昨日夜から私は、今日からの真氣光研修講座開催のため富士山麓に来ています。
昨日は雨模様でしたが、今日は朝から天気も回復し、真っ青な空をバックにした大きな富士山を目の前に、この原稿を書いています。
こちらの研修施設に来て『世界遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」』というポスターを目にしました。
こちらの研修施設も両隣が新屋山神社と北口本宮冨士浅間神社であり、この地もまた信仰の中心のようなところです。
富士山に限らず、日本人は八百万(やおよろず)の神と言いますが、いろいろなところに神様を見出しています。
富士山は、そんな日本人の心のよりどころであり、今回の世界遺産登録は本当に喜ばしいことで、この時期こちらで研修をさせていただくご縁を有難く感じるのです。
私は小さい頃、悪いことをしたり、言われたお手伝いを分からないだろうと手を抜いたりしたときに、祖父母や両親から「神様が見てるよ」とか「罰が当たるよ」などとよく言われたものです。
昔は、本当に何処からか、いつも何かに監視されているのかと思ったものですが、氣をやるようになって、それも合点がいきました。
私たちは、何かをすることで、その行動による経験で、魂のエネルギーを増やし成長していくのですから、何もしないとか適当にしてしまうことで、せっかくプラスになるはずのものが、ほんの少しのプラスまたはゼロになってしまうことにもなります。
さらには、分からないからといって蔭で悪いこと、自分の利益になることだけをしてしまうと、とんでもないマイナスの氣の影響を受けてしまうことになるのです。
それが仕事であれば、なおさらのことです。
仕事とは本来やるべきことをやり、さらに工夫・努力をして自ら成長させてもらいながら生活の糧となる、お金をいただけるわけですから、それができなければマイナスの氣のエネルギーから、なかなか離れられなくなるのは当然のことなのです。
見えないこと、自分の良心、他の人の気持ちを軽く扱うと、自らの心も何ものからも尊重して貰えなくなり、やがては何かに支配されたように落ち着きのない不安を抱えた心になってしまうのです。
ですから楽な方に流されるのは一瞬でも、その道から抜け出すのは、とても時間とエネルギー、心の強さが必要になるということを肝に銘じて、一つ一つのことを努力して生きていくのが大切なことなのです。
そのことが「神様が見ている」と言われた理由だったのです。
(中川 雅仁)
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