もうすぐ父の日ですね

 父の日は母の日に比べると、お店のプレゼントコーナーも、やや盛り上がりにかけているような気もします。
氣の観点から言うと、お父さんやお母さんは、最も縁がある人ということになり、氣のエネルギーも行き来しやすいということになりますから、マイナスの氣ではなくプラスの氣が送れるようにして、どちらも大事にしていただきたいと思います。
私は、父が亡くなって27年目に入りましたが、毎月の真氣光研修講座では、皆さんに先代のビデオを見てもらっていますので、何か身近な存在のような気がしています。
 今回この原稿を書くにあたり、我が家の強力氣グッズ、真氣光フレームダブルの中から、父方の除籍謄本を取り出してみました。
私は、十年程前から、先祖を含む家族に真氣光が自動的に送られるように、除籍・戸籍謄本を取り寄せ、真氣光フレームという氣を送る装置に入れています。
 私の父は本名は数字の一と書いて(はじめ)、この名前の由来を昔聞いたことがあります。
謄本を見るとよくわかるのですが、父の前にお姉さんが二人いて、生まれて間もなく亡くなっています。
昭和のはじめのことですから、医療が進んでいるわけでもなく、さらには北海道の山奥ですから、今のようにチョット車で移動というわけにも行きません。
冬は馬ソリだったと聞いています。
子供を亡くして、さぞ祖父母は残念だったのでしょう。
父は3番目に生まれて来た子ですが、もう失いたくない、元気に長男として生きてほしいという思いから「はじめ」になったとのことです。
父の下にも亡くなっている弟たちが居ますから、その時は、どんな様子だったのだろうと、父が生きている時には思いもしなかったことですが、今となっては聞きたいことがたくさんあります。
後で考えることは多いものですが、そんなふうに思い出すこと、気持ちを向けるということも、見えない氣のエネルギーを送っていることになります。
 ところで、いつも父からは氣のエネルギーが送られてきていて、私は何となくそれを感じることがあります。
この真氣光を始めた人ですから、今でもエネルギーは潤沢にあり、出来ることも多いに違いありません。
もはや、何かを言葉で伝えてくるという次元ではないのだと思うのです。
 誰にもプラスの氣という存在があり、私たちを見守ってくれています。
深いところで私たちの意識に影響を与えているのだと思います。
ただ、マイナスの氣も影響を与えて来ますので、しっかりと自分の頭で考え、採用するものしないもの、進むべき方向を判断することが大事です。
真氣光を受けることでも、マイナスの氣の影響は少なくできますので、日頃から活用して欲しいと思います。

明るい氣の応援を感じよう

 6/9から鹿児島県は姶良市の「真氣光庵あかり」がスタートしました。
この「あかり」につきましては、3/25付の1233号に創設の経緯を書きました。
私は、毎月一回の真氣光レッスンの時には、センターに出向くことにしたのですが、先月は熊本センターに行き、そのついでに鹿児島にも寄ってみたのです。
その様子を私のYouTubeチャンネル「それ、気のせいです」で紹介していますので、ぜひご覧下さい。
当日は、スタッフ河地さんのお兄さんご夫婦も来てくれて取材が出来ました。
映像編集の関係から全収録が入らず続編ができてしまいましたので、またの機会にアップしたいと思います。
 ところで、河地さんに話を聞いている中で、既に亡くなっているお母さんが、真氣光を受けている時に出てきて、「この家を使って欲しかった」と伝えて来たという話があります。
今日はこれをたとえに氣と真氣光の話を説明します。
 私は、見えない、科学でも捉えられないけれど何かしらの働きがある、ですからエネルギーと言っていますが、このようなものの総称を氣と定義しています。
 氣は、いろいろなところに存在していて、私たちは、それを感じることができます。
目には見えないけれど光のようなものと考えると分かりやすく、明るい氣は心をラクにして、暗い氣は気持ちをネガティブにします。
自然の中で清々しいと感じたり、嫌な雰囲気の場所があったり、思いや念みたいなものも氣です。
また、私たちの体の中にも生命エネルギーと呼ばれる氣があり、この氣は死を迎え体が消滅しても、氣として残ります。
 真氣光は、この空間や宇宙にある氣ですが、氣中継器や氣グッズを使って取り出すことができ、それは私たちの氣を増やす方向に作用することが経験的にわかっています。
真氣光を受けると、自分の中の氣が高まる(明るくなる)ばかりか、周りにも明るい氣が増えるのですが、いつも真氣光を受けることで、この明るい氣が力を貸してくれることも多くなります。
周りに存在する氣を感じやすくなることもあり、周りの氣つまり魂など霊的な存在が真氣光を受けている人の口を借りて声として出てくることがあります。
河地さんのお母さんは、伝えておきたい気持ちが強かったので知らせて来たのだと思います。
明るい氣となっている魂は、氣のエネルギーが増えているので、できることも多くなりますから、河地さんたちに、自分の思いを伝えるばかりか、その前からいろいろなことを計画してくれていたのでしょう。
このように、私たちは真氣光を受けることで、ご先祖にも氣が届き、たくさんの応援をいただけるということになりますから、良いことを見つけ、感謝という明るい氣を送りたいものです。

