命真氣光を送り、その方は光の世界に行かれました。その時、彼女(だと思う)の話が印象的だったので紹介します。氣を受けていた人は、仕事に疲れ「自分は、他の人に比べて何もできない」とすっかり自信を無くしていました。多分、そのマイナスに同調して来られた、はじめはマイナスの魂さんだったのでしょう。
最初その魂さんは「私は病気で身体が満足に動かなかった。何もできない。何もしてあげられない。私には生きている資格が無いと思った。早く死ねばいいと思った。だけど死んでみて、気持ちは何も変わっていない事に気がついた。身体のある無しに関係なく、私は何の役にも立たない。」と言っていました。誰のためにもなれないという、絶望感。それが死んだら終わりになると思ったのでしょう。しかし何も変わることなく、同じ気持ちが続いていたのです。苦しかったことでしょう。しかし氣を受けるうちに、考え方が変わってきたのです。「だけど、私が死んで、みんなが悲しんでくれた。何もしてあげられないと思ってたけど、感謝の気持ちをたくさん、たくさん、あげれば良かった。」と言うのです。どんどん真氣光の光が、その方の気持ちを変え、いろいろな気づきを与えます。
「目に見えることだけが、人間の価値じゃない。その人の存在が、安らぎや希望を与えることがある。目に見えないことでも、人のためになることがある。この人にも教えてあげてほしい。もっとバリバリ仕事をして、みんなに認めてもらいたいと、この人は焦ってる。」マイナスの氣が、プラスの氣の存在に変わり、身体が無くなっても、できることがたくさんあることがわかり始めます。「自分自身を責めている人がたくさんいるはず。居るだけで、だれかのためになっていることがたくさんある。目に見えることをしていないと、分かってもらえないと思っていた。感謝されたい、認めてもらいたいと思っていた。そうやってがんばって認めてもらう人も必要。認めてもらわなくてもいい人も必要。自分の役割が分からなかった。私は光になります。そしてみんなの光になれます。私にチャンスをくれてありがとう。死んでから人の役に立てると思わなかった。ありがとう。」そう言って光の世界に行かれたのでした。みんな、誰かに確実に光を与えている光の存在です。しかし、一時それを忘れてしまうことがあります。真氣光が、身体の有る無しに関わらず、それを思い出させてくれるのでしょう。