「洗心の為の指標」の「マイナスの氣を引き寄せやすい心」に分類されている「咎め」は「とがめ」と読むのですが、何回聞いても読み方を忘れるという方がいました。
これが学校の授業なら「なぜ忘れるんだ!よく覚えなさい」ということになり、先生にしてみたら、その人が何回聞いても覚えられないことに対して、咎めの気持ちが出てくるということになるかもしれません。
この咎めの心を詳しく観てみると、その中には「なぜ分からないんだ」と、自分にとっては当たり前なのに、その人にとっては当たり前ではなく、覚えられないことを望ましくないこととして、注意したり責めたりしたくなるということがあるでしょう。
その時、理由が分かると納得できたり安心できるというものです。
その人には、このような事情があるから難しいことなのだと理解して、一緒に進めるというものでしょう。
咎めの文字を忘れるという方と同じように、私も何回読んでも頭に入らない文字や、文章があったりします。
どうも「氣のせい=マイナスの氣の影響を受けていて頭に入らないようにさせられているせい」ということがあるのです。
つまり、マイナスの氣にとっては、これに意識を向けられると困るので気づかないようにさせたいということなのでしょう。
このように、氣の観点を付け加えて観られると、納得できることが多くなり、視野が広がり対処の仕方も変わるのです。
咎めの話ばかりではなく、よく考えると科学や文明が進歩できたのも、理由や原因が何なのかを深く探求してきたからです。
ですから本来は、何でも「氣のせい」で片づけてはダメなのですが、科学で分からない「氣のせい」ということもあるのだと分かると、より世界が拡がるということなのです。
私は、真氣光を送っていると出てくる魂に対しても「なぜそこに居るのか」と聞くようにしています。
それが分かると、今後そのようなマイナスの氣と縁を作らないために、その人にどのような考えや行動が必要かということが分かるからです。
私たちは、理由を知ったほうが進歩できることが多いし、知りたいのだと思うのです。
そのように考えると、何かを誰かに頼む時にも「私が辛くなるから、これはやっておいてほしい」と理由が分かるほうがよいだろうし、「○○するほうが好きだから、このようにしました」「忙しくて手が回らなかったから、できませんでした」と、原因や理由まで、説明に入れたほうが良いことがあるものです。
私などは、「そんなことはわかっているだろう」と思ってしまって、ついつい忙しいことを言い訳に言葉も簡略化してしまいがちで、いつも反省している次第です。