魂に浸透するエネルギー「真氣光」

 昨日の朝、親友が亡くなったと連絡があり、私は「もう会えないのか」と思うと悲しみで一杯になってしまいました。
彼とは、中学から予備校、大学まで、共によく遊び、いろいろなことを学んだ仲でした。
社会人になっても、時々家にやって来て面白かった昔話をしては、私を楽しませてくれる、気使いの上手い男でした。
彼は3年前にガンがわかり、このコロナ禍で会えない状況が続く中もメールで近況をやり取りしていたのですが、「連絡が来ないなぁ」と、ちょうど気になっていた矢先でした。
彼には、してもらったことは多いのに、何もしてあげられなかったと、いろいろな後悔が湧いてきて悲しくなります。
 いま私にできることは、真氣光を受け、彼に送ることです。
音氣をかけながら氣中継器ハイゲンキを胸の上に置き、目には見えないけれど光のような真氣光のエネルギーをイメージしながら、自分にエネルギーを取り入れ、彼に送っておりました。
 人の体の中には、目には見えないけれど、光のような氣のエネルギーがあります。
人はいつか体を失いますが、体が無くなっても、心(意識)とともに氣のエネルギーは残ります。
意識が死後も継続するのですが、死んだからといって急にそれが変化することはありません。
辛い気持ちが強ければ、氣のエネルギーが落ち暗い魂となって、ずっとそれが続きます。
気持ちの切り替えが、生きている人よりも難しいのです。
だから、生きている人が、故人のお墓参りをしたり供養をするわけです。
気持ちが明るくなれば、氣のエネルギーとともに自由になる度合いも増え、天国とも言うべき、光に満ち溢れたところに逝かれます。
 真氣光という、この宇宙からの見えない光のエネルギ−は、先代が白髭の老人の夢に教わり氣中継器ハイゲンキを作ったのが始まりです。
空間からエネルギーを取り出す機械ですが、これを使うことで、私たちの体の中ばかりか既に体を失っている魂にもエネルギーが浸透し氣を高めます。
そして、この真氣光を集中的に受けると、誰でもこの氣を出せるようになるのです。
真氣光を人に送ることで、その人の口を借りて、思いも寄らない言葉が出てくることがあるのですが、私はそれを魂の言葉として聞くことで、このような魂のしくみと真氣光というエネルギーの役割がわかりました。
 遺された人が、悲しんでばかりいては、亡くなった人は気になってしまい光の世界には逝けません。
真氣光は魂に浸透するエネルギーですから、私のような者の救いとなります。
私自身、真氣光を受けながら、彼の旅立ちを力一杯応援したいと思うのです。

プラスの氣について考えると

 私は、これまでたくさんの人に氣を送ってきました。
しかし、私はもともと氣や体•心の健康のことなどに興味があったわけでもない電機会社のサラリーマンです。
特に霊感があるわけでもありませんし、氣を感じやすいわけでもありません。
 先代は、夢に白髭の老人が出てきて、ハイゲンキの作り方や、手から氣が出ること、皆が真氣光を中継できることなどを教わりましたが、私はそういったことを夢で見ることもありません。
 そんな私が、目には見えない、一見すると怪しく見える氣というものを人に送ったり、その氣が出る物を作るばかりか、氣の会社を経営して四半世紀を越えました。
 この職に就いて最初の頃は、何かピンチに陥ると、私にも白髭の老人が夢に出てこないかと待ち望んだこともありましたが、ある時気がついたことは、それを期待する自分がいるということは、一度出てきたらいつも期待してしまうということです。
つまり、ピンチを自分の力で乗り越える能力は少しも養えないということになります。
それからは、そのような時には、ハイゲンキや音氣などの氣グッズを利用して、たくさん氣を受けながら、よく考えることにしたのです。
考えるポイントは、いま出来ることは何か?それを一生懸命にやりながら考えていくと、違う道が見えてきたり、いろいろ思いつくことがあるものです。
私自身の体験から言えることは、如何に宇宙からの真氣光を信じて、それを受けようと自分なりの工夫ができるか、そして、それを周りに送れるかということで、マイナスの氣の影響が少なくなり、プラスの氣の応援が強くなるのです。
そして、いま出来ることをしていくことで、プラスの氣の応援が受けやすくなるわけです。
 マイナスの氣がプラスに変わり、私たちを応援しようとする力が大きくなっても、何もしないと力の貸しようがありません。
出来ることを一生懸命やっていること、つまり普段の連続した生活の先に、応援の結果が現れるのであって、プラスの氣と言えども何もしないところに突然環境を大きく変えることは難しいのです。
 私は、氣に敏感ではありませんが、氣の体験の積み重ねで、あたかも職人さんが、手を動かすことで勘が働くように、何となく「こうかな?ああかな?」と思いつくようになりました。
後から考えてみても何故思いついたかよくわかりませんから、プラスの氣の応援が働いているとしか考えようがないのです。
 氣については、不思議なことも多々あるのですが、プラスの氣に関しては、すごく現実的で当たり前なことの奥にあるのだと思うのです。

考えなくて良いこと

私は、目には見えない氣というものを、いろいろな角度から見てきました。
知れば知る程、良いことも悪いことも、氣というものに多くの影響を受けているということがわかります。
真氣光で扱っていることは、とても不思議なことで、宗教的な心の話などがありますが、それを頭で理解したら、何をするかということがとても大事です。
真氣光研修講座で学びますが、「明日への誓いを立てて今日一日の反省をする」など、すごく具体的で現実的なことがポイントとなるのです。
 どんなことにも見えない氣の影響がありますから、氣の観点を考慮に入れると理解できることが増えるばかりか、マイナスの氣の影響を少なくし、プラスの氣の影響を強くできることで、人生を好転させることに繋げられます。
私たちは、真氣光というプラスの氣を受けるということができますから、ハイゲンキや氣グッズを使うことで、これができているのですが、さらに工夫をすることで、もっと加速させることができます。
 その一つに、考えても意味の無いこと、考えても仕方がないことは考えないようにすることです。
先日、十代の人が「なぜ生きているのか分からないから、死んでもいい」と言っていました。
既に生きているのだから、意味がわからないと生きられないということではないはずですが、マイナスの氣の影響を受けているから、その悩みから解放されないのでしょう。
また、取り越し苦労の人は「将来はどうなるのか?」と悩みます。
考えれば考えるほど悩みは増し、マイナスの氣が集まります。
これも、できるだけの準備、備えや対策をしたら、それ以上考えてもどうなるものでもありません。
 私たちは、氣と体と心から成り立っています。
そして光のような氣のエネルギーは、自分のポジティブな考えで、自分が行動するから、自分の氣のエネルギーが増えるわけです。
ですから考えるべきことは、現実的に何が自分もしくは周りに光を増やすのか?ということです。
それをしっかりと頭で考え行動することなのです。
不平、不満、心配‥ばかりでなく、空想的なこと、不思議なこと‥他にも考えなくて良いことは、いろいろあります。
 真氣光によって、マイナスの氣にも光が届きプラスの氣に変わります。
プラスの氣は、私たちと周りに、少しでも光が増えるようにと、後押しするように応援してくれています。
光を待ち望んでいるものはたくさん居て、私たちの考えと行動に掛かっているわけです。
プラスの氣の影響を強くするうえでも、考えないことと、考えるべきことの選択は、大切なことなのです。

真氣光のエネルギーに波長を合わせる

 強力な氣中継器が活躍してくれていますので、きょうは氣のエネルギーを効率よく利用するには?という話をします。
真氣光は、先代が氣中継器ハイゲンキを夢で教えられて作ったことが始まりで、私はよく「氣が出る物がある」ことが他のヒーリングなどと違うところですと、お話ししています。
物から見えないエネルギ−が出ているとは、科学的にも証明できないので、なかなか信じられないのですが、使ってみて、それを体験できると、こんなに凄いことはありません。
なぜなら、24時間365日ずっと氣を受けられるということと、もう一つ、氣中継器の仕組みがある程度わかれば比較的容易に引き出すエネルギー量を強くできるからです。
 ところで、私たちの身体の中には、見えない光のような氣があるのですが、それは一様ではなく、調子の悪い所などは影のような暗い氣(マイナスの氣)の影響を受けて氣の滞り(暗くなっている部分)があるわけです。
そこに真氣光という光(プラスの氣)を入れていくと、光を失っているところに光が入って明るくなる、つまりそこに関係しているマイナスの氣がプラスの氣になる、ということが起こるわけです。
これは、すごく当たり前のように思うかもしれませんが、本当は凄いことです。
光(プラスの氣)と影(マイナスの氣)は水と油のように全く性質が違いますから、ふつうは油の中に水を注ぐと分離してしまいます。
水で、ある程度油を取り除くことはできても、油は変わらずに何処かに行くだけです。
ところが、交じりあって性質が全く変わるのですから、大量な光と、そこに強力な何かしらの作用があると考えるべきで、それが可能になるのは、やはり氣を出す物を私たちが使えるからなのです。
 ところで、氣は量ばかりではなく方向性があり、意識の向ける方に働く性質があります。
氣を受けよう、気づきを得よう、理解しよう、影響を受けているマイナスの氣は何だろう、プラスの氣の応援を受けよう等々・・、私たちが意識するから、氣の効果が上がりやすくなります。
たとえば私が氣を送る場合、氣を受ける人が、氣を受けようと意識してくれるから、真氣光のエネルギーの効果が引き出せるわけで、私一人がいくら頑張っても、寄せ付けないところには、氣は届き難くなってしまいます。
意識することで氣の同調作用が働くということなのですが、これはエネルギーの大小に関係しません。
ですから、真氣光のエネルギーをできるだけ効率良く使いたければ、よりいっそう意識をうまく使うことなのです。

個性を大事にしよう

 昨日まで、東京センターで2泊3日の真氣光研修講座を開催しておりました。
今回は、ゴールデンウィーク期間中ということもあってか、若い人、ご年配の人、ご家族、何十年も前から何回も参加している人に加え、初めての人も多い研修になりました。
 研修講座はいろいろな人がご縁を介して集まるものですが、この「いろいろな人」というところがポイントで、似たような人が集まるのも良いのですが、多種多様な人が集まるのも、また違った観点から、それぞれの学びが多くなるものです。
 普通のセミナーなどでは知識に応じて、初級、上級などクラス分けするような構成になりますが、この研修はそうではありません。
真氣光を受けて、いろいろなことに気づいていこうという場ですから、そういうことでは気づくことに初級、上級はないばかりか、多様なことでいろいろな気づきのチャンスが生まれるから良いのです。
かくいう私も、初めての人や若い人から、「なるほど」と思うことや感心すること、さらには質問されて初めて考えることで、自分の気づきになることなどが、たくさんあります。
 宇宙は、私たちに敬愛の心が大切だと伝えて来ています。
どんな人にも、尊敬するべきところ、自分には無いところがあるものです。
ですから「凄いなぁ、よく頑張っているな」等、その人の良いところを見つけられるようにすることです。
それには、それを感じられるセンサーを敏感にしていかなければいけません。
マイナスの氣が邪魔をするように、人の良いところを見えなくさせようとしますから、それに負けないように、「いいとこ探し」を心がけることなのです。
 また、私たち一人ひとりが、自分が生きるうえで、自分なりの考え方や生き方を培っていくこと、個性を磨いていくことも大事です。
これは他の人と違っていて良いわけです。
逆に違っているところに、その人の存在価値があるということにもなります。
ただ、マイナスの氣が、本来のその人らしさを歪めてしまうことがありますから注意が必要です。
 どちらもマイナスの氣が影響を与えることがありますので、真氣光を受けマイナスの氣をプラスに変えることは大切です。
そうすることで、人の良い部分が見えやすくなったり、プラスの氣の応援を受けやすくなることで自分の個性が本来あるべき方向に伸ばしやすくなるからです。
 SNSなどが発達して一人ひとりが情報を発信しやすくなりました。
このような時代ですから、一人の個性が、他に影響を与え、さらに連鎖反応のようにして、多くの人に影響を与えるなど良い氣の伝播が世の中を変えるのだと思うのです。
宇宙も、それを望んでいることでしょう。

言われた・言えないとマイナスの氣

 私たちは、夫婦や家族、職場の仲間や上司、友達等々、人間関係に悩むということが多いものです。
でも、その人間関係のお蔭で、嬉しいことや楽しい事、喜びもたくさん感じられ、自分自身を大きく成長させることができるというのが、私たち「人の間に生活している人間」ということなのでしょう。
ですから、できるだけ悩みあることも、そこから学びにして良いことにしたいものです。
 私などは口が重いので、意志の疎通が言葉無しにできると、どんなに便利なのかと思いますが、思ったことがそのまま伝わってしまうのも少々困ったことになりますから、やはり言葉を通して、しっかりとわかり合えるようにする「努力」というものが必要ですね。
 よく皆さんから聞く言葉に関するトラブルを考えてみると、大きく二通りだと思います。
一つ目が、誰かに暴言を吐かれて、それによって苦しめられたということです。
二つ目は逆の立場で、言いたいことが言えずに苦しんだり、悩むということです。
この場合、暴言でも何でも言えればスッキリするのに、周りの人のことを考えすぎたり気を使いすぎて、自分から言葉に出せなくて苦しむということです。
 どちらの場合も、氣の観点から考えると、マイナスの氣の影響を受けていることが考えられますので、それを考慮しながら真氣光を受けることによって、悩みが少なくなるのではないかと思います。
 一つ目の場合ですが、暴言を吐いている人は、たいていマイナスの氣の影響を受けているし、聞かなければいけない人も、その影響を受けています。
つまり、暴言はマイナスの氣によって言わされているし(ですから言ったことを忘れていることもあります)、それを聞いて落ち込むようにさせられているわけです。
このような場合、気にしないようにすることなのですが、そこが自分の弱いところだから気になり、マイナスの氣が付け入ってくるわけで、それに負けないためには何をしたら良いかを考えてみることです。
 二つ目の場合は、言いたいと思っている自分の魂が、口という体の一部を使えないということですから、そのまま放置すると、ますますマイナスの氣の影響を受けて、氣のエネルギーが落ちる方向になります。
まずは、誰か聞いてくれる人に話せれば、思っていることを口に出来るわけで、マイナスのループから抜けやすくなり、肝心な人にも言えるようになることがあります。
自分は何を気にしているのか、なぜ気を使っているのかを考えてみることです。
 どちらの場合も氣を受けながら、自分を見つめることで、そこに関係しているマイナスの氣が変わりやすくなりますので、真氣光をうまく使ってほしいと思います。

何か意味があることかもしれない

 先週末は宮島での真氣光研修講座が終了して直ぐに、私は飛行機の関係で宮島を離れなければいけませんでした。
時間があれば、もう一泊して、島の中央にある弥山に登りたかったのですが、残念でした。
実は一昨年、研修終了のあと1日滞在し、カメラを用意して登っているのです。
写真を撮って皆さんに、Instagramなどで山頂からの様子をお見せしようと、準備は万端でした。
当日、山に登ってみると快晴で、とても見晴らしがよく、アングルやカットも吟味して写真や映像をカメラにしっかりと収めたはずだったのですが、下山してみてビックリです。
あんなに一生懸命に撮ったものが、全く写っていなかったのです。
唖然としました。
カメラが動作しなかったのか?記録されずに消えたのか?理由がわかりません。
私は、カメラがメモリに記録する時にランプが光るので、しっかりとそれを確認していたのです。
何らかの操作ミスだったのかもしれません。
本当に力が抜ける程、ガッカリしたのを覚えています。
 私は、このような時に、カメラなどの技術的、物理的な問題や私の未熟さ等もあるかもしれないですが、何か氣の関係があるのかもしれない、何か意味があるのかもしれないと、考えるようにしています。
 宮島は、小さな島ですが、人との関わりが深い、とても歴史ある所です。
神社やお寺など宗教的なものが多いですし、戦いの碑も多く見かけます。
氣という観点では、いろいろな氣が、存在しているということになります。
今回の研修でも、真氣光を嫌がるマイナスの氣がたくさん光の方に行かれましたが、そのような氣の関係があったのかもしれないということなのです。
 私の場合、写真を撮って皆さんに見てもらうことで氣が届きやすくなりますから、それを嫌がるマイナスの氣の影響が考えられますし、逆に光が必要なので、もう一度来て登ってほしいというプラスの氣の影響かもしれない等と考えています。
 一般的に氣が関係している場合には、ただ単に邪魔をしたい、足を引っ張りたいというマイナスの氣ばかりではなく、応援してくれているプラスの氣が関係していることも考えられます。
どちらにしても、途中でやめてしまわないで、またトライしてみるのが良いでしょう。
私も、また今度の時には、時間を十分にとって、さらにはカメラもよく点検して、再度トライしたいと思っています。
ところで、今回の研修が始まる前でしたが、私の早朝散歩の様子を写真と映像に撮ってみました。
写真は既にInstagramで紹介したのですがYouTube でも配信しようと思っています。
お楽しみに。

牡蠣の産地・広島で研修講座が始まります

 今日から、広島は宮島での真氣光研修講座が始まりました。
広島といえば牡蠣が有名です。
こちらの宿泊施設は今年で6回目、滞在中の食事には必ず牡蠣が出ておりました。
スタッフが気を利かせて「会長は牡蠣アレルギー」と伝えており、今朝は私の分だけ牡蠣無し味噌汁が配膳されました。
ところが今回私は「牡蠣は大丈夫になりました」と説明して、残りの食事には気兼ねなく出していただくようにお願いした次第です。
 実は私、浪人時代に牡蠣にあたって以来、食べると気持ちが悪くなりトイレから出られなくなるという、もともと好きなものなのに、身体が受け付けなくなってしまったのです。
食後数時間して苦しい目に合うのですが、それ以降は後遺症もないので、いろいろ食べて調べてみました。
判ったのは、鍋やフライなどの調理法や新鮮さには関係なく、無意識に少量食べても駄目ということと、ニューヨークやボストンなど東海岸のものは大丈夫だけれど、同じ米国でもサンフランシスコでは駄目、つまり太平洋産ついでにインド洋産も駄目だったのでした。
 この話は2000年11月2日の本ニュースに書いており、その時に食べて駄目だったのが最後ですから、22年程試していませんでした。
それが今年の正月休みに、恐る恐る食べてみると「全く問題なし」晴れて解禁となったのでした。
近所の魚屋では、岩手産の殻付き牡蠣が美味しそうに並んでいますので、最近では頻繁に堪能しています。
 牡蠣の話ばかりではなく、人は氣の影響が変わることで、体質や性格も変わることがあります。
私も牡蠣については、さんざん試してはみたけれど、何か諦めのように捉えてしまっているところがありました。
さらには、40歳迄は試すという勇気もあったのですが、ある時から、苦しい目には合いたくないという気持ちが先行しておりました。
 人も動物ですから危ない事に遭遇したときは、それを恐怖として、しっかり記憶しておくようにできています。
そうしないと、命の危険に曝されやすくなり、場合によっては死に直結するからです。
ですから、酷い目に合った、大変だった、辛かった等の記憶は、とてもよく記憶され、それが強いと、時には喜び・楽しみや活躍の場を狭めることにもなりますので注意が必要です。
過去のマイナス体験に、マイナスの氣が影響を与えていて、心配や恐怖によって、本来なら出来ることが出来なくさせられていることがあるわけです。
毎日、真氣光を受けていると、そういうものもいつしか光に変わります。
そうすると、変わらないと思っていたことも変わることがありますので、命に関わることは難しいですが、勇気を持って試してみるのも良いでしょう。